プロローグ
かつて英雄だった少年は今、死のうとしていた。
椅子に座ってうなだれている彼の正面にあるテーブルには、小さな茶瓶が一つだけ載っている。中身は白い錠剤だが、真の正体はもっとも強力とされている毒物の一つである。飲み込むまでもなく、口に含むだけで命を奪ってしまうほどの効果を持つ猛毒だ。
彼は死ななければならなかった。その為には目の前の薬を飲むしかない。『彼ら』の中の一人は不安だろうからと、苦しむ間もなく死んでしまうと教えてくれた。曰く、これを強要された多くの人々が数秒の中に死ぬという。
苦痛すら伴わない、死ぬのは一瞬だ。それが分かっているのに服用できないのはやはり人情なのだろうか。『彼ら』が多くの政敵を始末してきたのを端目に見ていたが、自分がその一人になろうとはついぞ思わなかった。彼は『彼ら』にとって都合のいい存在であり、こなすべきことを卒なくこなせば地位は安泰であったのに、どこで道を誤ったのだろうか。
同時に思うのは、何故自分などが英雄として崇められているのかということだ。『彼ら』による神格化の賜物なのだが、どうして『彼ら』は自分を英雄として選んだのか。魔法が少し人よりうまくて、仲間とともに義賊まがいの行為をして、地元の人々に感謝されていただけだったはずだ。見た目などは男らしいどころか、女装させたら少女にしか見えないとまで言われた頼りない容姿である。それ以外は他の同世代と変わらぬ子どもだったはず。
今もそうである。同じくらいの少年少女が戦乱が終わり、平和な世の中になって学校に通い、普通の生活を謳歌する彼らを彼は半ば羨望の目で見ていた。しかし、彼らの方は彼を他の人々と同様に救世の英雄として扱うのだ。二者の間には『彼ら』に選ばれたかどうかの差しかないことを彼は十分に承知していた。なのにどうして、と彼は少年少女に訴えたくなったのだが、彼らの放つ彼への尊敬の眼差しはそんな気を失くさせるのだ。せめて嫉妬なら良かったのだが、出逢う皆が皆そうなのだ。
『彼ら』は自分の遺体を恒久的に保存できるよう処理して飾りたいと言っていた。だから毒物による自殺が選ばれたのだ。死に方まで決まっているとは。彼は、最後の最後まで操り人形に過ぎず、自分の意思を介入させることを許されないのかと嘆きたくなった。
ならば、せめて最後に一矢報いたいと考え、他に死ねるものはないかと探そうという気になったが、やはりやめた。ここは死ぬためだけの部屋、そんなもの置かれているわけもない。あるのは彼の座っている椅子と毒薬の載っているテーブルのみだ。テーブルの角に頭をぶつけるのもありだが、こんな薬の一粒も飲めないような彼には出来ぬ相談だった。そんな度胸があれば、『彼ら』に対してクーデターを起こして討死しているだろう。
彼が飲めぬなら、約束の時間きっかりに来る執行人が飲ませるだろう。最悪の死に方である。自殺すら出来なかった奴だとあの男に、世界の真の支配者たる『彼ら』の頂点に君臨する男が自慢の執務室で腹を抱えながら転げまわる様子が容易に頭に浮かんだ。だが、腹が立ったりなどはせず、当然だとしか思わない。だってその通りなのだから。
そろそろ国営放送では彼が自殺したという速報が流されていることだろう。そして、人々は口々に彼の偽りの異形を讃え、嘆き悲しむのだ。反応が気がかりなのは、彼と親しくしてくれた気の置けない仲間たちだ。彼らは心の底から彼の死を悔やんでくれるだろう。一部の者は察して『彼ら』に戦いを挑むかもしれない。その結果、貴重な命を散らすのだ。
今や世界に対する権力を持つ『彼ら』に敵う者などいない。政治も経済も軍事も何もかもを統べる彼らにできないことはほとんどないだろう。『彼ら』の一人は死人すら蘇生させることができると豪語していた。あながち嘘ではないだろう。彼らが生きているといえば生きていて、死んでいるといえば死んでいるのだ。だから、彼は生きているのに世間では無きものとして扱われているのだ。
時計すらない部屋だが、直に執行人がやって来ると確信していた。彼は最後の決心をして茶瓶を手に取ろうとしたその時、床が光り始めた。驚いてそれを見ると、青白い光が魔法陣を描いて浮かび上がっている。魔法が使用できないように処理が施されているこの部屋にどうやって? そこまで考えて、彼はこの世界から姿を消した。