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技術の輝き

冬の夜気をものともせず、田中久重製作所の工房は、まるで生き物のような熱気に包まれていた。煤けた梁が、うなる歯車と軋む金属音に共鳴し、石炭の黒煙がガラス天井に渦を巻く。油と鉄の匂い、蒸気の湿り気、淡いガス灯の光――ここは、近代日本の夢が燃える場所だった。


作業台の中央では、「東洋のエジソン」と称される田中久重が、誇らしげに国産初の蒸気船模型「鳳凰丸」を披露しようとしている。

幼い頃から手先が器用で、べっこう細工やからくり人形、時計の製作に没頭した久重は、「からくり儀右衛門」と呼ばれた天才発明家である。


江戸・京都・大阪を巡り、からくりや時計、無尽灯、万年時計など数々の革新的な機械を生み出し、佐賀藩で日本初の蒸気機関や電信機の製造にも携わった。

その飽くなき探究心と「人びとの役に立つものをつくりたい」という信念は、やがて明治の近代化を支える技術の礎となった。


真鍮の輝きと精密な歯車の連なりが、ガス灯の光を反射し、工房の隅々まで“技術の輝き”を放っていた。


***


その夜、慶應義塾の使節団――桐生新太郎、有馬つばき、綾部影照、真田義経ら若き才覚たちが工房を訪れていた。

彼らの任務は、日本の最先端技術を自らの目で確かめ、欧米視察の参考とすること。

さらに、殖産興業政策の現場での工夫や課題を調査し、「実学」のあり方を報告することだった。


作業台の脇、熱気の中で影照が振り向く。彼の瞳は好奇心に輝き、模型の細部を指差す手は油で黒く染まっている。


「つばきさん、君の観察眼には毎度驚かされるよ。接合部の歪みまで見抜くとは。」


つばきはノートを閉じ、柔らかな微笑みを浮かべる。彼女の指先は、いつも無意識に鉛筆を回している。


「いえ、父の仕事を手伝っているだけです。でも、こうして現場で職人さんたちの工夫を見られるのは本当に貴重です。」


影照が頷き、模型を指差す。


「この鳳凰丸、和式ぜんまいの応用が随所にある。日本の技術も、捨てたもんじゃない。」


新太郎は二人のやりとりを見守りながら、意を決して口を開く。彼の声は少し緊張気味だが、誠実さがにじむ。


「……僕も、何か手伝えることがあれば言ってほしい。こうして間近で見ると、学問だけじゃなくて、現場の知恵がいかに大事か痛感するよ。」


つばきが振り返り、励ますように微笑む。その目には、仲間への信頼が宿っている。


「新太郎さんの観察力は、きっと役に立ちます。私たち、みんな違う強みがあるんですから。」


影照も笑みを浮かべる。彼の笑顔は場の空気を和ませる力がある。


「学び続ける姿勢こそ、時代を動かす原動力だ。福沢先生も、きっとそう仰るはずだよ。」


その様子を少し離れた場所で見ていた義経が、静かに声をかける。彼は背筋を伸ばし、工房の隅々に鋭い視線を走らせている。


「……油断は禁物だ。技術の進歩には、必ず影がつきまとう。」


影照が義経に目を向ける。


「さすが義経さん。現場を守る人がいてこそ、私たちも安心して挑戦できる。」


義経は無言で頷き、腰に手を添えたまま、工房の空気を張り詰めさせていた。


***


工房の一角――。


発明家・綾部影照は、作業台のすぐ傍で鳳凰丸のシリンダー部に顔を近づけていた。その瞳は興奮に輝き、指先が部品のわずかな隙間をなぞる。


「この圧力調整……和式ぜんまいの応用か?」


興奮気味に呟き、田中久重や周囲の職人たちに次々と技術的な質問を投げかける。


影照にとって、ここは知識と創造性が満ちる場所だった。


つばきは模型の側面、英国製ボイラーと国産鋳鉄の接合部に目を凝らす。父が貿易商である彼女は、幼い頃から西洋の道具や技術に触れてきた。


指先で溶接痕をなぞり、懐から取り出した小さなノートに「歪み0.2インチ以内」と素早く記す。


手元には、父が輸入した測量器材の精度を思い描く計算書。


「父の器材があれば、さらに精度が上がるはず」


そう注釈を加え、近くの職人に尋ねる。


「この接合部、どうやって測定しているのですか?」


職人が「目測が主だが、最近は英国の器具も使い始めている」と答えると、つばきは満足げに頷く。


彼女の関心は、技術そのものだけでなく、それが現場でどう活かされているか、そして女性が技術に関わる可能性にも向けられていた。


新太郎は、二人の専門的なやりとりを少し離れて見守っていた。


工房全体の熱気と、技術者たちの真剣な表情に圧倒される。


(越後訛りが抜けきらない自分が、ここで何か役に立てるのか――)


内心で焦りを感じ、思わず拳を握りしめた。手のひらにじっとりと汗がにじむ。


父の「時代に流されず、己の信念を貫け」という言葉が脳裏をよぎる。


新太郎は模型の動きや職人の手元を、食い入るように観察する。


(学問こそが毒を中和する……)


福沢諭吉の言葉を胸に、「学び続けることで、この時代の波を乗り越えよう」と静かに決意した。


一方、警護役を任された真田義経は、工房の片隅で静かに全体を見渡していた。


代々会津藩に仕えた武士の家に生まれ、剣の腕を見込まれて使節団に抜擢された寡黙な男だ。


工房の熱気や技術の進歩よりも、義経の目は常に周囲の危うさに向けられている。


職人たちが田中久重に西洋式の敬礼をする様子を見て、どこか落ち着かない表情を浮かべた。


(武士の礼ではない……)


胸の奥に、じわりと古い時代の誇りと新しい時代への戸惑いがにじむ。


刀の鍔に刻まれた葵紋を無意識に握りしめる。その手には、維新の動乱で多くを失った過去の痛みが宿っていた。


義経は静かに呼吸を整え、工房の隅々に視線を走らせる。


ふと窓外に目をやると、夜の闇が工房の光を飲み込むように一層濃くなっていた。


その暗闇の中で、何かが動いた気配がある。


義経は静かにその場を離れ、音もなく窓際へと歩み寄る。


呼吸を整え、周囲を鋭く見渡し始めた。


(この「文明開化」の輝きが、新たな闇を引き寄せている――)


そのとき、田中久重が「次は実物大の鳳凰丸を……この技術で日本の海を守るのだ!」と夢を語る。


工房内に拍手と歓声が広がる。熱気が一層高まった。


しかし、義経の視線の先――窓外の闇はさらに濃く、不穏な気配が忍び寄っていた。


(この技術が、やがて争いの火種になるかもしれない……)


闇の中には、旧時代の誇りを胸に、新時代に抵抗する者たちの影が静かに潜んでいた。


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