太平洋の覚悟
深夜のサンフランシスコ湾岸は、重く湿った空気と、絶え間ない波の音が支配していた。
潮風が頬を冷たく撫で、遠くで響く汽笛が、まるで巨大な獣の呻きのように夜の静けさを切り裂いていく。波止場の板はじっとりと濡れ、足元から冷えが這い上がる。
新太郎は外交団の面々を静かに海岸へと導いていた。彼の手には、外交官夫人たちの更衣室で天然痘ウイルス混入の可能性が示唆された批准書が握られ、指先はかすかに震えている。呼吸は浅く、胸の奥で心臓が早鐘のように鳴る。
「学問こそが毒を中和する」という福沢諭吉の教えを胸に、彼は今、目の前の命を守るため、これまでの学びを総動員しようとしていた。
「この書類は、私たちが守るべき命を蝕む罠です。ここで終わらせましょう」
新太郎の声は低く、だが確かな決意が滲んでいた。その言葉には、理想主義と現実主義の狭間で揺れる彼の葛藤と、それでも真実を貫こうとする痛みが入り混じっていた。
***
湾岸の霧の向こうでは、1871年のサンフランシスコ天然痘流行――死亡率30%という史実の影が、今も街に重くのしかかっている。新太郎たちの決断が、未来を左右する夜だった。
つばきはそっと頷き、新太郎の隣で祈るように手を組む。手のひらはじっとりと汗ばみ、胸の奥で心臓が静かに、しかし確かに高鳴っていた。
「女性でも世界を広げ、社会に貢献できる」――その信念が、恐れと希望の狭間で、彼女の瞳に強い光を宿していた。
影照は冷静な口調で、だがどこか焦りを滲ませながら説明する。
「インクに含まれる痘瘡膿は、炎で分解される。だが、焼却時に青白い閃光が見えたら、それは燐光反応――天然痘ウイルス由来の燐が発光する証拠です」
彼の目は、技術の善悪を問い続けるかのように、炎の行方をじっと見据えていた。その横顔に、技術者としての責任と苦悩が浮かぶ。
義経は周囲を鋭く見渡し、波止場の暗がりや物陰に目を光らせていた。刀の柄に添えた手には、いつでも動けるよう緊張が走る。
「……敵はまだ近くにいるかもしれん。油断するな」
低く短い声が、旧時代の武士としての誇りと、新時代への戸惑いを秘めながら、仲間の緊張を引き締めた。
新太郎は批准書を火にかざし、息を止めて火をつける。紙が焦げる匂いとともに、炎が一瞬青白く、不気味なほど鮮やかに夜の海岸を照らした。
その光が四人の顔を青ざめさせ、誰もが息を呑む。潮風が頬を撫で、波音が遠くで響く中、
「……これで、少なくとも1871年のサンフランシスコの人々は救われる」
新太郎の声はかすかに震えていた。
つばきは静かに「でも、まだ終わりじゃない」と呟き、夜の闇を見つめた。海風が四人の間を吹き抜け、潮の匂いとともに、遠くの波音が次なる試練の予兆のように響いていた。
***
その陰では、「世界は金と力で動く」と信じる国際ブローカー、イーサン・グラントが、焼却後の灰を密かに回収していた。
まだ熱を帯びた灰の中から、彼は冷徹な計算と野心の光を宿す指先で、金箔の小さな欠片をつまみ上げる。
その動作は慎重でありながら、指先はわずかに震えていた。イーサンは欠片を月明かりにかざし、唇の端を上げて満足げに微笑む。
「金含有量……これが分かれば、鉱山の位置も割り出せる」
彼の目には、新たな利益への欲望がぎらついていた。遠くで仏船リュシーヌ号の汽笛が低く響き、イーサンの影は静かに闇へと溶けていった。
***
ホテルに戻ったつばきは、静まり返った廊下を歩きながら、ふと痰壺の中に一枚の紙片を見つける。
紙片を拾い上げる指先は汗ばんでおり、紙のざらつきが手に残る。貿易商の娘として培われた「鋭い観察眼」が、「技術の危うさ」と「命の重み」を再び突きつけてくる。
新太郎は口元を引き結び、胸の奥で新たな決意を固める。義経は窓の外に目をやり、刀に添えた手に力を込める。
「敵はまだ動いている」
義経の低い呟きが、朝焼け前の静けさに溶けていった。武士として「義」を貫き、仲間を守る彼の覚悟が、新たな脅威への警戒感を高めていた。
***
夜明けのサンフランシスコ。空が淡いローズ色に染まり始め、街が静かに目覚めていく。四人はそれぞれの胸に新たな覚悟を刻み、太平洋を越える次の戦いに備えていた。
窓の外には、広大な海と、まだ見ぬ新たな陰謀の気配が広がっていた。彼らの旅は、まだ始まったばかりだった。




