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解剖図の秘密

青白いランプの灯りが、狭い医務室の壁に淡く揺れていた。つばきは女性船医・滝川玲子と肩を並べ、分厚い「グレイ解剖学書」の和訳に黙々と取り組んでいる。


真夜中を過ぎた船内には、わずかな潮の香りと古びた紙のざらつき、インクの匂いが静かに混じり合っていた。時折、船体がきしむ鈍い音が、静寂を破る。ランプの光がページの上に影を落とし、つばきの横顔を淡く照らしていた。


玲子は真剣な眼差しで筋肉組織の挿絵を指差す。「ここの構造、面白いわね」と、まるで新たな発見に興じるかのように小声でつぶやいた。


つばきは、父が貿易商であることから幼い頃より西洋の道具や測量器材に触れてきた経験を生かし、鋭い観察眼で玲子の指先を追う。挿絵の隅に、微細な点字のような奇妙な刻印があることに気づいた。好奇心に駆られ、灯りの角度を変え、そっと指でなぞる。冷たい紙肌にざらりとした感触が伝わり、つばきの心臓が高鳴る。


やがて、指先から浮かび上がったのは、想像を絶する不穏なメッセージ――「コレラ菌 横須賀貯水槽」という暗号文だった。


つばきは一瞬、息を呑み、玲子の顔を見上げる。二人の間に、静かな緊張が走った。


つばきは息を呑み、指先がかすかに震えるのを感じた。胸の奥が冷たく締め付けられ、血の気が引いていく。脳裏には、先日菊乃が低い声で警告した偽造輸出許可書の件が鮮明によみがえる。

(またしても、裏で何かが動いている……?)

灯りの揺れが顔に影を落とし、呼吸が浅くなる。


玲子と目が合った瞬間、彼女の瞳にも同じような驚きと緊張が走った。玲子は一瞬だけ唇を引き結び、無言で頷く。

医務室の空気は、一瞬にして凍りついたかのように重くなった。外では波音が静かに響き、船体の揺れが床下から微かに伝わってくる。つばきの心臓は高鳴り、未曾有の謎と、それが日本の未来に与えるかもしれない甚大な影響に挑む決意が胸に芽生えていく。


「女性でも世界を広げ、社会に貢献できる」――その信念が、困難な状況で揺るぎない覚悟へと変わっていった。つばきは背筋を伸ばし、静かにページを閉じた。


***


一方、南太田の診療所では、消毒液と汗の混じる重い空気の中、メアリーが隔離室の患者の傍らで険しい表情を浮かべていた。

患者の喉から絞り出すようなうめき声が、壁越しに響き渡る。灯りの下、中原佳乃は疲労をにじませながらも、冷静沈着な眼差しで予防接種記録簿をめくっていた。

紙の感触が指先にざらつき、ページをめくるたびに小さな音が静けさに溶けていく。その知的で鋭い観察眼が、ある署名に止まる。


「メアリー先生、この署名……フランス人技師の名前が三度も重複しています。不自然すぎます」


佳乃は眉をひそめ、記録簿をメアリーに差し出した。女性が医師として認められない社会の壁に何度もぶつかりながらも、ここまで道を切り拓いてきた佳乃。


その心には、この不審な署名が、ただの事務的なミスではないという警鐘が、鋭く鳴り響いていた。握るペン先に力がこもり、佳乃の視線は記録簿の名前をじっと見つめて離さなかった。


メアリーは患者の発疹をじっと観察した。赤黒く腫れた皮膚に指先をそっと近づけ、その青い瞳には深い悲しみと同時に、揺るぎない確信が宿る。静かに息を整え、メアリーは低い声で告げた。


「この症状は……天然痘です」


その声は震えず、だが言葉の重みが室内の空気を一層重くした。


佳乃は驚きに目を見開き、二人の間に緊迫した沈黙が流れる。メアリーの手が患者の手をそっと握りしめる。窓の外では、夜風がカーテンをわずかに揺らし、遠くで野辺送りの橇の音がかすかに響いていた。

これは、ただの病ではない。何かが裏で動いている――そんな直感が、二人の胸に静かに広がった。


メアリーは祈るように目を閉じ、「神よ、どうか……この命だけは救いたい」と心の中で呟く。幼い頃から培われたキリスト教的な博愛の精神が、疲弊した彼女を突き動かしていた。


佳乃もまた、医師としての責任と、目の前の圧倒的な現実の厳しさ、そして西洋医学の知識だけでは立ち向かえない「闇」に、唇を固く結び、どう対処すべきか苦悩していた。指先に力が入り、記録簿の紙がわずかにしわを作る。


***


そのとき、玲子がカルテを確認しようと身じろぎした瞬間、白衣のポケットから小さな金属音が床に落ちた。つばきが驚いて視線を落とすと、銀色に光る会員章がランプの灯りに反射して転がっている。


拾い上げた指先には、ひんやりとした金属の感触が伝わる。表面には「仏領インドシナ ハノイ医学協会」の文字が精緻に刻まれていた。玲子は一瞬だけ表情を曇らせ、内心の動揺を隠すように慌ててそれを受け取る。


「……昔、留学していた頃のものよ」


その声はかすかに震え、どこか言い訳めいた気配を帯びていた。玲子の視線はつばきから逸らされ、手元のカルテに落ちる。玲子が何かを隠しているのは明白だった。つばきは会員章を手放しながら、胸の奥に小さな疑念の種が芽生えるのを感じていた。


医務室の窓の外、夜の波間には不審な漁船が一艘、静かに漂っているのが見えた。窓ガラス越しに潮風の冷たさが伝わり、提灯の淡い光が波に揺れて、つばきの頬にもかすかな明かりが映る。

時折、船影が闇に溶けては再び浮かび上がり、遠くで木の軋む音や水面を叩く波の音が微かに響いた。その静寂の中に、何者かの意図が潜んでいるかのような、底知れぬ不穏な気配が満ちていた。


つばきは、手の中の暗号文と、目の前の会員章、そして玲子の動揺を重ね合わせ、胸の奥に不安と同時に、新たな謎を解き明かすための強い好奇心と決意が湧き上がるのを感じた。

指先はわずかに震え、会員章を握る手に力がこもる。だが、その瞳には「女性でも社会に貢献できる」という信念を貫く光が宿っていた。


(私も、医学の道を切り拓く者として、この謎から逃げない――)


玲子もまた、つばきの真っ直ぐな視線を受け止め、呼吸を整えながら何かを決意したように静かに頷いた。二人の間に、目に見えぬ確かな連帯感が生まれ、医務室の空気がわずかに引き締まった。


***


一方、南太田の診療所では、メアリーが患者の手をそっと握りしめていた。隔離室の空気は消毒液と汗の匂いが混じり合い、死の気配が濃く漂っている。

患者の手は冷たく、メアリーの指先がわずかに震える。疲労で重くなったまぶたを上げ、限られた薬品と道具を見つめる。


どんな絶望的な状況でも「小さな親切が社会を変える」という自身の揺るぎない信念を胸に、今できる最善を尽くす覚悟を新たにした。彼女の祈りは、夜の静寂にそっと溶けていく。


(神よ、どうか……この命を、お救いください)


夜の横浜港――文明開化の光が水面に揺れ、遠くでは汽笛が低く響く。港の冷たい空気に波音が重なり、漁船の提灯が闇を漂う。誰も知らぬ場所で、日本の未来を揺るがす新たな陰謀が静かに動き出している。


つばきは医務室の窓辺で、会員章を握りしめながら決意の光を瞳に宿し、玲子はカルテに目を落としつつも、つばきの横顔に静かな共感を寄せる。佳乃は記録簿を握る手に力を込め、メアリーは患者の手を離さず祈り続けていた。


それぞれの場所で、それぞれの使命を胸に、時代の波と対峙している。新たな謎と危機の予感を胸に、彼女たちの戦いは、まだ終わらない。


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