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貧民街の灯火

「時を同じくして、港町横浜の片隅では、もう一つの戦いが始まっていた――」


横浜港のはずれ、南太田の谷間。崖にへばりつくように廃材のバラックが肩を寄せ合い、夜闇の中に沈んでいる。湿った夜風が、腐った木と病の臭いを運び、肌にまとわりつく。松明の橙色の灯りが、粗末な長屋の壁に揺れ、人々の影が長く伸びていた。


その一角に、アメリカ人女性宣教師メアリー・ブラウンの小さな診療所があった。金髪をきっちりとまとめ、質素なドレスに白いエプロンを重ねたメアリーは、青い瞳に強い意志を宿している。


彼女は異国の地で、貧しい人々のために身を捧げていた。その手は、患者の額を優しく撫で、時に聖書の一節を静かに口ずさむ。教会で培った博愛精神と、アメリカでの医療教育――そして女性や子どもたちに学びの機会を与えたいという信念が、彼女の背筋を支えていた。


むしろが敷かれた床では、コレラに苦しむ患者たちが横たわっている。骨が軋むような痙攣、喉の奥から絞り出すような呻き声。青白い顔は汗に濡れ、虚ろな瞳が天井を彷徨っていた。メアリーは夜風に肩をすくめながらも、患者の手をしっかりと握り、「あなたは独りじゃありません」と、静かに語りかける。


彼女の存在は、文明開化の光が届かぬこの谷間で、かすかな希望の灯火となっていた。


***


診療所の中には、薬品と消毒液の匂い、そして絶望の空気が漂っていた。


メアリーは、額に脂汗を滲ませながら、身をかがめて患者の傍らに立つ。

「嘔吐物は石灰で処理を! 広げないで!」

片言混じりの日本語だが、その声には一切の迷いがない。額に貼りついた金髪が汗で光り、青い瞳は真剣に患者を見つめている。白いエプロンの裾はすでに血と薬品で汚れ、指先は細かく震えていたが、その手は患者の額を優しく撫でることを忘れない。


周囲では、助手や看護婦たちが慌ただしく動き回り、患者の呻き声や咳き込みが絶え間なく響く。夜明け前の薄明かりが、窓の外から静かに差し込み、診療所の空気は重く、張り詰めていた。


(私は、ここで諦めるわけにはいかない――)


異国の地で、彼女は現地のやり方や伝統を尊重しつつ、「誰もが学び、立ち上がる力を持てる社会」を信じて行動していた。小さな親切が、やがて大きな変化を生む――その信念が、彼女の背筋を支えている。


その傍らで、艶やかな黒髪をきっちりとまとめながらも、どこか謎めいた雰囲気を纏う元芸者の情報屋・菊乃きくのは、静かに手製の竹製注射器を構えていた。薄化粧の下に浮かぶ切れ長の瞳は、花街で鍛えられた観察眼を宿し、患者のわずかな変化も見逃さない。白い指先が、震える患者の腕を優しく支え、もう片方の手で注射器を慎重に操作する。


「もう少し……もう少しよ、頑張って……」


菊乃の声は静かだが、どこか艶やかで、聞く者の心に沁み入る響きがあった。


その瞳の奥には、裏社会で生き抜いてきた女が持つ冷徹な計算とは裏腹に、死の淵に立つ者への深い情と、決して諦めないという覚悟が宿っていた。かつて花街で男たちの嘘や欲望を見抜き、時に情報を武器にして生きてきた彼女だが、今はその力を「命をつなぐ」という最も切実な戦いのために惜しみなく注いでいる。竹製注射器の中にあるわずかな食塩水に、彼女は患者の未来を託していた。


診療所には、消毒液と汗、そして生と死が交錯する緊張感が漂っていた。その中で、菊乃の存在は、静かでありながらも強い意志と優しさを放っていた。


***


診療所の外は、貧困と病が入り混じった息苦しい空気に包まれていた。湿った夜風が、腐敗した土と薬品の刺激臭を運び、肌にまとわりつく。遠くからは、咳き込む音やすすり泣く声が断続的に響いていた。


紙屑拾いの老人が、背を丸めて足元の瓦礫をかき分けている。薄汚れた着物の袖が、泥にまみれた手を隠しきれない。掠れた声で「長州の敗残兵だ……」と呟くと、その言葉は夜の静寂にひっそりと溶けていった。


崩れかけたバラックの軒下では、妊婦が痩せ細った腕で火のついた煙管を臍の緒に翳し、顔を歪めて苦しんでいる。煙はゆらゆらと揺れ、彼女の絶望と小さな命をつなぐ古くからの習わしを象徴していた。その目はどこか遠くを見つめ、唇はかすかに震えている。


谷戸の細道には、貧困と病が淀んだ空気となって静かに、しかし確実に息づいていた。そこには、時代の影と人々の悲哀が重くのしかかっているようだった。


この夜もまた、死の影が診療所に深く落ちた。運び込まれた十三人の患者のうち、七人が夜明けを待たずに息を引き取った。当時の日本で、コレラ感染者の半数以上が命を落とすという冷徹な現実が、ここにもあった。


遺体は感染拡大を防ぐために石灰漬けにされ、粗末な筵に包まれて静かに野辺送りへと運び出されていく。その光景は、無言の悲しみと諦念を語っていた。


「また……一人……」


メアリーは掠れた声で呟いた。青い瞳は、目の前の死の現実に慣れつつある自分への怒りと、どうすることもできない無力感に揺れている。手は小刻みに震え、冷たい汗が額を伝う。


(ボストンで学んだ医学が、なぜここではこれほどまでに無力なのか――)


キリスト教的な博愛精神と、目の前の過酷な現実とのギャップに、彼女は何度も胸を締め付けられていた。


メアリーの指先は、包帯を握るたびに白くこわばる。彼女の髪は乱れ、額には疲労の色が濃く滲んでいた。だが、その背筋は決して曲がらない。患者の枕元に膝をつき、静かに祈りを捧げる姿には、幼い頃から培われた信仰の強さが滲んでいる。


「神よ、どうか……」と唇がかすかに動くたび、彼女の中の希望と絶望がせめぎ合う。それでもメアリーは、ひとりひとりの患者に目を合わせ、名前を呼び、最後まで人として扱うことを決して忘れなかった。


彼女の青い瞳は、涙を浮かべながらも決して曇ることはない。その奥底には、遠い異国の地で命を救うために立ち上がった決意と、失われゆく命への深い哀惜が宿っていた。


谷戸の奥、崩れた瓦礫と土埃の混じる中で、子どもたちは無邪気に遊んでいた。泥だらけの顔には、白い石灰の粉がまだらについている。彼らが踏みしめる足元は、つい先ほどまで死者が横たわっていた場所だ。一人の子が、空に浮かぶ鈍色の月を指差し、無邪気な声で母に問う。


「おっかさん、また死んだの?」


だが、その問いに答える者は誰もいなかった。大人たちは、言葉を失い、ただ沈黙の中で夜空を見上げていた。


菊乃は、静かに患者の額に手を当てる。脈はもうない。そっとその瞼を閉じさせながら、「……安らかに、お眠りください」と、花街で身につけた優しくも哀しい声で呟いた。彼女の指先は、裏社会で培った冷静さと、弱者への情の狭間でわずかに震えている。菊乃もまた、非情な世界を知りながら、どうしても人への情を捨てきれない人間だった。


菊乃の着物の袖口は、すでに消毒薬と汗で重く湿っていた。かつて花街で身につけた所作は、どんな混乱の中でも乱れない。だが、彼女の瞳の奥には、幼い日に家族を疫病で失った記憶が、薄く影を落としている。


患者の髪をそっと撫でる手つきには、かつて自分が救えなかった者たちへの贖罪の思いが滲んでいた。「せめて、最期だけは穏やかに……」と、誰にも聞こえぬほどの小さな声で祈る。その横顔は、夜の闇に溶けるように静かで、しかしどこか決意に満ちていた。菊乃は、どんな絶望の中でも、人としての温もりだけは手放さぬと、心に誓っていた。


メアリーは診療所の片隅で、使い古された医学書をめくり続けていた。

指先には消毒液の匂いが染みつき、ページをめくるたびに乾いた音が静かに響く。

ボストンから持参したその書物は、西洋医学の「光」を象徴していた。

だが、この谷戸の「闇」の前では、どれだけ知識を積み重ねても、あまりにも無力だった。


彼女は頁をめくる手を止め、ふと遠くの窓の外を見やる。

松明の灯りが細く揺れ、彼女の胸の奥の希望もまた、今にも消え入りそうだった。


「……どうして、届かないの……」


小さな独り言が、冷たい夜気に溶けていく。

文明開化の華やかな灯りが遠くの街にぼんやりと輝いている。

しかし、この廃材の谷間には、病と貧困という、もう一つの「日本」が静かに、そして確実に息づいていた。



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