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影の取引網

「長崎、高島炭鉱、浪人三百集結――」


軍艦「龍驤」の無線室の、狭くも無機質な空間には、機械油と金属の匂いが満ちていた。


青白いガス灯が、床を這う無数のコードと最先端のマルコーニ式火花送信機に長く影を落とす。菊乃は受話器に耳を当て、ノイズ混じりの電信音の中から、微細な信号を読み取っていた。


冷たい受話器の感触が手のひらに残り、電信機の微かな振動が机に伝わる。花街で鍛えられた観察眼と、長年の経験で培った暗号解読の特技が、無機質な符号の羅列から決定的な情報を紡ぎ出す。


彼女の信条は「情報こそが最大の武器」。その信念が、彼女の集中を研ぎ澄ませていく。


手元の暗号帳に素早く「パリ」「闇オークション」「鳳凰丸機関図」という単語を書き留める。指先は冷気と緊張でわずかに震えていたが、その瞳には裏社会で生き抜いてきた女の冷静さと、過去に救えなかった人々への痛みが宿っていた。


暗号を解読し終えると、菊乃は息つく間もなく新太郎たちに報告した。


「パリで、スパイ市場の闇オークションが開かれる。出品目録に『鳳凰丸機関図』の名があるわ」


声は低く抑えられていたが、言葉の端に危機感と、この情報をどう使うべきかという打算、そして日本の行く末を案じる本心が深く滲む。


報告を受けた一同は、緊張に息を呑み、次なる行動へ向けて静かに動き始めた。 新太郎はその情報の重みをすぐに理解した。


手のひらにじっとりと汗がにじみ、呼吸が浅くなる。国産初の蒸気船「鳳凰丸」の設計図が流出すれば、日本の近代化計画は大きく狂い、未来が列強の思惑に左右される危険性を直感したのだ。


「もし設計図が流出すれば、日本の未来は大きく変わってしまう……」


この時ばかりは、故郷越後訛りのコンプレックスも意識の片隅から消え、ただ「自分が誰かの役に立てるか」「家族や仲間を守れるか」という信念が彼を突き動かしていた。


影照は低く呟いた。


「これまでの事件がすべて繋がった。薩摩産硝石、横須賀造船所、そしてこの機関図――次の舞台はパリだ」


彼の視線は遠くを見つめ、欧州留学時代に爆薬事故で失った仲間の記憶と「技術の危うさ」が脳裏をよぎる。


「技術は人のためにある」――その信念を胸に、影照は技術の悪用を食い止める強い決意を固めた。彼の胸には「工夫すれば必ず道は開ける」という静かな情熱が宿っていた。

護衛役の真田義経は、静かに愛刀「安綱」の柄に手を添えた。刀の冷たさが手のひらに伝わり、背筋が自然と伸びる。


「敵も味方も、ここから本当の戦いが始まる」


その瞳には、戊辰戦争で多くを失った旧時代の武士としての誇りと、守るべき仲間と日本の未来への覚悟が静かに宿っていた。


窓の外では、夜明け前の空が淡く色づき始め、遠くで汽笛が低く響いていた。新たな戦いの幕開けを予感させる空気が、静かに部屋を満たしていた。


***


一方、遠くニュージャージー州メンローパークの診療所では、メアリー・ブラウンが硫黄と油の匂いがこびりつく薄暗い診察室で、従業員の診療記録を整理していた。


紙のざらつきが指先に残り、机の冷たさが手のひらに伝わる。ふと「水銀中毒症例」の記載に目を留める。エジソン研究所の作業員が次々と手足の震えや幻覚、記憶障害、情緒不安定などを訴えているのだ。


メアリーは「すべての人に学びと自立の機会を」「小さな親切が社会を変える」という信念を持つ宣教師であり医療従事者だ。


彼女にとって、これはかつて告発した人体実験にも通じる、人間の尊厳に関わる問題だった。


「これが、発明の代償……」


メアリーは手鏡を取り出し、白髪を見つめて小さく息を呑む。手鏡を持つ手がわずかに震え、目の奥に疲労と諦めきれない憤りが宿る。


キリスト教的な博愛精神と目の前の過酷な現実とのギャップに、彼女は何度も胸を締め付けられていた。


科学の光が強ければ強いほど、その裏に潜む「影」もまた深くなる――。


確かに人の命が削られている現実を、メアリーは静かに、しかし痛切に思い知るのだった。


***


その頃、ニューヨークの金融街では、ウェスタン・エレクトリック社の買収を巡る噂が飛び交い、石畳を踏みしめる靴音と人々のざわめきが夜の空気に溶けていた。


薄暗い路地で、裏社会の国際ブローカー、イーサン・グラントが情報屋と密談を交わしていた。彼の目は獲物を狙うように鋭く、「日本産竹フィラメント」の技術が電球革命の鍵となると囁く。


低く抑えた声とわずかな笑み――イーサンにとって世界は「金と力で動く」ものであり、この新たな技術もまた、莫大な利益を生む道具に過ぎなかった。彼の指先はわずかに震えていたが、その目は新たな取引の可能性にぎらついていた。


一方、エジソンは綾部影照と「和紙絶縁体」の共同研究契約を結んでいた。


ランプの明かりが実験机を照らし、日本の伝統的な知恵と最新技術が静かに融合していく。有馬つばきはその科学的意義と女性の社会貢献の可能性を論文にまとめていた。


ペン先が紙を滑る音に耳を澄ませながら、「女性でも世界を広げ、社会に貢献できる」と信じる自分の思いを一文字ずつ刻み込んでいく。


彼女の瞳には、科学者として、そして女性としての強い信念が宿っていた。


***


夜、使節団は次なる目的地――パリへの旅立ちを決意する。


甲板に立つ新太郎が、静かに言葉を発する。


「鳳凰丸機関図を、絶対に取り戻す」


潮風が頬をなで、仲間たちはそれぞれの信念と覚悟を胸に、静かに頷いた。


遠くで汽笛が鳴り、夜明け前の空がわずかに明るみ始める。


彼らは新たな時代を切り拓くための戦いの地へと、静かに歩みを進めていくのだった。


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