絆の萌芽
倉庫の薄明かりの下――。
港沿いの古びた倉庫街。石畳の上には潮風が吹き抜け、薄い霧が足元を這う。錆びた鉄扉の隙間から漏れるランプの灯りが、壁に長い影を落としていた。
倉庫の一角、木箱や麻袋が乱雑に積まれた狭い空間で、綾部影照とイーサン・グラントは声を潜めて向かい合う。影照の黒い瞳が鋭く光り、イーサンの金髪がランプの灯りにちらつく。
「……君の設計図があれば、英国も黙っていないだろう」
「その前に、君の銃の秘密を聞かせてほしいね」
倉庫の外からは、波止場に打ち寄せる波音と、遠くで鳴る汽笛が微かに響いていた。
そのころ、闇市の北端――。
闇市の外れ、湿った石畳の路地裏。提灯の淡い光が、壁に貼られた古い広告や剥がれかけた看板を照らす。周囲には野菜や薬草を売る屋台が並び、香辛料と人いきれの混じった空気が漂う。
つばきと新太郎は、菊乃から渡された紙片を頼りに、人気のない裏路地を慎重に進む。古びた倉庫の前にたどり着くと、扉の隙間からはかすかな灯りと人の話し声が漏れていた。
つばきは封筒を握る手にじっとりと汗を感じ、新太郎も無意識に息を呑む。夜の静けさに、遠くで誰かの低い声と、金属の軋む音が混じる。二人は顔を見合わせ、小さく頷き合った――この扉の向こうで、何かが始まろうとしている。
「ここが……」
新太郎が低く呟いたその瞬間、倉庫の奥から怒号が響いた。
「西洋かぶれが国を滅ぼす!」
闇に紛れて、刀を抜いた浪人たちが現れる。
鋭い刀身がランプの光にぎらりと光り、空気が一気に張り詰めた。
薄暗い倉庫の中、古びた木箱や樽が乱雑に積まれ、床には油の染みと埃が広がっている。壁際のランプが頼りなく揺れ、空気は重く、どこか薬品めいた匂いが漂っていた。
その静寂を裂くように、砂利を踏みしめる足音と、刀が鞘から抜かれる鋭い金属音が響く。
埃にまみれた着流し、血走った目、口元には歪んだ笑み――浪人たちが倉庫の影から次々と現れ、闇に溶け込むように周囲を囲む。
その中の一人が声を張り上げる。
「影山伝蔵様のご意志だ!この国を穢す者は、我らが討つ!」
新太郎はその名を耳にし、つばきの肩越しに倉庫の奥を必死に探す。つばきも息を呑み、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。二人の間に、張り詰めた緊張が走る。
影山伝蔵の姿はどこにも見えない。だが、その名が放つ威圧感と、浪人たちの狂信的な熱気が、空気を重く塗りつぶしていく。
(どうする――逃げる?それとも……)
浪人たちは血走った目で倉庫に雪崩れ込み、刀を振りかざして叫び声を上げる。木箱が倒れ、樽が転がり、鋭い刃が空気を裂く音が響く。砂利を踏みしめる足音、怒号と悲鳴が交錯する。
「やめろ!」
影照が叫ぶが、その声も混乱の渦にかき消される。浪人の一人が隅に積まれた樽を日本刀で一閃――次の瞬間、鼻を突く刺激臭とともに白い煙が勢いよく噴き出した。
「青酸ガスだ!」
イーサンが叫び、素早く懐から煙幕弾を取り出して床に叩きつける。爆ぜる音、さらに広がる煙――倉庫内は一気に白い靄に包まれた。
視界が奪われ、誰がどこにいるのかも分からない。咳き込む声、足音、誰かの叫び――全てが混ざり合う。
影照は咄嗟に上着の袖で口元を覆い、薬品棚や非常口の位置を探して周囲を見回した。額には冷たい汗が滲み、心臓の鼓動が耳の奥で高鳴る。
つばきと新太郎は、混乱と恐怖の中で互いの手をしっかりと握り合う。つばきの指先は氷のように冷たく、新太郎も喉の奥がひりつく痛みに耐えながら、必死に前方を見据えた。
(このままじゃ……何か、方法を――)
倉庫の天井から煤けた梁が不気味に軋み、今にも崩れ落ちそうな音が響く。床を這う白い青酸ガスの靄が、足元からじわじわと広がり、呼吸のたびに胸が焼けつくような苦しさが襲う。
咳き込み、叫び、誰かの足音――音が遠ざかり、視界が白く霞んでいく。新太郎とつばきは必死に煙の外へと逃れようと、手探りで出口を探した。
新太郎の胸は焼けるように苦しく、目の奥がじんじんと痛む。
(落ち着け……何か方法があるはずだ!)
ふと、壁際に並ぶ薬品棚が目に入る。ガラス瓶がいくつも並び、かすかにアルカリ性の匂いが漂っていた。
(そうだ、石灰水……!)
蘭学書で学んだ化学反応式が、断片的に脳裏をよぎる。
「石灰水と酢酸……ガスを中和できるはずだ!」
咳き込みながらも、新太郎は声を振り絞る。
「みんな、布を濡らして口と鼻を覆って!薬品棚に石灰水がある、手伝って!」
つばきは恐怖を押し殺し、和装の帯をほどいて指先で素早く裂き、布片を作り出す。手はかすかに震えていたが、瞳には決意が宿る。
「新太郎さん、これを!」
布を手渡し、自分も口元を覆いながら、他の者たちにも声をかける。
「落ち着いて!深呼吸はだめ、浅く息をして!」
影照は無言で石灰水を使った即席の防毒マスクを作り、イーサンと目配せしながら仲間たちに配る。イーサンは英語混じりの日本語で浪人たちにも呼びかけるが、浪人たちは「西洋の道具など使えるか!」と叫び、顔をしかめて咳き込みながらも刀を手放そうとしない。その頑なな表情と、混乱の中で揺れる瞳が、倉庫の白い靄にぼんやりと浮かんでいた。
倉庫内には、白い煙と咳き込み、叫び声が渦巻いていた。梁の軋む音と薬品の刺激臭が、なおも危機の続くことを告げている。
***
騒然とした倉庫の片隅――菊乃は、もとよりこの周辺の様子を密かに探っていた。闇市での異変や浪人たちの不穏な動きをいち早く察知し、設計図の受け渡しが行われるとの噂を聞きつけて、裏路地の陰に身を潜めていたのだ。
白粉の下の細い目が鋭く光り、年季の入った指先が浪人の懐へと迷いなく伸びる。着物の袖口からちらりと覗く古びた数珠――その一瞬の動きには、裏社会で生き抜いてきた者だけが持つ冷静さとしたたかさがあった。
(やはり、ここに来て正解だったね……)
混沌とした人波をすり抜け、菊乃は浪人たちの間に巧みに身を滑り込ませる。紙の束――開陽丸の設計図の写しを抜き取ると、それを素早く懐にしまう。すぐさまつばきに目配せを送り、無言のうちに「安心しな」と伝える。
「これが狙いだったのね……」
つばきは小さくうなずき、菊乃の行動に感謝の意を込めて目を合わせる。胸の奥では、恐怖と安堵、そして自分もこの危機の一員なのだという覚悟が入り混じる。指先はまだかすかに震えていたが、視線には決意が宿っていた。
***
倉庫の奥――。影照は煙と騒然とした空気の中、薬品棚を手探りで漁っていた。額には汗が滲み、視界は霞む。それでも、蒸気機関の部品と薬品を迷いなく組み合わせていく。
長い指が瓶の中身を正確に計量し、即席の吸引装置が次々と形になっていく。その横顔には、冷静さの奥に焦りと責任感が滲んでいた。
「技術は善か悪か……」
影照の呟きは、煙と騒音にかき消されそうになる。
その声に、新太郎が咳き込みながらも力強く応じた。顔は煤と汗に汚れ、呼吸は荒いが、瞳だけは真っ直ぐ前を向いている。
「学問こそが毒を中和する。福沢先生がそう仰った!」
新太郎は震える手で調合した薬液を装置に注ぎ込む。装置が低いうなりを上げて空気を吸い込み始め、白く霞んでいた視界が徐々に晴れ始める。
その混乱の隙を突いて、イーサンは素早く設計図の一部を懐に滑り込ませた。彼の青い瞳が一瞬だけ冷たく光り、薄く笑みを浮かべる。
(この国の未来は、まだ誰の手にもない――)
英語で小さく「これで日本海軍が造れるね……」と呟いたが、その声は誰にも届かなかった。
浪人たちは、菊乃が設計図を奪ったことに気づき、顔色を失って叫び声を上げる。
「伝蔵様に報告せねば!」
刀を手にしたまま、互いにぶつかり合い、足元もおぼつかずに倉庫の出口へ殺到する。誰かが刀を落とし、叫び声が裏返る。埃と怒号だけを残して、彼らは闇に消えていった。その背中には、恐怖と忠誠が入り混じった複雑な色が浮かんでいた。
倉庫には一瞬、緊張の糸が切れたような静寂が訪れる。だが、天井の梁が大きくきしみ、崩落の気配が強まる。埃と粉塵が舞い、空気がずしりと重く、床が微かに震え始める。
「皆、急いで外へ!」
新太郎が声を張り上げ、つばきの手をしっかりと引く。つばきは息を切らしながらも、菊乃の姿を探して振り返る。菊乃は最後尾で、鋭い目つきで周囲を警戒しつつ、影照とイーサンを手早く促した。影照は吸引装置の動作を最後まで見届け、イーサンと目を合わせてから出口へと駆け出す。
背後で梁が大きく軋み、崩落寸前の鈍い音が夜の闇に響いた――。外の冷たい夜気が、ようやく彼らの頬を撫でる。
外に出た瞬間、倉庫の屋根が轟音とともに崩れ落ち、夜空に粉塵が舞い上がった。港の灯りがぼんやりと霞む。
新太郎は膝に手をつき、肩で息をしていた。つばきが駆け寄り、そっと背中をさする。
「大丈夫?」
「……ああ、なんとか。でも、危なかったな……」
(こんな場所で、俺の田舎訛りが出たらどうしよう、とか、そんなことを考えている場合じゃなかった……自分の無知と弱さを思い知らされた……)
新太郎はつばきの手の温もりに、ようやく現実に戻る気がした。
つばきは少し息を整え、ふっと微笑む。
「さっきは本当に助かったわ。新太郎さんがいなかったら、私は……でも、こうして自分の目で危険な現実を見て、学ぶことの大切さを改めて感じました」
「いや、僕こそ。つばきさんが帯を裂いて即座にマスクを作ってくれたおかげで、何とか持ちこたえられたんだ。あと、あの煙幕も…」
二人のやりとりに、影照が歩み寄る。煤にまみれた顔で、しかしどこか楽しげな目をしている。
「君たち、なかなかやるじゃないか。あの状況で冷静に立ち回れる人間は、そういない。」
新太郎は照れくさそうに頭をかきながら、影照に向き直る。
「桐生新太郎です。越後から出てきたばかりで、まだ慣れないことばかりですが……。えっと、もしかして、あなたも慶應義塾の……?」
「綾部影照。そう、君と同じ使節団の随行員だ。まさか、こんな形で顔を合わせるとは思わなかったけどね。」
つばきも、二人のやりとりを見て小さく頷く。
「有馬つばきです。私も慶應義塾の随行員に選ばれました。……新太郎さんには、父のことで巻き込んでしまったけれど、こうして三人でここにいるのが、なんだか不思議な気がして。危険な場所だと分かっていましたが、家のため、そして私自身のためにも、負けていられないと思ったんです。」
影照がふっと笑う。
「不思議、か。だが、今日の君たちの勇気と判断力がなければ、全員無事じゃ済まなかった。僕はただ、できることをしただけさ。」
新太郎は、つばきと影照の顔を順に見つめ、胸の奥に小さな火が灯るのを感じる。
「……これが、使節団の“絆”なんでしょうか。」
つばきはそっと微笑み、影照も静かに頷く。三人の間に、言葉にはならない確かな連帯感が生まれていた。
影照の言葉に、新太郎は静かに頷き、拳を胸に当てる。
「でも、僕は信じたい。福沢先生がおっしゃったように、学問は無知という毒を中和するように、私たちの力も、互いに助け合うことで、どんな毒にも立ち向かえるって。」
つばきはその横顔を見つめ、そっと微笑んだ。
「私も、そう思います。知識も、勇気も、一人ではなく、皆で持ち寄ることで、未来を切り開く力になる。」
影照は、新太郎とつばきの言葉を聞き、自らの「工夫すれば必ず道は開ける」という信念を思い返す。
「ああ。技術と学問、そして絆――これが俺たちの武器だ。」
その瞳には、新たな決意が宿っていた。
言葉の余韻が夜気に溶けた、その瞬間――
「おやおや、青春の誓いってやつかい?」
低く艶のある声が、三人の輪に割って入る。振り向くと、菊乃が設計図の束をひらひらと掲げていた。白粉の下の細い目が、月明かりに鋭く光る。
「これで一件落着、ってわけじゃなさそうだけどね。」
菊乃は肩をすくめ、設計図を懐にしまいながら三人を見渡す。その目には、裏社会で生き抜いてきた女のしたたかさと、どこか達観した憂いが浮かんでいた。
つばきは一歩前に出て、菊乃に小さく頭を下げる。
「菊乃さん、助けてくださってありがとうございました。」
菊乃はにやりと笑い、三人の若者を順に見つめる。
「礼なんていらないよ。あんたたち、これからが本番さ。」
その声に、三人は一瞬だけ顔を見合わせる。夜風が、菊乃の着物の裾を揺らす。彼女の横顔には、遠い過去を思い出すような影が一瞬よぎった。
遠くで、浪人たちの叫びが夜風にかき消されながらも耳に残る。
「伝蔵様に、必ず……!」
イーサンは倉庫の陰で設計図の切れ端を懐に忍ばせ、誰にも気づかれぬように闇へと消えていく。その背中には、異国の野望と新たな火種が静かに潜んでいた。
新太郎たちは、崩れた倉庫と霞む港の灯りを見つめていた。新太郎は胸の奥に小さな不安を抱えながらも、仲間と共に歩む決意をかみしめる。つばきは静かに息を吐き、夜空に浮かぶ月を見上げる。影照は手のひらに残る薬品の匂いを感じながら、遠い未来を思い描く。
夜の静けさの中、三人の物語は、確かにここから始まった。港の風が、彼らの前途に新しい夜明けを告げていた。