私の親友が尊すぎるので、世界も全力で忖度するらしい
九月の初めの空気は、本来ならまだ肌を刺すような残暑と、まとわりつくような湿気を伴っているはずだった。けれど、私――佐倉つむぎの歩く道だけは、いつも休日の昼下がりのようにぽかぽかとしていて、それでいて風鈴の音を聞いたあとのような涼やかな心地よさで満たされている。
「……はぁ。暑いし、家帰りたくない」
隣を歩く私の親友、結ちゃんが、スマホの画面から視線を上げずに気だるげな溜息をついた。結ちゃんの右手には、さっきコンビニで買ったばかりのソーダ味のアイスキャンディーが握られている。彼女はとても可愛くて、クールで、私の大好きな親友なのだが、今日は少しだけ眉間にシワが寄っていて、不機嫌そうだった。
結ちゃんが不機嫌な理由は、私にはなんとなく分かっていた。彼女のお家には、高校生のお兄さんがいる。結ちゃん曰く「無愛想で、家にいてもずっと無言でテレビを見てるだけの、退屈な兄貴」らしい。結ちゃんはそういう干渉し合わない空気が嫌いじゃないと言いながらも、やっぱり心のどこかでは、そんなドライな日常に退屈し、苛立っているのだ。
(結ちゃんが不機嫌なのは、嫌だなあ)
私は、結ちゃんのサラサラな髪を見つめながら、心の中でそっと願った。結ちゃんには、いつも笑っていてほしい。せめて私と一緒にいる時くらいは、不快な思いなんて一つもせずに、ご機嫌でいてほしい。
――シャン……。
ふと、私の耳の奥で、神社の鈴を鳴らした後のような、透明感のある和琴の一音が響いた。それは、私にしか聞こえない音。私が「こうであってほしい」と願った時、なぜかいつも聞こえてくる、心地よい和音だ。
「……あれ? っていうか、なんでこのアイス、全然溶けないの?」
結ちゃんが、スマホから視線を外して、自分の右手にあるアイスキャンディーを不思議そうに見つめた。袋から出してもう五分は経っているはずなのに、真夏の日差しを浴びているはずのアイスには霜がついたままで、一滴の雫も垂れていなかった。
(よかった。アイスがドロドロになったら、結ちゃん、手がベタベタして余計に不機嫌になっちゃうもんね)
私はホッと胸を撫で下ろした。私には難しいことは分からないけれど、私が「溶けないで」と願うと、結ちゃんの周りの空気だけが、なぜか不思議な力でひんやりと保たれるのだ。まるで、世界が結ちゃんのために、一番心地よい温度をプレゼントしてくれているみたいに。
「結ちゃんが食べるの、早いからじゃない?」
「いや、絶対違う。一口しか食べてないし。……っていうか、ほら、見てよこれ」
結ちゃんは、呆れたようにスマホの画面を私に向けた。画面の右上、バッテリーの残量表示は『100%』を指したままだ。
「朝から充電してないし、ずっと動画見てるのに、つむぎと合流してから一パーセントも減ってない。どういうこと? 私のスマホ、壊れたのかな」
結ちゃんは首を傾げている。それもそのはずだ。私の耳に和琴の音が響いている間、結ちゃんのスマホのバッテリーは、まるで世界が彼女の機嫌を損ねまいと、見えない手でこっそり数字を書き換えて、満タンのままにしてくれているのだから。
「結ちゃんのスマホ、きっと私のこと好きなんだよ。だから上機嫌なんだね」
「機械が上機嫌って。……まあ、いいけど」
結ちゃんは小さく息を吐き、ようやくスマホをポケットにしまってアイスをかじった。パキッ、と冷凍庫から出したばかりのような硬い音が響く。その瞬間、結ちゃんの眉間に寄っていたシワが、ふわりとほどけた。
「……美味しい」
「ふふっ、よかった! 結ちゃんは、日頃の行いがいいからだよ。世界中が結ちゃんの味方なんだよ」
私が満面の笑みで言うと、結ちゃんは「つむぎって、本当に能天気だよね」と毒づきながらも、どこかホッとしたように肩の力を抜いた。
私は、結ちゃんの役に立つようなすごいことは何もできない。でも、彼女の歩く道の信号を全部青に変えたり、アイスを溶かさなくしたり、少しだけ「世界に忖度してもらう」ことならできる。結ちゃんがご機嫌なら、世界は今日も平和だ。
「ねえ結ちゃん、いつもの神社、寄ってこ!」
「えー、またあそこ? 何もないじゃん」
「いいからいいから。あそこの空気、すっごく美味しいんだよ」
私は結ちゃんの腕を引き、街外れにある裏山へと向かう坂道を登り始めた。
街外れの、古びた鳥居が立つ小さな神社。木々が鬱蒼と茂り、昼間でも薄暗いその場所は、私にとって最高のお気に入りの居場所だった。
境内に入った瞬間、空気が少しだけひんやりとする。結ちゃんは「なんかここ、ジメジメしてて嫌なんだけど」と不満げに鼻をすする。でも、私にとっては違う。この神社には、都会の排気ガスとは違う、ほんのわずかだけど、どこか甘くて特別な「上機嫌な空気」が漂っているのだ。
(ああ、今日も空気が美味しいな……)
私は境内の真ん中で、両手を広げて深呼吸をした。この空気をいっぱい吸い込むと、私の中にある「結ちゃんに笑ってほしい」という気持ちが、もっと強くて優しい波になって、周囲に広がっていくのが分かる。
「結ちゃん、ほら、座ろ」
私は、社務所の縁側に腰掛け、結ちゃんの隣のスペースをポンポンと叩いた。結ちゃんは渋々といった様子で私の隣に座り、足をブラブラとさせた。ここから見下ろす街の夕暮れは、とても静かで美しい。
「……ねえ、つむぎ」
「ん?」
「家に帰りたくないって言ったの、ホントだよ。……家に帰っても、あの無愛想な兄貴がいて、ただ退屈なだけだから」
結ちゃんが、ポツリとこぼした。彼女の抱える、日常のモヤモヤ。お兄さんのことが嫌いなわけじゃないはずなのに、うまく言葉を交わせない不器用さが、彼女を少しだけ傷つけている。
「そっか。……じゃあ、ここでずっと一緒にいようよ」
私は微笑んで、結ちゃんの頭にそっと寄りかかった。
――シャン……。
また、耳の奥で和琴が鳴った。神社に漂う特別な空気が、私の願いと結びつき、結ちゃんの周りを温かい毛布のように包み込む。世界が、結ちゃんの心を癒やすために、一番心地よい空間をこっそり作ってくれる。
「……あれ。なんか急に、涼しくて……気持ちよくなった……」
結ちゃんは不思議そうに呟き、やがて安心したように、私の肩にこてんと頭を乗せてきた。彼女の寝息が、静かに聞こえ始める。
結ちゃんの抱える退屈や苛立ちを、根本から解決することは私にはできないかもしれない。でも、こうやって彼女が安らげる状態を維持し続けることなら、いつまでもできる。
「おやすみ、結ちゃん。……明日も明後日も、私がずっとご機嫌にしてあげるからね」
私は、世界で一番大切な親友の寝顔を見つめながら、ぽかぽかとした夕暮れの中で小さく微笑んだ。
神社でしばらく涼んだ後、私たちは重い腰を上げて家路についた。空はすっかりオレンジ色から薄暗い群青色へと変わり始めている。結ちゃんは、さっきまで私の肩に寄りかかってうたた寝をしていたおかげか、不機嫌だった顔つきはすっかり消え、いつもの涼やかな表情に戻っていた。
「あーあ、結局こんな時間か。でも、今日はなんかすごくよく眠れたかも」
結ちゃんは伸びをしながら、ふわりと笑った。その笑顔を見られただけで、私は今日一日が最高の記念日になったような気がして、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。お兄さんのことで退屈していても、結ちゃんがこうして笑ってくれるなら、それでいい。
だが、そんな私たちの穏やかな空気を、突然の気まぐれな天気が邪魔をした。
ゴロゴロ……ッ。
遠くで低い雷の音が鳴ったかと思うと、頭上の空が急激に真っ黒な雨雲に覆われ始めたのだ。夏の終わりの、典型的なゲリラ豪雨の予兆だった。ポツ、ポツと、大粒の雨が乾いた参道の土に黒いシミを作り始める。
「うそ、最悪……! 私、傘持ってない!」
「私も持ってないや。急ごう、結ちゃん!」
私たちは鞄を抱えて、小走りで坂道を下り始めた。だが、不運は重なるものだ。私たちが細い路地を曲がろうとしたその時、前方から猛スピードで自転車が突っ込んできた。
「どけどけェッ!」
乗っていたのは、柄の悪い高校生の男子だった。雨から逃げようとしているのか、周りを全く見ずにペダルを立ち漕ぎしている。その自転車の進行方向には、さっきの雨でできたばかりの大きな水たまりがあった。そして、そのすぐ真横を、結ちゃんが歩いている。
「あ……」
結ちゃんの顔が青ざめた。このまま自転車が突っ込んでくれば、間違いなく大量の泥水が跳ね上がり、結ちゃんを直撃する。結ちゃんのお気に入りの服が、泥まみれになってしまう。
結ちゃんは咄嗟に身をすくめ、目をギュッと瞑った。
(……ダメ)
私は、その光景をスローモーションのように見つめていた。せっかく結ちゃんがご機嫌になって、笑ってくれたのに。彼女のその穏やかな時間を、あんな無神経な自転車や泥水に、理不尽に壊されてたまるもんか。
(結ちゃんを、絶対に汚さないで……!)
私が、強く、強く願った瞬間。耳の奥で、今までで一番澄み切った、あの美しい和琴の音が響き渡った。
――シャアァァァァァン……!!
その音が鳴った瞬間、世界は結ちゃんのために「完璧な忖度」を始めた。
パンッ!!
突如、大きな破裂音が路地に響いた。猛スピードで突っ込んできていた高校生の自転車のタイヤが、何もない平坦な道で、まるで目に見えない何かに噛みつかれたかのように突然パンクしたのだ。
「うおわッ!?」
タイヤの空気が一瞬で抜け、自転車は激しくバランスを崩した。高校生は水たまりの手前で無様に放り出され、彼自身が泥水の中へと頭から突っ込んでいった。ザバーン!という派手な水音と共に、彼はずぶ濡れの泥だらけになって地面を転がった。
そして、それだけではない。
ザーーーッ!! と、ついに本格的な土砂降りの雨が空から落ちてきた。普通なら、私たちも一瞬でずぶ濡れになるはずの雨量だ。けれど、私と結ちゃんが立っている空間だけは、まるで透明なドームにでも覆われているかのように、一滴の雨も落ちてこなかったのだ。
私たちの頭上に降り注いだ雨粒は、見えない傘に弾かれるように不自然に軌道を曲げ、私たちの足元の周囲にだけ円を描くように落ちていく。泥水に突っ込んだ高校生がゲホゲホとむせている横で、私と結ちゃんは、靴の先さえ濡れることなく、完全に乾ききっていた。
「……えっ?」
結ちゃんが、恐る恐る目を開けた。目の前には、泥まみれで呻いている高校生と、土砂降りの雨。しかし、自分は一滴も濡れていない。結ちゃんは信じられないという顔で、自分の服と、そして空を見上げた。
「……何、これ。どういうこと……? 雨、避けてる……?」
「ふふっ。だから言ったでしょ、結ちゃん」
私は、驚いている結ちゃんの手を引いて、優しく微笑んだ。
「結ちゃんは、世界中から愛されてるんだよ。危ない自転車は勝手に転ぶし、雨だって結ちゃんを濡らしたくないって避けてくれるの」
「……そんなオカルト、あるわけないじゃん。……でも」
結ちゃんは呆れたように言いながら、泥だらけの高校生を見て、今度は堪えきれずに「ふふっ」と吹き出した。
「……やっぱり、つむぎと一緒にいると、本当に運がいい。ちょっと、過保護すぎるくらいに」
「えへへ。結ちゃんが笑ってくれたから、世界もご機嫌なんだよ」
結ちゃんは「意味わかんない」と笑って、私を促した。私たちは、土砂降りの雨の中を、一滴も濡れることなく肩を並べて歩いていく。泥だらけの高校生が「なんだよあの傘……いや、傘さしてねえぞ!?」と後ろで騒いでいたけれど、私たちはもう振り返らなかった。
どういう理屈でこんなことが起きているのか、私には分からない。でも、そんなことはどうでもいい。私の大好きな結ちゃんが、こうして不機嫌にならずに笑ってくれている。それだけで、この世界は今日も完璧に素晴らしいのだ。
それから数日後の、朝。
私は通学路を歩きながら、スマホの画面を眺めていた。画面には、結ちゃんからのチャットアプリのメッセージが届いている。
『今日、学校終わったら寄り道して帰ろ。駅前にできたお店で、新作のアイス食べたい』
文面からは、結ちゃんが少しだけウキウキしている様子が目に浮かぶようだ。私は、歩きながらふわりと笑って、すぐに返信を打ち込んだ。
『うん、遊ぼう! 今日も絶対いい日になるよ、結ちゃん!』
送信ボタンを押す。すると、耳の奥で、またあの心地よい和琴の音が「シャン……」と響いた。
今日も世界は上機嫌だ。私が「いい日になるよ」と肯定した限り、結ちゃんのスマホのバッテリーは今日も100%から減ることはないし、歩く道の信号はすべて、私たちが渡りやすいように青に変わるのだから。
「あ、つむぎー! おはよう!」
「あ、結ちゃん! おはよう!」
交差点の向こう側から、結ちゃんが手を振って走ってくる。
私はスマホをポケットにしまい、大好きな親友に向かって大きく手を振り返した。
世界がちょっと過保護すぎるこの平和な日常で、私たちの退屈で尊い時間は、今日もぽかぽかと続いていく。




