夜明けの密約
夜明け前の横浜港。冷たい潮風が波止場を吹き抜け、深夜の密輸作業の微かな足跡をかき消していく。潮の匂いに混じって、火薬と油の不穏な香りが鼻腔を刺した。
国定龍之助は、港の奥に広がる煤けた倉庫の陰で、その巨躯を静かに動かしていた。身長六尺を超える堂々たる体躯、分厚い肩と筋骨隆々の腕。顔には戦場で刻まれた古傷がいくつも走り、鋭い目元は夜の闇でも油断なく光っている。顎には立派な口髭がたくわえられ、和装の裾からは重厚な脛当てが覗く。
龍之助は、足元の砂利を踏みしめながら、周囲の気配を一瞬も逃さない。潮風に乗って、遠くの船の錨鎖の音や、仲間の低い囁きが微かに聞こえる。配下の浪人たちに無言で目配せし、時折、ふっと口元に柔らかな笑みを浮かべる――その一瞬に、親分肌の温かみが滲む。
だが、全身からは裏社会で生き抜いてきた男だけが持つ冷徹な威圧感が漂っていた。過去の戦場の記憶が、潮風の冷たさとともに胸をよぎる。
(ここで退けば、誰も救えねぇ――)
龍之助は、闇の奥を睨みながら、ゆっくりと歩を進めた。
彼は自らスペンサー銃を詰めた木箱の一つを運び出し、手際よく「仏領インドシナ向け」と書かれた荷札を貼り付けていく。大きな手で札を押さえる仕草は粗野だが、指先の動きには驚くほどの繊細さがあった。
幾多の修羅場をくぐり抜け、命を賭してきた経験が、その手の動き一つひとつに染みついている。龍之助の横顔には、過去を乗り越えた者だけが持つ静かな自信が浮かんでいた。
その横では、まだあどけなさの残る若い税関吏が、まるで人形のように無表情で「生糸検査済」の朱印を木箱に押していく。朱肉の湿った音が、静かな港に不気味に響く。彼の指先はわずかに震え、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「これで表向きは完璧だな……」
龍之助は小声で呟き、税関吏に鋭い目配せを送る。その口元には大ぶりの煙管が挟まれており、そこから一筋の煙が夜空へと溶けていく。
煙の香りとともに、彼の背中には新たな時代の波をも恐れぬ覚悟と、己の「義」を貫く強い意志が漂っていた。
税関吏は、袖の下に忍ばせた「長崎産硝石」と墨で書かれた小袋を、そっと確かめる。ざらつく布の感触と、微かに立ちのぼる硫黄の匂い――それは、この夜の裏取引の代償であり、同時に日本の行く末を左右する火薬の原料でもあった。彼は一瞬だけ周囲を見回し、何事もなかったかのように帳簿を閉じると、足早に夜明け前の港へと消えていった。
金と力、そして時代に流される者たちの無言の共謀が、波止場の冷たい空気に静かに溶けていった。
***
その頃、波止場の陰では、菊乃が身をかがめ、闇に溶け込むような身軽さで潜んでいた。潮風の冷たさが頬をかすめ、遠くで波が静かに打ち寄せる音が響く。彼女は懐から取り出した小さな暗号帳を月明かりにかざし、繊細な指先で「3/15 仏船入港」と素早く書き記す。
その手は、冷気と緊張の入り混じった微かな震えを帯びていたが、港の動きを捉える切れ長の瞳は一瞬も警戒を緩めない。(これで次の手が打てる……)
菊乃は小さく呟き、情報こそが最大の武器――そう信じて生き抜いてきた自分を、心の奥で静かに鼓舞した。唇に謎めいた笑みを浮かべ、衣擦れの音も立てずに身を翻す。彼女の気配は、夜の闇に溶けて消え、港には再び静寂だけが残った。
***
南太田の診療所では、コレラ患者のうめき声と咳き込む音が夜通し響き渡っていた。煤けた長屋の床には、米のとぎ汁のような下痢便の匂いがこびりつき、生石灰の消毒臭と混じり合って鼻を刺す。
アメリカ人宣教師のメアリー・ブラウンは、疲労困憊の体に鞭打ちながら、患者の懐にそっと手を差し入れた。
(何か手がかりがあれば……)
指先に触れたのは、くしゃくしゃになった一枚の紙片。湿った紙を慎重に広げると、それは「横須賀造船所 給与明細」だった。薄暗い灯りの下、フランス人技師の名がいくつも並び、その中に、かつて西南戦争で旧幕府側に与した武将の名を見つけた瞬間、メアリーは思わず息を呑んだ。青い瞳が驚愕に見開かれる。
「どうしてこんなものが……」
その声に、中原佳乃が顔を上げる。疲労の色濃い顔で、驚きと戸惑いが入り混じった眼差しをメアリーに向けた。
「これが……本当に、あの横須賀造船所の……?」
佳乃の声には、医師としての責任感と、目の前の現実に対する無力感が滲んでいた。診療所の空気は、患者のうめき声とともに、さらに重く沈んでいく。
メアリーは手にした給与明細を月明かりにかざし、震える指でその文字を何度もなぞった。胸の奥に冷たいものが走る。
(国際的な陰謀が、ここにも及んでいるのかもしれない……)
彼女はかすれた声で呟いた。
「この給与明細は、私たちに何かを告げている」
佳乃は無言でメアリーの手元を見つめ、沈黙が診療所の空気をさらに重くする。
診療所の窓の外では、隔離された患者たちが石灰をまかれた筵に包まれ、野辺送りの橇が乾いた音を立てて軋る。
夜気に混じる石灰と消毒の匂い、遠ざかる橇の音――明治政府の新しい避病院規則に従い、遺体は厳重に隔離され、家族も遠くから見送るしかなかった。誰も声を上げず、ただ背を向けて立ち尽くす家族の影が、月明かりに長く伸びていた。
その静かな光景が、時代の冷たさと人々の孤独を、何より雄弁に物語っていた。
メアリーは、その悲痛な光景を窓越しにじっと見つめ、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じていた。「小さな親切が社会を変える」という信念がある一方で、この時代の巨大な闇を前にした無力感が、彼女の心に深い葛藤を生んでいた。指先がかすかに震える。
(本当に、私たちの行いは意味を持つのだろうか……)
「文明開化の光の裏で、こんな現実があるなんて……」
佳乃がぽつりと呟く。その声には、疲れと悔しさがにじみ、わずかに震えていた。彼女は拳を強く握りしめ、窓の外の光景から目をそらせない。
メアリーは静かに頷き、手の中の給与明細をしっかりと握りしめた。「でも、佳乃先生。私たちにできることは、ここで命をつなぐことだけ。どんな闇の中でも、希望の灯を消さないこと」
その言葉に、佳乃は小さく頷き返す。二人の間に、静かな決意が生まれる。
窓の外には、夜明け前の淡い光が差し始めていた。港の静けさの下で、密約と陰謀、そして新たな時代の胎動が静かに進行している。夜明けの光が診療所の窓を淡く染め、メアリーと佳乃の横顔にも、わずかな希望の色を映し出していた。




