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闇夜の襲撃

時計塔が八時を告げる厳かな鐘の音が、工房の静けさを破った。


その響きは、まるで旧時代からの宣戦布告のように夜気に広がる。


外の深い闇に紛れて、影山伝蔵が率いる浪人たちが一斉に姿を現す。


彼らの着流しは埃と煤にまみれ、刀の鍔には使い込まれた傷が刻まれている。頬には戦の古傷、目には維新で全てを奪われた旧幕臣たちの恨みと、新政府への反骨心が燃えていた。


「この国産ごときが黒船に勝てるか!」


伝蔵の怒号が夜気を切り裂く。


浪人たちは無言で素早く持ち場につき、手には火矢や火炎瓶、時に洋式銃まで握りしめている。

その動きには、かつて武士として培った統率と、今は失うもののない者の覚悟が滲んでいた。


赤い軌跡を描く火矢が、乾いた屋根や壁に容赦なく突き刺さる。


木材がぱちぱちと断末魔のような音を立て、瞬く間に炎が燃え上がる。


伝蔵は火炎瓶を高く掲げ、工房の大きなガラス窓へと力任せに投げつけた。


割れたガラスの向こうで炎が爆ぜ、油と煙の匂いが一気に工房内に流れ込む。


浪人たちの中には、かつて名を馳せた剣士や、家族を維新で失った者も混じっている。誰もが、誇りと絶望を胸に、時代の流れに抗う最後の戦いに身を投じていた。


田中久重が心血を注いだ国産初の蒸気船模型「鳳凰丸」――近代日本の希望の象徴たる工房が、一瞬で修羅場と化した。


赤い炎が天井近くまで伸び、ガラス窓に反射して揺れている。


職人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。誰かが転び、工具が床を転がる音が響く。熱風が肌を刺し、焦げた木と油の匂いが鼻をつく。


蒸気機械の唸り、金属の軋む音、火の爆ぜる音――すべてが恐怖と混乱の中で交錯していた。


「危ない、下がって!」


新太郎は咄嗟につばきをかばい、その肩を引き寄せた。


越後の訛りが出る余裕もない。目の前の危機から仲間を守る、その一心で体が動く。


影照は燃え盛る機械と逃げ惑う人々の間を冷静に見渡す。


(技術の危うさ、命の重み……でも、今は「技術は人のためにある」)


懐から自作の玉虫煙筒を取り出し、素早く火をつけて床に転がす。火花が散り、煙筒が転がる音が床に響く。


化学反応で生じた硫黄と木炭の煙が、紫色の雲となって勢いよく噴き出した。たちまち工房内を覆い尽くす。


(工夫すれば、必ず道は開ける!)


視界が白く霞み、浪人たちも有毒ではないが刺激的な煙に咳き込みながら、手探りで刀を振り回す。


「どこだ、奴らは!」


叫び声が煙にかき消され、炎と煙、金属音と人の叫びが混ざり合う混沌が、工房全体を支配していた。


その混乱の中、真田義経は刀の鍔に刻まれた会津藩の家訓「義を貫くこと」を静かに握りしめる。握った手のひらに、冷たい汗がにじむ。


紫煙が渦巻く中、義経は音もなく床を蹴り、幻のように無駄のない動きで身を躍らせた。足元の木屑が舞い、刀身が微かに光を反射する。


(武士の本懐は、己の義を貫き、守るべき者を守ること――)


寡黙な彼の内なる熱が、この一瞬に凝縮される。鼓動が耳の奥で高鳴る。


「居合抜き――七人斬り!」


義経の鋭い一閃が、紫煙の中を赤い稲妻のように閃く。刀身が空気を裂き、浪人の間を風のように駆け抜ける。


峰打ちや鍔迫り合いで次々と浪人を無力化していく。一人の浪人が驚愕の表情を浮かべて膝をつき、もう一人が煙の中で呻き声を上げて倒れる。


義経の動きはあまりに素早く、煙幕に紛れて誰一人その姿を正確に捉えることはできなかった。ただ、残されたのは倒れ伏す浪人と、床に転がる小さな袋。


義経がふと目をやると、その袋には「薩摩産硝石」の文字が夜目にもはっきりと浮かび上がる。煙の匂いに混じって、硝石の粉っぽい香りが漂う。


それは、この襲撃の裏に潜む、さらに大きな陰謀の存在を静かに示唆していた。


***


作業着の袖口から覗くのは、使い込まれた革手袋と、異国風の小さな煙管。その身のこなしは驚くほど軽やかで、周囲の混乱にも一切動じない。


変装術に長けた情報屋――「黒猫のお千代」。彼女は、炎に焼かれる寸前の設計図の束を冷静に見極める。煤で汚れた指先が、迷いなく「鳳凰丸機関図」一枚を抜き取り、作業着の奥深くに滑り込ませた。


(大事なのは、これだけで十分……情報こそが、最大の武器)


ふと、煙の向こうに老婆姿の菊乃の背中がよぎる。


(あの子なら、きっと皆を助けるために奔走しているだろう。だが私は――)


お千代は作業着のポケットから手裏剣を取り出す。その動きは、長年の経験に裏打ちされた無駄のないものだった。


標的は、天井から吊るされた油壺。炎と煙の中、冷静に狙いを定め、手裏剣を投げつける。パリン、と乾いた音が響き、油壺が破裂。飛び散った油が別の場所に炎を誘導する。


それは工房全体への延焼を防ぎ、逃げ道を作るための冷静な判断――だが、時に情に流される一面もあった。


菊乃が動く時、そこには人を思う温かさがある。お千代が動く時、そこには情報と生き残りへの執念、そして誰にも見せぬ「裏の情」があった。


お千代は、煤で汚れた小柄な職人姿のまま、煙と炎の中を誰にも気づかれぬように素早く身を引いた。その瞳は、周囲の混乱を冷静に見据える黒猫のような鋭さを湛えている。謎めいた笑みを浮かべ、懐に鳳凰丸機関図を収める。その裏には、「横須賀造船所 フランス人技師団 予算書」の写しが隠されていることに、まだ誰も気づいていない。


***


工房内は炎と煙、剣戟と叫び声、新しい技術の断末魔が渦巻く混沌と化していた。赤い炎が天井近くまで揺れ、焦げた木の匂いが鼻をつく。


新太郎は、つばきを庇いながら必死に周囲を見渡す。つばきの瞳には「絶対に諦めない」という強い光が宿っている。新太郎はその強さに、不安の中でも勇気をもらう。


影照は、煙の中で鋭い声を張り上げ、職人たちに的確な指示を飛ばす。その目は、炎の向こうでも冷静さを失わない。


義経は、沈黙のまま敵の背後に回り、鋭い動きで浪人を無力化していく。刀身が一閃し、煙の中に消える。その表情には、武士の矜持と覚悟が浮かんでいた。


田中久重は、炎に包まれるボイラーの前で額に汗をにじませる。震える手で「西南戦争用に開発した耐熱煉瓦」を投げつけ、技術が崩れ落ちる光景に、苦悶と無念の色を浮かべた。


それぞれが、生き残るため、そして日本の近代化と技術の未来を守るため、自身の信じる道を必死に貫いていた。


闇夜の襲撃は、来るべき激動の時代の、ほんの序章に過ぎなかった。



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