とんずらした兄のことは許さないけれど、兄の元婚約者と幸せな家庭を築いた僕の話。
陽の当たるサンルームで、普段はお茶会などに使う可憐な装飾のテーブルに何やら大量の資料を広げて睨めっこしている女性がいる。
高い位置で作ったお団子は陽射しを浴びて金色に輝き、真剣に書面を見つめる瞳は新緑の色。
凛々しい横顔についつい見入ってしまう自分に苦笑しながら、サンルームの扉をコンコンと指の第二関節でノックした。
「ダーリン、少しいいだろうか?」
「まあ……何でしょう、私の可愛い旦那様?」
こちらを向いて微笑んだ彼女の眩しさに思わず目を細めてしまう。
気の強そうな顔立ちだが、その瞳の色は若葉のように柔らかく瑞々しい。
彼女との出会いは七年前。
きっかけは、僕の兄の裏切りだった。
僕はグラフィア侯爵家の三男坊として生まれた。
グラフィア家は、侯爵位以外にもふたつの爵位を持つほどの古くて大きな家だったが、三男ともなれば一般的には家督継承からは外れてしまう。
父からも爵位を継承させるのは兄ふたりに留めると言われたため、三男の僕は手に職をつけるべく、早々に家を出て国営の兵学校に入学した。
我が国の職人たちは皆『予備兵』としての肩書きを持つ。
鋳造関係や整備関係に留まらず、紙や布を扱う職人であっても有事の際には何かと必要とされるものだ。
職人としての技術や製品情報をいたずらに諸外国へ流出しないことを約束し、軍事行動が起きた場合は速やかに国の命に従い国家の為に働くという制約を結んだ者だけが、国から正式に職人として認められ、様々な支援を受けることができる。
とはいえ、この国は比較的平和な状態を維持している。
国境付近での密猟行為や領海域を巡っての小競り合いはあるものの、正規軍で事足りているため、予備兵が動員される程の大規模な戦闘はここ数十年起きていない。
兵学校では初年度に兵士としての基礎を学び、
二年度から各種専門分野に別れて『戦時下』で求められる行動や技能を学び、
三年度以降にようやく希望する職種ごとの技術研修となる。
僕はもともと機関士になりたかったため、船と鉄道それぞれの技術研修を受け、兵学校を卒業したあとは国営の鉄道会社に入社した。
下働きの時期も含めて八年……やっと仕事も生活も安定して、自分の人生を楽しみ始めたところで、唐突に実家の侯爵家へと呼び戻されたのだ。
………二番目の兄が、婚約者を捨てて平民の女と駆け落ちしたという。
僕じゃなくて阿呆なことをした兄貴を探し出して連れ戻せよ…と思ったけれど、怒り心頭の両親は、既に次兄の除籍手続きを済ませていた。
除籍されればグラフィア侯爵家の家名を使うことが出来なくなる。つまり貴族から平民に身分が落ちることと同義。
両親を裏切った兄は、栄えあるグラフィア侯爵家の次男であり次期カーセル子爵家当主という肩書きを失い、ただの無職(資産・持ち家なし)の男へと転落したわけだ。
グラフィア侯爵家の名で開設されていた兄の銀行口座は凍結され、今後は小切手類も一切使えなくなる。
彼がどれだけの金を持って出て行ったかは知らないが、貴族の金銭感覚で散財し続ければ、すぐさま手持ちは尽きることだろう。
実家に戻ってきても門前払いを受け、強引に敷地内へ踏み込もうとすれば衛兵に捕らえられ無断侵入の罪を負う。
ちなみに兄は、母の所有する大事な宝飾品もいくつか無断で持ち出していたようで、のこのこと戻って来れば窃盗罪でも逮捕される予定だ。
父も母も、兄に恩情をかけるつもりは微塵もない。
そうして連れ戻された久々の侯爵家にて、僕はみっちりと爵位継承の為に必要な教養を叩き込まれた。
両親は、逃げ出した次兄が継ぐ予定だったカーセル子爵位を僕に継がせるつもりで呼び戻したのだ。
みっっっっちり。
それはもうみっちりと。
逃亡など決して許されない圧で机に縛りつけられ、機関士見習い時代に経験した苦難など屁の河童だったのだと思えてしまうほどの厳しい指導が、朝から晩まで懇々と。
悲鳴を上げて逃げ出したくなるような地獄の時間は、三ヶ月間休みなく続けられた。
気を紛らわせるべく隙間時間で始めた土いじりだけが心の安らぎだったが、庭師からは「坊ちゃんそんなに暇なんですかい?」と勘違いされ不憫そうな目を向けられてしまった。
そして三ヶ月後、僕は両親と共に、兄の本来の婚約者であった、オレキシン子爵令嬢の家を訪れていた。
案内された客間のソファには、熊のような立派な図体を持つオレキシン子爵が座り、その隣に夫人と令嬢が座っていた。
上座に案内された父は、侍従に持たせていた書類を子爵へと手渡す。
内容については先に話し合いが済んでいたのだろう。ざっと目を通したオレキシン子爵は、物々しく頷くと、侍女に持って来させた印を重々しく書面に押し付けた。
「オレキシン子爵家はグラフィア侯爵家からの謝意を受け取ったことをここに証明する」
「痛み入る。そして改めて、この場を設けて頂けた事に感謝する」
「慰謝料とは別に、詫びの品を手渡したいと言われましたからな。元ご子息の首でも得られましたか?」
ははは、と笑い声はするものの、オレキシン子爵の顔は全く笑っていない。
それもそうだろう。
兄とオレキシン子爵令嬢との婚約は、グラフィア侯爵家がどうしてもと願い出て実現したものだ。
更には、国の事業に関わる事であったため、王太子妃殿下の生家であり我が家よりも遥かに歴史深く権威あるダーミリアン侯爵家が仲人として立ってくれていた。
つまり駆け落ちした馬鹿兄は、オレキシン子爵家の好意を無下にしたばかりか、王太子妃殿下とその生家のダーミリアン侯爵家の顔に泥を塗りたくったというわけだ。
はははは…と低く乾いた笑い声が交わされるたびに部屋の温度が一度ずつ下がるようだ。
笑えない冗談の応酬を軽く嗜んだ父とオレキシン子爵は、ほぼ同じタイミングでグラスに手を伸ばした。
口を付けてグラスを置いたふたりの顔からは笑みが消えており、一瞬で空気がピリリと張り詰める。
これこそが貴族の社交というものなのだろう。
子爵位を継ぐからにはこんなやり取りをしてみせろと言われても、つい数ヶ月前まで平民同然の生活をしていた自分には不可能としか思えない。
ついつい背中を丸めそうになると、母から腰から尻のあたりをぺしりと叩かれた。慌てて背を伸ばして話の行方に耳を澄ませる。
不意にオレキシン子爵の鋭い目が向けられ、心臓が止まるような心地がした。
「……そちらが侯爵家自慢の三男坊でいらっしゃいますかな?名前をお伺いしても?」
「紹介が遅れて申し訳ない。この子は兵学校を卒業後、国営鉄道にて機関士を務めていました。先日呼び戻したばかりですが……不慣れながらも良く学んでいます」
父からの不意の褒め言葉に驚いていると、また母から尻の辺りを軽く叩かれた。
ハッとして、慌ててオレキシン子爵に挨拶を述べる。
熊のような厳つい容貌だが、その緑の眼差しはどこか温もりがある。
……もちろん、こちらを見定めるような鋭さも潜んでいるけれど。
「初めてお目にかかります、アーキオと申します」
「私はノイロン・オレキシンという。アーキオ殿、きみは…我が領地のことをどのくらい知っているだろうか」
「は、はい…オレキシン子爵領は西に豊かな自然と山を持ち、林業が盛んです。
稀少鉱石の産出と取り扱いをなさっているとも。ですが山から降りて来る獣による被害も少なくないため、領内の自警団には猟銃の携帯が許可され、日々の哨戒に当たっていると聞いています。
オレキシン子爵領における最大の特徴はやはり、隣のドルニエ伯爵領と共同で運営されている私設のトロッコ列車でしょう。
あの素晴らしさといったら、もう…!
機関士として鉄道会社に勤めている時に、何度も同僚と語り合ったものです。
もしもトロッコ列車を一般解放する特別な行事などがあれば、国中の機関士や整備士、鉄道好きが我先にと詰めかけることだと思います!」
気づかないうちに熱が入り過ぎていたようで、話し終えた時には室内には唖然とした空気が流れていた。しまった…と反省する間もなく、オレキシン子爵の弾けるような笑い声が響く。
「わっはっは!威勢が良くて面白い青年じゃないか!」
「す、すみません…」
「しかし、トロッコを使った催しか…良い着眼点だが、あの古列車にそんなに人が集まるものかな?」
「もちろんです!皆が皆、休暇を申請し過ぎて国営鉄道が運行不可となってしまうくらいに、仕事を休んででも大勢の鉄道好きがやって来ると思います!」
「そうか…!ははは!それは国から苦情が来そうだな!」
「ふふ……そんなにトロッコ列車がお好きなら、貨車を見せて差し上げては?」
「え!?良いのですか、母上!……あ!すみません!母上ではなく、その、オレキシン子爵夫人…っ」
慌てふためく僕の隣で、母…グラフィア侯爵夫人は深々とため息を吐き、向かいのオレキシン子爵夫人はころころと愉しげに笑った。
子爵夫人の隣に座っているリゼリア嬢はほとんど反応していなかったが、夫人の様子を見たオレキシン子爵が深く頷いたことで、父は僕の背中をそっと押し出した。
「……では、受け取っていただけますかな?」
「え??」
「そうですな……その返事は半年後まで保留させていただきましょう。いくら人柄が良くとも今の彼では腹の探り合いすら出来そうにありませんから、もう少し貴族としての体裁を整える必要がおありかと。ですがまあ…恋人として逢瀬を重ねるくらいは許しましょうか」
「へ??」
恋人…?逢瀬…??
呆然とする僕を置き去りに、話は纏まってしまったようだ。
僕は、のしを付けてオレキシン子爵家へと差し出され……
駆け落ちした兄の代わりに爵位を継ぐばかりか、兄の元婚約者のご令嬢との仲を深めなくてはならなくなった。
僕が継承するカーセル子爵の管理地に、鉄道は通っていない。
海もないし、船もない。
つまり、機関士としての腕のふるいどころが全くない。
対してオレキシン子爵の有する領地には、国営鉄道こそ通っていないものの、山で切り出した木材を運ぶためのトロッコ列車が運行している。
ドルニエ伯爵領とオレキシン子爵領を繋ぐトロッコ列車は、国営鉄道の前身として試作的に引かれたものだ。歴史は古く、走っている列車も旧式で、主に資材の運搬で利用するため、客車ではなく貨車のみが繋がっている。
ドルニエ伯爵領とオレキシン子爵領にはお抱えの整備士や機関士がおり、国営鉄道に従事した技術者の多くが、老後は二領のどちらかに移住してトロッコ列車を扱いたい…と希望するほどに根強い人気と憧れの詰まった列車なのだ。
(そんなトロッコ列車の貴重な貨車に、乗ってしまった…!!)
のしを付けて差し出されたあと、若い二人で少し散歩でもして来なさいと庭に放り出された僕は当然ながらリゼリア嬢とどう接していいのか全くわからなかった。
兵学校時代や機関士の頃に仲良くした女の子たちとは、食べ物の話や仕事の話をしていた。ふたりきりで出掛ける時も、街で美味しいものを食べて軽く買い物して…時に甘い雰囲気を楽しむ程度の嗜みしか経験がない。
だから、優雅なレースの日傘を差した、美しいドレス姿の女性とは一体何を話し、どんな過ごし方をすればいいのか全然わからない。
兄の名を出すわけにもいかないため、話題、話題…!と頭を悩ませているうちに幾何学的に切り揃えられた庭の散歩も終わってしまう。
スタート地点へ戻ったとして、その後はどうすればいいんだ…!?と絶望しながら必死で頭を巡らせていると、不意にリゼリア嬢が「こちらへ」と足先を反転させた。
ドレスを着ているご婦人とは思えぬ足捌きでスタスタと足早に歩くリゼリア嬢の後ろを、僕は慌てて追いかける。
数分もせずに、僕の目の前には鉄の塊が現れた。
「これは……もしかして……」
「トロッコ列車の貨車の試作品です。運行している貨車はこれよりもひと回り大きなものとなりますけれど……これを参考に、トロッコの貨車も、国営鉄道に繋ぐ貨車も作られたと聞いています」
「す、すごい…!絵を見たことはあるんです!でも、まさか本物を見れるなんて!」
「貨車ですけれど、乗ってみますか?……ああでも、服が汚れてしまいますね…」
「汚れても自分で洗うので大丈夫です!油汚れを落とすにはコツがいるんです……って今はそれどころじゃない!本物だ!すごい…本当に乗ってもいいんですか!?」
どうぞとばかりに踏み台を示されたため、深呼吸をして一歩踏み出す。
いくらか錆びてはいるものの、丁寧に磨かれているため損傷は少ない。
こんな鉄の箱に乗ったところで一体何が楽しいのかと聞かれても、好きなものに乗る事以上に楽しいことはない。
家に呼び戻されておよそ三ヶ月……飢えていた鉄道欲が満たされる心地に思わず涙が出そうになる。
どのくらい貨車に見入っていただろう。「侯爵家の皆さまが心配なさるでしょうし、そろそろ戻りましょう」と声を掛けられ、慌てて貨車から飛び降りた。
僕が貨車を堪能しているあいだ、文句のひとつも言わずにじっと待っていてくれたリゼリア嬢に、興奮のまま感謝を伝える。
「素敵なものを見せてくださって、本当にありがとうございます!庭に貨車があるなんて…素敵なお屋敷ですね…!」
一瞬呆気にとられたリゼリア嬢は、ややあって「ふふ!」と大きく噴き出した。
日傘で顔は隠していたけれど、咽せるほどに笑ったあと「可笑しなひと…」と小さく呟かれる。
その言葉に鋭い棘はなく、先ほど子爵が「面白い青年だ」と大笑いした時と同じ温度が宿っていた。
ひとまず嫌われてはいない…?と内心首を傾げながら、戻った客間では、貨車のオイルで手や服裾が汚れていることに気づいた母から閉じた扇子で思いっきり尻を叩かれたワケだけれど。
とにもかくにも、僕にとってオレキシン子爵領は、憧れのトロッコ列車の走る(ついでにお屋敷の裏庭には貴重な貨車の試作品が置かれている)素敵な場所という認識になった。
ゆえに僕は、死ぬほどツラい実家での勉学から抜け出す口実として、月に一度はオレキシン子爵家へご訪問のお伺いを立てる手紙を送っている。
父からも「リゼリア嬢を大事にするように」と、地面にめり込みそうな程の圧で言いつけられているし、庭で土いじりをしていたら日傘でお尻を叩いてくる母も、ご令嬢へ会いに行くと言えば笑顔で見送ってくれる。
単身馬を走らせれば二日ほどでたどり着くオレキシン子爵領ではいつも、夫人とリゼリア嬢が揃って出迎えてくれた。
リゼリア嬢は凛とした顔立ちと小麦色の髪、意志の強そうな緑眼を持つご令嬢で、高い位置で結ったポニーテールが印象的だ。
なるほどこれは…と納得してしまうのは大層失礼な話だけれど、平民と駆け落ちした兄とはお世辞にも相性が良いとは思えない。
グラフィア侯爵家の次男に生まれた兄は、「長兄に何かあった時はお前が家を背負うのだ」と言われて育ち、幼少期から少なくとも子爵位は継がせて貰えると確約されていた。
だから自分は侯爵家にとって必要不可欠な存在なのだと自負しまくっており、プライドが高く、鏡の前で酔いしれるほどに自分大好き人間だった。
対するリゼリア嬢は、立ち居振る舞いからどうしても気が強そうな印象を受けてしまう。
それに、領内の事業に対する知識は驚くほどに深く、トロッコ列車に関しては運行上の問題点に対して革新的な意見を述べるなど、当時十二歳の少女がやったとは思えない驚きの実績を持っていた。
つまり……列車関係のことは門外漢な兄にとって、先導しようとするリゼリア嬢の姿は散々プライドに障ったことだろう。
(だからといって駆け落ちなんかしたら、これまでの全部が水の泡だろうに……。)
そもそもグラフィア侯爵家がオレキシン子爵家に婚約を願い出たのは、侯爵家の領地に新しく国営鉄道の線路を伸ばす計画があると王太子殿下から告げられた為だ。
父にとっても寝耳に水だったに違いない。
今現在鉄道事業に関与している家の令嬢たちは軒並み、既婚か未婚であれど既に婚約者が決まっている女性ばかり。
空いていたのは五歳になったばかりの少女だけ。
さすがに五歳の幼子を息子の婚約者(しかも未来の子爵夫人)にと据え置く考えは父にはなかったようで、国内を見渡し、私設とはいえトロッコ列車を有し、鉄道関連に深い造詣を持つ家として白羽の矢が立ったのがオレキシン子爵家だった。
父は、次期侯爵である長兄を鉄道事業の責任者として据え置き、
子爵位を継ぐ次兄には、知識深いリゼリア嬢と共に長兄の事業を支えさせる…という構想を持っていた。
ちなみに三男の僕は、鉄道の運行が始まり次第、金と権力を惜しみなく使って侯爵領に呼び寄せる手筈だったらしい。
つまり、三兄弟で協力して大事を成し遂げてみせろ…という父の目論見は、次兄の逃亡により粉々に粉砕されたのだ。
今回侯爵家が各関係者に支払った慰謝料は、鉄道事業に充てようと確保していた資金のおよそ半分近くにも及んだ。
数年間かけて準備してきた事業計画が資金難で頓挫するなど、父のプライドが許さない。
次兄は見つかり次第とんでもない事になる…という噂も耳にしているが、極めて一般人な僕は目と耳を塞いでおくのがいいだろう。内臓の値段とか聞きたいものではないし、兄の変わり果てた姿を見たいものでもない。
次兄に代わりカーセル子爵という爵位と小領地を預かることになった僕は、リゼリア嬢と協力して長兄の鉄道事業を補佐していくようにと望まれている。
補佐するのは別にいい。鉄道のことを考えるのは好きだし。
でも、僕がどれだけ頑張ったところで自分の領地に鉄道が走るわけではないし、機関士として運行に従事できるわけでもない。その点で少し、モチベーションは下がってしまう。
出迎えてくれたオレキシン子爵夫人とリゼリア嬢に頭を下げる。
鞍を付けた馬で走ってきたせいで、汗と砂埃で汚れてしまっている。
最初に訪問した時は「馬車を使わなかったの!?」と驚かれてしまったが、今ではもう慣れたもので、夫人の眼差しは泥だらけになった子どもを見るかのようだ。
馬車を使うと整備された道を通らなければならないため、片道四日はかかる。
初めてひとりでオレキシン領を訪問することになった時、僕は考えた。
女性を伴わない男ひとり旅で、道中の治安もさほど悪くない。途中手頃な安宿に泊まれば馬で二日で着くし、道を選べばトロッコ列車の線路をちょっとだけ並走できる。
断然そちらだ!と思い馬を走らせたのだが……汚れてしまうのは想定外だった。
屋敷に到着してすぐ、湯を借りる事態になってしまった事を詫びた僕に、屋敷に居た子爵は「そこまでして早くうちの娘に会いたかったのか!」とご機嫌な様子で、次回からはトロッコの沿線沿いにある知人の家に一泊できるよう手配してくれたし、夫人も「せっかくなら裏庭の貨車と交流してからお風呂に入ってはどう?」と素敵な提案をしてくれた。
(ちなみに馬車を使って居ないことが母にバレて実家で物凄く怒られたけど、今もオレキシン子爵夫妻のご厚意に有り難く甘えさせてもらっている)
「いらっしゃい。今日も庭の貨車を触ってからお風呂にお入りになるでしょう?その後はトロッコの見える丘をお散歩かしら?今の時期は湖畔からも素敵な景色が見られるわよ」
「湖に反射する列車ですか、いいですね!……あ、ですが、リゼリア嬢のしたい事や行きたい場所があるなら…」
夫人からの申し出にテンションが上がってしまったが、慌ててご令嬢優先ですと付け加える。
正直、貴族のお嬢さんがデートに何を求めているか未だによくわからない。
大事なお嬢さんをどこまで連れ出していいかもわからず、とりあえず日帰りで行ける場所を教えてもらっては、散策しながらポツポツとおしゃべりしたり、子爵家のシェフが用意してくれた軽食を摂ったり…。
まあ、それもデートといえばデートっぽいか。
裏庭の貨車とも数回目になる感動の対面を果たし、客間の浴室で手早く汚れを落として身支度を済ませる。
いつも通り、待たせてしまったことを詫び、夫人(と今日は子爵も居た)に、挨拶をして屋敷を出る。
オレキシン子爵家所有の馬車に乗り込むと、滑らかに車輪が滑り出す。
車内の向かいの席には、夜会服に比べると散策しやすそうな衣装を着たリゼリア嬢と、軽食の入ったバスケットを膝に抱えた侍女が乗っているし、僕の隣の席には敷物などの簡単な荷物が鎮座している。
馬車のカーテンは開けられており、街を抜けると窓の外には自然豊かな風景が広がり始めた。
時折トロッコ列車がもうもうと煙を上げて走りゆく景色を眺めながら、常々思うのは、僕と結婚することはリゼリア嬢にとっての幸福なのだろうかということだ。
おそらく、リゼリア嬢は列車が好きだ。
自領に走るトロッコ列車を見つめる眼差しは、いつだって柔らかく、優しい色を帯びている。
もしかすると彼女は、家や領地のために結婚するのではなく、自分の好きなものを追求して生きて行きたかったのではないかと思う。
(婚約を申し出たのがグラフィア侯爵家で、仲介してくれたのがダーミリアン侯爵家となれば、彼女に断るという選択肢は与えられなかったに違いない…)
オレキシン子爵が娘の不幸を望む筈もないが、ふたつの大貴族からの申し出を払い除けられるほどの強大な権力は持っていないだろう。
次兄が逃げたあと、オレキシン子爵夫人とリゼリア嬢は王太子妃主催のお茶会にも呼ばれたと聞く。そこでどんなやり取りがあったのか僕には想像もつかないが、僕と婚約を結び直すよう説得されたのだとすれば……心底申し訳ない気持ちになる。
オレキシン子爵家に宿泊させてもらうと、夕飯のあとに皆で集まって列車の事を話す機会がある。そんな時にも彼女は興味がないと部屋に戻るのではなく、同席するばかりか気後れすることなく堂々と意見を言う。
的外れなものではなくちゃんと筋の通った内容からも、勉強を重ねているのだとわかる。
僕と彼女が結婚して、僕がカーセル子爵の名前を継いだとしても、カーセル子爵領には鉄道は通らない。
隣接するグラフィア侯爵領には駅と線路が設置されるし、相談役としてその事業に多少関わることは出来ても……線路が完成してしまえば、そこまでだ。
勿体無いと思う。
彼女ほどの才能であれば、機関士あがりの偽物貴族な僕でなくとも、引く手数多だろう。
僕とリゼリア嬢との婚約について、オレキシン子爵は父に「返事は半年後に保留する」と告げた。そろそろ、約束の半年に至ろうとしている。
ここへ来る前、父からは、折を見て子爵から返事を聞いてくるようにと言い付けられた。
正式な書面での通達は後日になるものの、顔を合わせたうえでの、言葉でのやり取りも必要なのだと父は言う。表情を読み、声の温度を感じる事で、相手の真意が推し測れるそうだ。
そして馬車に乗る前、オレキシン子爵からは思いっきり尻を叩かれた。
「バシッと決めてこい!お前さんになら任せられる!」と言っていたが、なぜ皆、僕の尻を叩くのか……そして、どうか僕に大事な決定を委ねないでほしい。
湖畔にシートを敷いて、軽食を食べる。
侯爵家で出てくる料理よりもシンプルな味わいで、すっかり下町の薄味に慣れてしまっている僕の口にも馴染む。
同行してくれる侍女はいつも、邪魔をしないようにと軽食や散歩の支度を済ませると馬車へ戻っていくから、敷物の上にはふたりきり。
ゴトゴトと遠くから音が聞こえたため目を向ければ、重そうな荷を積んだトロッコ列車が緩やかな速度で走っていく。
街中の賑わいも好きだけれど、こういう穏やかさも嫌いじゃない。
青い空と、ぷかりと浮かぶ白い雲。ガタゴトと揺れるトロッコ列車に、風に流れる黒煙の尾。
(………さて、どう切り出したものか…)
列車はすっかり見えなくなって、風ばかりが通り抜ける。
子爵からの返事を聞く前に、リゼリア嬢の意思を確認しておいた方がいいだろう。
断れないので仕方なく貴方と婚約し結婚します…という考えだった場合、僕が泥を被ってもいいから、どうにか彼女の希望に沿う道へ至れないか話し合おう。
(でも、二度も婚約話が流れるというのは、彼女にとって致命的になってしまわないだろうか……)
悶々と考え込む僕の耳に、風に乗って凛とした声が届いた。
「お父さまにお尻を叩かれていたけれど、わたくしもお尻を叩いた方がいいかしら?」
「え!?」
「貴方なりに色々と考えてくれているようだけれど、父の気持ちはもう固まっているわ。ただ、侯爵家側の誠意の見せ方として、貴方から私に求婚したという建前が欲しいだけ」
なるほど…出発前に子爵から尻を叩かれたのはそういうわけか…と、暫くジンジンと痛んでいた臀部に思いを馳せる。
オレキシン子爵家としては「受け入れます」と粛々と大貴族側からの要求を呑むのではなく、「婿殿がうちの娘に一目惚れをして、どうしてもと求婚したので許可を出した」という体裁を取りたいのだろう。
次兄のせいでリゼリア嬢の名誉は既に傷つけられている。
繰り下げられて与えられた次点の夫に嫁ぐのではなく、想いを寄せられての円満結婚の方が心象が良いのは当然だ。
やっぱり僕には貴族の駆け引きは難しい…と反省していると、湖の奥に引かれた線路へ視線をやったリゼリア嬢は「それにね…」と言葉を続けた。
気丈そうな彼女の眼差しに、少しだけ傷ついた色が宿る。
「貴方の兄は、うちの領地へ一度も遊びに来なかったの」
「え!?一度も!?じゃあ庭の貨車にも乗ってないのか!?」
あまりの衝撃に思わず声が出てしまったが、よくよく考えれば、着目すべきはそこじゃない。
ごほん…と咳払いをして、話の続きをどうぞ…と手のひらを差し出した僕に、リゼリア嬢は水の入ったコップを渡してくれた。
ひとくち飲んで、気持ちと頭を落ち着かせる。
(そうか…次兄は貨車に興味がなかったのか……じゃなくて、婚約者同士で一度も家を行き来しないって事はあるんだろうか。文通だけのお堅い交際…?平民と駆け落ちするような男が…?)
「『馬車で数日かかる場所に、わざわざ不愉快な思いをするために行くなんて馬鹿らしい。僕に会いたいならきみがこちらへ来ればいい』と」
「え……時間がかかるのが嫌なら足の速い馬を使えばいいじゃないか。一泊で着くし、ここで不愉快な思いをした事なんて一度もないけど…」
「『長兄を支えるのは俺の役目だ。お前は後ろに引っ込んでいろ』」
「なんだそれ、最低すぎる…というか両家が婚約を結んだ目的を完全に見失ってる」
「『愛想もない、気も利かない!お前のような女を嫁にしなければならないなんて、俺はなんて悲劇的な運命なんだろう…!』」
「兄は内臓を取り出されて売られるそうなので…それで勘弁してやってください…」
次兄の物言いを真似ながらとんでもない真実の数々を口にするリゼリア嬢へ、敷物に頭を擦り付けながら深々と謝罪する。
こんな態度を取られていたんじゃ、オレキシン子爵が次兄の首を望むのも致し方ないことだろう。
促されて顔を上げれば、すぐ近くに意志の強そうな美しい瞳を持つご令嬢の顔がある。
高い位置でひとつに結われた小麦色の髪がさらりと揺れる。
確かに笑った顔を見る機会は少ないけれど、愛想がないとは思えない。洗練された貴族のご令嬢らしい女性だ。
「貴方は夕食後の父との会話のときも、惰性で過ごすのではなく、貴族のやり取りを学ばなければという姿勢で向き合っていたでしょう?それに、トロッコ列車を見るついでとはいえ、月に一度は会いに来てくれたわ」
「いや、一応、リゼリア嬢に会う為に…」
「一応ね」
「……はい。トロッコと半々くらいの気持ちでした」
正直に謝罪すれば「半分でも気持ちがこちらにあるのならいいわ」と苦笑される。
聞けば、次兄の振る舞いのせいで、彼女は結婚に全く救いを見出していなかったそうだ。
兄が町娘や下位貴族のお嬢さんと浮気していることも知っていたし、国営鉄道の事業が終わればすぐに離縁して実家へ戻ろうと思っていたことも吐露される。
それを聞いた僕は思わず正座をし、膝の上で拳を握った。
「わかった……僕が責任を持って、関係者各位に兄の振る舞いのすべてを伝えておく。オレキシン子爵への説明もする。ダーミリアン侯爵閣下にも王太子妃殿下にも頭を下げるし、責は可能な限り僕が負う。だから、貴女はちゃんと自分の幸せを掴むべきだ。婚約の話はなかったことにしよう」
翠眼を大きく見開いたリゼリア嬢は、眉を下げて至極優しく微笑んだ。
初めて見る表情に、心臓がドキリと跳ねる。
立って…と促されるままに立ち上がり、ふたりで湖畔に並ぶ。
トロッコ列車のゴトゴトという音が遠くに聞こえ、視線をそちらへ向けた瞬間、尻に思いっきり衝撃が走った。
「痛!!??」
「違うわよ。トロッコと半々とはいえ、ちゃんと気持ちを寄せてくれている貴方となら結婚しても問題ないと言っているの」
子爵に叩かれた時の数倍は痛い臀部を手で押さえながら、「え…僕と結婚してくれるんですか?」と聞く。
先ほどドキリとするほどに優しく美しい微笑みを浮かべていた顔は、今は少しばかり不機嫌そうな表情に変わっている。
「私から言ったら台無しになるでしょう?……それとも、貴方は私との結婚を快く思っていないの?」
若葉色の瞳に翳りが差す。
尻を撫でさすっていた僕は慌てて姿勢を戻したものの、どう言葉にすれば良いかわからず、途方に暮れてしまった。
僕のお尻を思いっきり平手打ちしたご令嬢の手のひらは、どこにそんな力を秘めているのだろうと思えるほどに白くて細い。
対する僕の手は……裏庭にある古い貨車のように、薄汚れている。
「……僕の手はとても汚れているんだ。機関士として働いていたせいで油や煤汚れが染み付いてしまっているし、気分転換に始めた土いじりのせいで、今度は大地の色も移ってしまった。とてもじゃないが貴女の繊細な指に触れることは許されないだろう」
生まれは確かに貴族の家だが、数ヶ月前まで市井で生活をしていた。
急拵えで貴族としての教育を詰め込まれているものの、ハリボテで不出来な中身を隠されただけの偽物貴族。
そんな男に嫁入りすれば、苦労をかけることは目に見えている。
「貴女はとても美しく、情熱を秘めた素晴らしい人だと思う。兄が貴女を敬わなかった理由は全くわからない……僕には勿体ないほどの女性だ」
だからこそちゃんと幸せになって欲しい…と続けようとした言葉は、ずい!と目の前に差し出された左の手のひらによって遮られた。
「うわ!?」
「………ペンダコが見えるかしら?」
「え?あ、ああ……見える……すごいな。どうやったらこんなに盛り上がるんだろうか……あ、いや、ごめん。ええと」
「謝る必要なんてないわ。私にとってこの指は、自慢で誇りだもの」
そのペンダコは鉄道関係や領地経営の勉強によって出来たそうだ。
利き手の右手に歪なペンダコがあれば、お茶会などで目立ってしまう。だから彼女は利き手とは反対の左手でペンを持ち、日夜勉強に明け暮れたという。
たとえそれが将来に活かせないとしても、趣味として人生の楽しみとして、列車の図面を読み、運行表を記憶し、地理を学んで時には危険な現場にも赴いた。
「私は列車の仕組みや運行について考えるのが好き。実際に触れて操縦する貴方とは少し方向性が違うかもしれないけれど、理解はしてくれるでしょう?だから、グラフィア侯爵領の鉄道事業には是非とも関わりたい」
「……それに、さっきの貴方の発言には正しいところもあったわ。私の指はとても繊細で……繊細すぎて、ペンからの圧力に負けてこのように変形したんだから」
と付け加えられた言葉に思わず呆気に取られてしまった。
それから込み上げてきた笑いを我慢することなく、肩を震わせる。
「ふっ……はは、っ…そっか。柔らかく繊細だからこそ、ペンに負けてしまったんだな」
「ええ。この不恰好な膨らみは私の努力の証。であれば、その汚ならしいという手も、貴方のこれまでの努力の証なのでしょう」
「……はは!あははは!」
確かに自分から汚れているとは言ったけれど、汚らしい手と言われてしまうとどうにも我慢が出来ず、堰が切れたように笑いが飛び出る。
腹を抱えてひとしきり笑っていると、眉を顰めたリゼリア嬢からぺしんと尻を叩かれた。
今度はさっきよりも優しさが籠もった叩き方だ。
僕と同じように列車のことが好きな彼女が、妻として隣に立ってくれる……その未来を想像して、ようやく僕の覚悟は決まった。
申し訳程度に衣服を整えて、リゼリア嬢へ向け、恭しく手を差し出す。
「貴女は僕には勿体ないほどに魅力的な女性です。でも、同じ鉄道愛を持つ者として、貴女には惹かれずにはいられない。
もし僕のお嫁さんになっても良いと思ってくれるのなら、この汚ならしい手にその繊細すぎる手を重ねてはくれませんか」
リゼリア嬢は口角を上げると、躊躇いもなく僕の手に手のひらを重ねた。
油の染み込んだ手に白い肌が映え、あまりの眩しさにぎゅっと握り込んでしまう。
繊細な手は柔らかく、少しひんやりとしていて、僕の手は油染み云々の前に手汗でじっとりと湿っていることに、今更気付いた。
慌てて離そうとしたけれど、今度はリゼリア嬢からぎゅっと握られてしまう。
「この程度………私の父や兄くらいでなければ、勝負にもならないわ」
その言葉の意味は、屋敷に戻ってからよくよく理解した。
湖畔でのやり取りは馬車の中まで聞こえてしまっていたのか、帰りの馬車では僕の隣にリゼリア嬢が座るようセッティングされていた。
膝にバスケットを乗せた侍女は澄まし顔のようでいて口角が上がっていたし、馬車から降りると玄関先にはオレキシン子爵に夫人、次期子爵であるネイプス殿とその奥さん…(つまりリゼリア嬢の兄と義姉)までもが揃っていた。
侍女の頷きを受けた子爵は、食事をしながら話を聞こうとご機嫌で屋敷の中へ戻る。
外出着から着替えたリゼリア嬢が食事の席についたタイミングで、僕は立ち上がってお誕生日席に座る子爵と、その隣角に座る夫人へ向けて深々と頭を頭を下げた。
「不肖の身ではありますが、リゼリア嬢に求婚させていただきました」
途端、部屋にパンッという破裂音が響く。
驚いて顔上げると、子爵が盛大に手を叩いて喜びを露わにしているところだった。
夫人の隣に座っているネイプス殿も控えめに手を打ってくれている。
「よぉーくやった!我が娘に求婚するとはお目が高い!お祝いしよう!」
「話が纏まって良かったわ。わたくしの事は『義母上』と呼んでちょうだい」
「えっと……」
「お母様、初日に貴方から間違えて呼ばれて以来、母上って呼ばれるのを気に入ったみたいなのよ。兄たちは『母さん』って呼ぶから…」
こっそり耳打ちしてくれたリゼリア嬢の言葉で、僕はあの日の恥ずかしさを思い出す。
オレキシン子爵は乾杯!と早くも杯を掲げているし、厨房からは豪華な料理やケーキが運ばれて来て、リゼリア嬢は「浮かれすぎよ」と呆れ顔だ。
侯爵家の晩餐の席はカトラリーの音と静かな会話の声しかしないため、わっはっはと大口で笑うオレキシン子爵の姿に、下積み時代の親方を思い出して少しだけ郷愁を覚えた。
「父さん、ラディが家族を連れて来たみたいだ。父さんに誘われたって言ってるんだけど…」
「今日はリゼリアの為に良い酒を開けるかもしれないと言ったから来たんだろう。ちょうどいいから紹介しよう」
隣のドルニエ伯爵家に婿入りしている次男が家族でやって来たという報せのあと、また室内が賑やかになる。
初めて対面したオレキシン家の次男は、右腕の肘から下がなく、棒のようなものを義肢代わりに装着していた。その腕に二歳くらいの可愛い娘さんを抱っこしている。
呆気に取られてしまった僕に、オレキシン子爵は、山での作業中に事故が起きたり獣との戦いで負傷したりと、ウチの領と隣の伯爵領には怪我人が多いんだと教えてくれる。
「お父様の左手の指も四本しかないわよ」
「え?」
「風呂と寝る時以外は手袋を嵌めているからなぁ…アーキオ殿は知らなかったか」
革手袋を外して見せてくれた左手は確かに薬指が半ばから失われていた。
「左手の薬指は妻に捧げたんだ。永遠にな」と格好よく決めた子爵だったが、呆れ返った夫人から「馬鹿なこと仰らないで。怪我を放っておいたせいで壊死してしまっただけじゃない」と暴露されてしまっている。
「聞いてお父様、この人ったら、自分の手は油染みで汚れているなんて卑下するのよ」
「はっはっは!五本揃ってるだけでも僥倖じゃないか!どうしても気になるなら、格好いい手袋でも嵌めておけばいい。貴族というのは、弱味をスマートに隠すものだぞ」
「リゼリア、貴女が贈ってあげてはどう?貴女の乗馬用の手袋も新調して、お揃いの紋を入れたら素敵じゃない?」
「さすがお母様。そうと決まれば、今度の訪問の時は一緒に革工房へ行きましょう」
「う、うん…」
「私は腕を失ったことについて後悔はしていない。だが、この脆弱な義手ではいつまで愛娘を抱っこできるか……!」
早くも酔っ払っているのか、娘にはすくすく大きくなって欲しいが抱えられない程には大きくなって欲しくないと懊悩し始めた次男は、顔を上げると「一刻も早く強靭な義手を完成させてみせる……!」と決意を新たにした。
鋼鉄製の装甲にして、百キロでも耐えられる義手を!と言っているが、娘さんが百キロに至る可能性は低いのだから、もう少し自身の体に合うものを作るべきだろう。
わいわいと賑やかしいテーブルのなか、オレキシン子爵が改めて僕に向けて酒杯を掲げた。
僕も慌てて、酒杯を掲げ返す。
「娘をよろしく頼む。アーキオ殿は貴族としてはまだ未熟だが、そこはウチの娘がしっかり補佐するだろう」
「はい。不束者ですがよろしくお願いします」
「そうね…私は貴方の領地運営に嫌ってほど口出しをすると思うわ。代わりに貴方は、私の女主人としての仕事に手出し口出しして構わないわよ?」
「庭に植える花のことも、応接間に飾る花のことも、貴方に相談すれば安心そうだもの」と微笑んだリゼリア嬢は確かに、庭園や野原を散歩している時に花のことを話題に上げても「綺麗よね」とか「瑞々しい色ね」とか、そういう簡素な返答であることが多かった。
会話したくないのかな…と内心不安になった事もあったけど、おそらく彼女は草花に関してあまり興味がないのだろう。
逆に僕は、気分転換に庭師と話しているおかげで花の名前や花言葉に少しだけ詳しい。
「細やかなところに気のつく、良い婿殿を貰ったなぁ」
「ああ。浮気性の男よりも余程いい。あの屑野郎……駆け落ちして行方を眩ませていなかったら諸々切り落としてやるところだ」
「あらお兄様。彼は見つかり次第捕まって、内臓を売られるそうよ」
「骨の買取をしている業者に心当たりがある。必要ならば相談してくれ」
ちょっと不穏な会話が始まったぞ…と思っていると、ドタドタと大きな足音と共に会食堂の扉が盛大に開かれる。
登場したのは全身泥まみれの泥人形……ではなく、泥で汚れた青年で。
「姉さん、婚約者に逃げられたって!?」
「ちょっと、ディアン!せめて汚れを落としてから帰って来て頂戴!」
絶叫した夫人と同じような表情で、泥人間の背後に居る家政婦たちも悲鳴をあげている。
廊下中を泥まみれにしながら突進してきた青年は、これまた初めましてのオレキシン子爵家の末っ子三男だと紹介される。
聞けば、僕と同じように、家を継いだり貴族の家に婿入りすることは早々に諦めて兵学校に入ったあと、そのまま国の正規軍に入ったそうだ。
内陸部の担当で、各領地に出る厄介な獣退治も任されるらしく、オレキシン子爵領や隣のドルニエ伯爵領にもたびたび派遣されるという。
今回は風の噂で姉の婚約破棄騒動を聞き、急いで休暇を取り、赴任先からそのまま馬を走らせ駆けつけたそうだ。
「お風呂に入ってらっしゃい!」と会食堂を追い出される三男を見ながら、オレキシン子爵が豪快に笑った。
「わっはっは!いいか婿殿、汚いってのはああいう事を言うんだ!」
「どの家の三男も似たような境遇ってことよね…弟に比べれば、汚れている自覚があるだけ貴方のほうがずっとマシよ」
リゼリア嬢にまで肩を竦められて、僕は苦笑を返すしかない。
結局のところ僕は、機関士としての誇りの詰まったこの手が……お前は貴族として不釣り合いなのだと物語っているようで、知らぬ間に苦手になってしまっていたんだろう。
でもそのわだかまりも、子爵家の賑やかさと温かさのおかげで救われた。
「……もしも結婚後にリゼリア嬢が里帰りしたくなったら、僕も一緒に来てもいいだろうか」
「里帰りの理由が貴方との大喧嘩だった場合、貴方の寝床は裏庭の貨車になるけれど…それでもいいのなら」
リゼリア嬢と小さく笑い合って、グラスを合わせて上等なワインをいただく。
目の前で切り渡されたケーキは華やかで、口にする者たちは皆喜びに満ちている。
自分が仕方なく受け入れられたのではなく、ちゃんと歓迎されているという事実に、苦しいほどに胸が熱くなった。
そうして一年半の婚約期間を設けたあと、無事に僕らは結婚し、早くも五年の月日が流れようとしている。
グラフィア侯爵領に国営鉄道が走るという計画は順調に進み、今年初めにようやく駅舎のお披露目を終えた。
立派な駅舎と整備所を見て思うところはあったけれど、手の中にある幸福を放り投げてまで機関士に戻ろうとは思わなかった。
いずれ然るべき相手に子爵位を譲ったら、老後はオレキシン子爵領かドルニエ伯爵領に住んでトロッコ列車の整備や運行に関わらせて貰う予定だ。
人生の余暇に至るまでは、もう少し、貴族として頑張ろうと思う。
手招きをして呼び寄せたリゼリアが扉のところまで歩み寄って来てくれるのを待ってから、そっと腰に手を回す。
ポニーテールだった小麦色の髪はお団子状に丸められ、勝気そうな瞳には以前よりも柔らかな色が宿るようになった。
彼女は僕の仕事を補佐してくれる心強い相棒でもあり、僕の人生に欠かせない最愛の人でもある。代わりに僕は、彼女の苦手分野を補えるよう日々努力しているつもりだ。
「部屋に花を飾ったから確認してもらえるだろうか」
「庭に居ると思ったら、花を選んでいたのね。どんな素敵な仕上がりか楽しみだわ」
努力の甲斐あって、最近は花を生ける技術も磨かれてきた。
来客は皆、彩り良く飾られた花瓶を見ると、奥様のセンスはいつも素敵でいらっしゃいますねと褒めてくれるから、僕らはお互いに目配せして小さく微笑み合うというわけだ。
玄関、廊下、食堂、客間、執務室と続き、最後に導いたのはふたりの寝室。
天蓋付きベッドの側に、花びらが柔らかく重なる小ぶりの薔薇を配置した。
「まあ……いいわね。ピンクの薔薇は好きよ。貴方との初めての夜を思い出すわ」
ふふ。と微笑んだリゼリアから「……もしかしてお誘いかしら?」と悪戯っぽく見上げられたため、眉を上げる。
そんなつもりじゃなかったが、それもいいかもしれない。
黒手袋をつけた手で妻の白い手を掬い上げると、演技がかった仕草でその甲に恭しく口付けを落とした。
「この薔薇が枯れるまでに貴女からの慈悲がいただけるのならば、是非」
明確な返答はなかったけれど好戦的で艶やかな笑みを向けられたため、近日中には甘い夜が訪れることだろう。
「ところで、サンルームでは何を真剣に読み込んでいたんだ?」
「いずれ生まれてくる子どものために、庭に小型の線路を引こうと思って」
「え!?」
驚きすぎて思わず大きな声が出てしまった。
子ども……については、結婚してからある程度考えてはいた。ただ、鉄道事業にしっかりと関わっていたいリゼリアの事を考えると、グラフィア侯爵家の事が落ち着くまではと思っていたから、今まではどこか空想の端っこに在るようなものだった。
(それに、彼女はなんて言った…!?)
聞き間違いじゃなければ、庭に小型の線路を引くと言っていなかっただろうか。
確かに子爵家の庭は広い……管理を怠り草がぼうぼうに生えていた荒地を整え直したおかげで、場所に余裕はある。けれど。
「…お、女の子かもしれないのに?」
動揺しすぎて見当違いな事を口走った僕に、リゼリアは「あら、問題ないわ。私の揺りかごはトロッコよ?」と首を傾げた。
手を繋いだままサンルームに導かれ、お茶会用テーブルに広げられた構想図を目の当たりにして、僕は彼女の本気を知る。
図面には、必要な材料から仕入れ先までみっちりとメモが書き込まれていた。
いつの間に相談したものか、製作協力者のなかには彼女の兄ふたりばかりか、オレキシン子爵とドルニエ伯爵、そして父であるグラフィア侯爵のサインまで記されている。
錚々たる顔ぶれが名を連ねていることで、夢物語が一気に現実味を帯びる。
(庭に、線路が出来るなんて……!)
幼い子どもが、小さな機関車の引く貨車に乗り、満面の笑みで「パパ」と手を振っている…。
そんな姿を想像して、堪らなくなった。
本当に可能なら何としてでも完成させたいという気持ちで、けれども胸が詰まりすぎて言葉にならず無言で頷き続けていると、リゼリアは「これで貴方も寂しくないでしょう?」と優しく身を寄せて来た。
「貴方のお義父様が……息子の機関士としての夢を奪ってしまったことを悔いていらっしゃったから、皆で相談して、遊具にもなる庭園鉄道を作ることにしたのよ」
「父さんが…?」
「ええ。貴方のその手が、これまでの努力をしっかりと物語っているもの。
製作資金や材料を揃えるために今しばらく時間はかかるけれど……
完成した暁には、完璧な整備と安全な運行を期待してるわよ、我が家の機関士さん?」
悪戯っぽく微笑んだ最愛の女性を、震える手で抱きしめる。
父の顔を立ててくれてはいるけれど、本当の発案者は紛れもなく彼女だろう。
彼女以上に、僕の未練を知っている人はいないから。
「……きみと結婚して良かった」
「それはお互い様ね」
ぎゅっと抱き合って頬を寄せる。
目を閉じれば瞼の裏で、黒い鉄の塊が煙を上げて走る……それを眺める僕の隣には、大切な人が並び、皆で顔を見合わせて笑い合っている。
(なんて幸福だろう…)
ずっとサンルームに居たせいかリゼリアの小麦色の髪からはおひさまの温かなにおいがしていて、僕がそれを口にする前に、貴方からは太陽と土と葉っぱのにおいがするわと笑われてしまった。
……僕たちは本当に、お互い様のようだ。




