夜明けの誓い
炎と煙が渦巻く工房の中、蒸気機関のボイラーが今にも爆発しそうな轟音を立てていた。赤く照らされた鉄骨が揺れ、床には水と油が混じった跡が広がる。
煤と薬品の刺激臭が鼻をつき、熱気と湿気が肌にまとわりつく。喉が焼けるように乾き、視界はじわじわと白く霞んでいく。
影照は轟音と熱風に煽られながらも、額に汗を滲ませ、冷静さを保つ。油まみれの手で工具を素早く選び取り、歯を食いしばる。
(長崎で失った仲間……二度と同じ過ちは繰り返さない。工夫すれば必ず道は開ける!)
欧州留学時代の事故の記憶が一瞬よぎるが、信念が彼を支えていた。
水鉄砲型の簡易冷却装置を即席で組み立てる。手が震えるが、動きは迷いがない。
「急げ、これ以上温度が上がれば……!」
影照の切羽詰まった声が響き、新太郎とつばきも必死で水を運ぶ。二人とも額に汗を浮かべ、息を荒くしながらボイラーの周囲へ駆け寄る。
職人たちは顔を煤で黒くし、互いに声を掛け合いながら水桶を手渡していく。轟音の中で、誰かが「もう限界だ!」と叫ぶ声がかき消された。
新太郎は福沢先生の「学問こそが毒を中和する」という言葉を胸に、蘭学書で学んだ応急処置の方法を叫ぶ。手のひらは汗で滑るが、必死に声を張り上げる。
つばきは父の貿易で身につけた測量器材の知識で、ボイラーの歪みを素早く見抜く。
「あの接合部が危ない!」
緊張で声が震えるが、すぐに影照へ伝える。
影照の指示で、次々と水がかけられた。熱せられた鉄板がジュウと音を立て、白い蒸気が勢いよく立ちのぼる。湯気が工房を満たし、視界がさらに悪くなっていった。
高温になったボイラーから、白い蒸気が勢いよく立ちのぼる。湯気が工房中に立ち込め、熱気と湿気で息苦しさを感じる。視界はどんどん白く霞み、誰もが額に汗をにじませていた。
その時、工房の奥から田中久重が現れた。顔は煤で真っ黒になり、額から汗が滴り落ちている。だが、その目は炎のような強い意志を宿していた。
久重は、両手で耐熱煉瓦をしっかりと抱えていた。その手はわずかに震えている。指の隙間から煉瓦の赤茶色が覗き、重みで腕が小刻みに揺れる。
「西南戦争用に開発した耐熱煉瓦だ、これを基部に積む!」
久重の声はかすれていたが、工房の喧騒の中でもはっきりと響いた。その目には、技術者としての矜持と、技術の使われ方に対する深い苦悩が浮かんでいる。
「我が技術は戦争のためでない……人を、国を豊かにするためにあるのだ」
そう呟きながら、久重は煉瓦を一つずつ、慎重にボイラーの基部へと積み上げていく。煉瓦が鉄板に当たるたび、乾いた音が響く。横顔には、進歩と戦争の影に揺れる時代の苦悩が色濃く刻まれていた。
***
修理が佳境に差し掛かったその時――
屋根裏の梁の上、炎と煙を背に、影山伝蔵が静かに姿を現した。無骨な和装は煤と血の跡にまみれ、左頬には刀傷の古傷が赤黒く浮かぶ。その鋭い眼光は、かつて主君に忠義を尽くした武士の誇りと、新時代への激しい反発心を宿していた。手には、かつての戦で使い込まれた脇差し。指先は微かに震えているが、視線は一点を射抜くように鋭い。
義経がすかさず前に出る。工房の熱気と混乱の中でも、背筋はまっすぐに伸びている。無口な佇まいの中に、会津武士としての「義」を胸に秘め、先祖伝来の愛刀「安綱」の柄にそっと手をかける。額には汗が滲み、呼吸は静かだが、目だけは伝蔵を決して逃さない。
炎と煙の中、二人の元武士の間に静かな、しかし張り詰めた緊張が走る。周囲の喧騒が遠のき、二人の間だけに重い空気が流れる。
「蒸気機関がまた戦を生む。お前たちの文明は血の匂いだ」
伝蔵の声は低く静かだが、胸の奥底には維新の混乱で全てを失った旧幕臣としての怒り、そして守れなかった家族や仲間への深い悲しみと後悔が滲んでいる。彼の視線は、今の時代を否定しながらも、かつての自分や義経に重ねるような複雑さを帯びていた。
義経は一瞬だけためらう。
(この男もまた、時代に翻弄された武士――だが、今守るべきものは目の前にある)
会津武士としての「義を貫く」信念と、時代の変化への戸惑いが脳裏をかすめるが、仲間を守るという強い決意が、迷いを打ち消す。
「時代は変わった。だが、守るべきものは変わらない!」
義経は覚悟を決め、静かに刀を抜く。二人の視線が交錯した瞬間、炎の光が刀身に反射し、工房の空気が一層張り詰めた。
火花が飛び散り、二人の剣戟が工房に鋭く響く。義経の刀――その刃には「安綱」の銘が刻まれている。伝蔵は一瞬、目を細めてその名を見抜いた。
(会津の名刀か……時代が違えば、共に戦ったかもしれぬ男よ――)
伝蔵は義経の目を真っ直ぐに見据え、わずかに口元を引き締める。
「お前にはまだ、この時代の行く末は見えぬ。だが、見届けてやるがいい」
低く静かな声に、怒りと哀しみ、そしてどこか諦めの色が滲む。伝蔵は煙と炎の中へと、その影をすっと消した。義経はその背中を見送りながら、刀を静かに納める。胸の奥には、戦いの余韻と、時代のうねりへの複雑な思いが渦巻いていた。
***
床には、逃げた浪人の懐から落ちた小さな袋が転がっていた。袋には「薩摩産硝石」と墨で書かれている。硝石――火薬の原料。日本各地で密かに作られ、戦乱の影に欠かせぬ存在。
新太郎はその袋を拾い上げ、煤けた指で文字をなぞる。
「なぜこんなものが薩摩から……裏で何かが動いているのか?」
彼の顔には、理想と現実のギャップに直面する苦悩と、それでも真実を突き止めようとする強い探求心が浮かんでいた。
やがて炎が鎮まり、夜明けの淡い光が煤けた工房の窓からゆっくりと差し込んだ。床や壁にはすすがこびりつき、空気にはまだ煤と煙の重たい匂いが漂っている。静寂の中、どこかで木材がパキリと音を立てて崩れた。
お千代は、煤で汚れた指先で「鳳凰丸機関図」をそっと広げる。紙の端は焦げて波打ち、温もりがまだ残っている。ふと裏面に、何かが貼り付けられているのに気づいた。
慎重に剥がしてみると、それは「横須賀造船所 フランス人技師団 予算書」の写しだった。お千代は眉をひそめ、月明かりの下でその紙片をかざす。薄い紙の表面に、インクの文字がじわりと浮かび上がる。
「3月15日 仏船リュシーヌ号入港」――その一行が、淡い光の中にくっきりと現れた。
***
工房の外では、田中久重が崩れた梁や黒焦げの機械の残骸をじっと見つめていた。煤にまみれた顔に、深い皺が刻まれている。その目には、技術者としての誇りと、時代の波に翻弄される苦悩が静かに浮かんでいた。
「技術は人を救うためにある――それを、お前たちが証明してくれ」
田中久重の低く静かな声が、夜明けの静けさにゆっくりと溶けていく。工房の外には、冷たい朝の空気と、かすかな煤の匂いが漂っていた。
新太郎は、焦げた工房の壁を振り返りながら歩き出す。手には、薩摩産硝石の袋と、煤で汚れたノート。指先が少し震えている。
(自分にできることは何か――学び、問い続けるしかない)
不安と決意が入り混じったまなざしで、東の空にわずかな朝焼けを見つめた。
つばきは、破れた袖口をそっと握りしめていた。父から譲り受けた測量器材の一部が、焦げ跡の中に埋もれている。
(私も、女性でも、技術の未来を支えられるはず――)
唇を引き結び、まっすぐ前を向く。その目には、静かな闘志が宿っていた。
影照は、煙の残る工房の扉に手を置き、深く息を吸い込む。胸の奥に、熱いものが静かに広がる。
(技術の力は、使い方次第で人を救いも、傷つけもする……)
欧州留学時代の仲間の顔が脳裏をよぎるが、今は仲間と共に歩む道を選び、前進する覚悟を新たにしていた。
義経は、工房の裏手で一人、静かに刀を拭っていた。鞘に納める動作は、流れるように無駄がない。
(武士の「義」は、時代が変わっても守るべきもの――)
仲間の背中を見守りながら、己の信念を胸に刻む。その横顔には、過去の痛みと新しい時代への覚悟が、静かに交錯していた。
こうして新太郎たちは、それぞれの胸に新たな誓いと不安を抱きながら、夜明けの工房を後にした。彼らの歩みが、やがて日本の未来を切り拓く礎となることを、まだ誰も知らなかった。