学問の炎
桐生新太郎は、三田演説館の重厚な扉が冬の朝の冷気を押し返す音を背に、教室の隅に身を潜めていた。明治四年二月、東京――新政府の息吹と旧幕の影が交錯するこの時代、慶應義塾三田演説館の梁には英国船「サラミス号」の甲板材が使われている。その天井から差し込む淡い光が、教壇前の机に刻まれた無数の墨跡を静かに照らしていた。
新太郎はそっと手を伸ばし、机の端に彫られた「独立自尊」の四文字を指先でなぞる。木のざらつきが肌に伝わるたび、越後訛りの抜けない自分への劣等感が胸の奥で疼く。――田舎者だと、また笑われるかもしれない。だが、父の「時代に流されず、己の信念を貫け」という言葉が、静かな炎のように心の底で燃えていた。
「……学問でこの舌根を鍛えねばならぬ」
小さく呟いた声は、教室のざわめきに紛れて消えたはずだった。だが、隣席の青年がちらりと新太郎を見て、微笑む。新太郎は頬が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らす。
教室の前方では、福沢諭吉がゆっくりと壇上に上がる。右手には『学問のすすめ』初編の草稿、左手には英国製の懐中時計。その鎖がマントの隙間から覗き、彼の動きに合わせて微かに揺れた。時計の針が静かに時を刻む音が、教室の静寂に溶け込む。
「諸君!」
福沢の声が、木造の講堂に反響する。ざわめきが一瞬で静まり、百余名の塾生たちが一斉に前を向いた。新太郎は思わず背筋を伸ばす。
「この梁は、横浜製鉄所の廃材だ。かつて幕府の鎖国思想を熔かした炉が、今は学問の礎となっている。君たちは、何を礎に生きるのか?」
窓枠の一部には、黒こげの痕が残る。戊辰戦争の砲撃で焼けた跡だ。新太郎はその痕を見つめ、時代の変わり目に立つ自分の小ささを痛感した。――僕は、何を礎にすればいいのか。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず――」
福沢が草稿を掲げ、ゆっくりと読み上げる。新太郎の胸の奥が熱くなる。父から何度も聞かされた言葉――だが、今ここで福沢自身の口から語られると、その重みが違う。
「学問を修めよ。学問こそが、時代の毒を中和する唯一の力だ。」
福沢の拳が机を叩く。机の木目が振動し、その衝撃が新太郎の指先にまで伝わる。新太郎は、思わず息を呑んだ。
最前列、ひときわ凛とした空気をまとい、有馬つばきが静かに立ち上がる。和装の袖が微かに音を立て、朱塗りの硯箱が机上に置かれる。その中から覗く一冊の洋書――『The Subjection of Women』。異国の思想と伝統の硯箱、二つの時代が交差する。
つばきの瞳は真っ直ぐ福沢を射抜いていた。普段は物静かながら、その佇まいにはどこか人を惹きつける強さがある。
「福沢先生。英国のミル女史が唱える参政権を、我が国はどう受け止めるべきでしょうか?」
講堂がざわめく。女子が最前列で発言するなど、前代未聞だ。それでも、有馬つばきの声は揺るがない。
――有馬つばき。噂には聞いていたが、これほどまでに堂々とした人だったとは。新太郎は彼女の横顔を見つめ、胸の奥に小さな羨望が芽生える。
福沢は一瞬、有馬つばきを見つめ返す。その瞳に、驚きと興味が交錯した。
「その答えは、君自身が探れ。ただし――」
福沢は懐から洋装本を取り出し、有馬つばきの机にそっと置く。
「原書で読むことだ。」
有馬つばきは微かに口元を緩め、メモ帳に『The Subjection of Women』と素早く書き留める。その手元の動きが、教室の空気をさらに引き締めた。
周囲の塾生たちが息を呑む中、新太郎は自分の手の震えに気づく。息を整えようとするが、胸の奥がざわつく。――有馬つばき。やはり、ただ者じゃない。僕にも、つばきのような勇気があるのだろうか。
「学問は、己を鍛え、時代を切り開く剣である」
福沢の声が再び響く。新太郎は、机に刻まれた「独立自尊」の文字をもう一度なぞった。指先に伝わる木の温もりと、ほのかな墨の香りが、彼の心に静かな決意を灯す。
「……俺にできるのは、学ぶことだけだ。それが、俺の剣になる。」
その呟きは、胸の奥に小さな火を灯すように、静かに沁みていった。