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気持ちが落ちてしまいそうな時は


マンションの廊下を歩く由花を、追う足音はない。


追いかけられても突き放すつもりではいたけど、追いかけてもくれないという現実が、孤独で惨めだった。


和希のマンションを出て、足早に駅まで歩き、電車に乗って、また歩き、由花のマンションに帰ってきた。

一つ一つの動作に意識を向けないと、どこまでも歩いて行ってしまいたくなるし、どこまでも電車に乗って行きたくなる。

和希も仕事も何もかも捨てて、誰も知らない遠くへ行ってしまいたかった。


だけど自暴自棄になっても、結局はどこへも行けるはずがない。

闇雲に歩いていっても、電車をどこまでも乗り過ごしていっても、もっと惨めな気持ちになって、どこか遠い場所で泣くだけだろう。


明日の休日が終わったら、明後日が来るし、明後日は日曜で仕事が一番忙しい日だ。

仕事を無断欠勤したら、後に困るのは由花自身だ。

誰にもなんの復讐が出来るわけではない。


思わず出た「復讐」というワードに、由花はおかしくもないのに笑ってしまう。


だいたい復讐って、なにを復讐するというのだ。


和希はただ、仕事の仲間をマンションに呼んで、飲み会を開くだけだ。その話が本当かどうかは今となっては分からないが、浮気だという決定的な証拠はない。


こんな事で付き合った4年という年月にピリオドを打つ方が間違っている。もっとちゃんと証拠を握るか、話し合うべきだ。


話も聞かずに一方的に別れを告げれば、由花の心が狭いと言われるだけだ。

「嫉妬深い女だ」と責められるのは、由花の方になるのだろう。





「………でも」


結局持って帰ったケーキの箱を見ながら、由花はつぶやく。


「でも今までずっと、毎日仕事で遅いから連絡も出来ないって言ってたじゃない。でも今日みたいに、帰ろうと思えば帰れたんじゃない。あんな早い時間なのに、二人で買い出しにまで行ってたんでしょう?

女なんて部屋に入れるわけないよ、って言いながら、部屋に入れてるじゃない。二人きりで部屋にいても、「ただの同僚ならしょうがないよね」って許すと思ってるの?

だいたい今許したら、これからも女の人を呼んでもいいって事になるでしょう?」


帰りながら渦巻いていた思いを口に出すと、ハッキリとした答えが出る。


「だったら無理。許すなんて、私は無理。これから毎日「今ごろ女の人といるんじゃない?」って和希を疑うなんて、そんなのしんどいだけじゃない。信用も出来ない人と、付き合っている意味ある?時間の無駄じゃない?

きっともう、私達はずっと前から終わっていたんだよ」



言葉に出しながら涙が止まらなかったけど、心はどこかスッキリしていた。


ずっと苦しかったのかもしれない。

どこかで終わりにするキッカケが欲しかったのかもしれない。


以前の和希は、何よりも由花を大切にしてくれたが、今の和希は、何よりも仕事と仕事仲間を大切にしている。


仕事仲間じゃなくて、新しい彼女なのかもしれないが、この際どうでもいい。



とにかく、とっくに優先順位は変わってしまっていたのだ。それだけの話だ。


由花はもう、和希にとって何より大切な存在ではなくなっている事は明らかだった。



答えを出してスッキリしたつもりだが、涙は止まらない。


泣きながらお風呂を沸かして、とっておきの入浴剤を入れて溶かした。本当は和希と会う前日に使おうと思っていた、ローズティーの香りのするものだ。今は自分のために使いたい。


夜の肌のお手入れは、いつか使おうと思っていたデパコスのサンプルの、化粧水と乳液と美容液を使う事にしよう。

確か美容雑誌の付録に付いていた、人気のブランドのヘアミルクとボディミルクのサンプルもあったはず。


今日は美味しいケーキ屋さんのケーキが4個もあるし、今度和希が来た時に開けようと思っていた、ご当地ワインの小瓶もある。


誰も知らない遠くへは行けないけれど、とびっきり贅沢な週末を送ることは出来る。

なんならこの前買った可愛いTシャツを、贅沢にも部屋着として最初に着てもいい。


絶望して、化粧も落とさず泣き崩れたくはなかった。

明日鏡の中に、泣き腫らした顔の痛々しい自分を見たら、きっともっと惨めになってしまう。


(これ以上惨めになりたくはない)と、由花は必死な思いで、どんどんとっておきの物を開けていった。







翌朝早くに、由花はスッキリとした気分で目が覚めた。カーテンの隙間からは、明るい朝の光が差し込んでいた。


昨夜はワインのおかげかよく眠れて、仕事の疲れは取れていた。

鏡を見ると、高級コスメのサンプルが効いて、潤ツヤ肌になっている。


いつもより調子のいい肌に、「大丈夫。私はちゃんと立っている」――そんな感じがして安心できた。




マグカップに紅茶のティーバッグを入れて、飴を一つ落としてお湯を注く。


今日の飴はミント飴だ。

紅茶の香りと共に、ふんわりとミントの香りも立ち上がる。


由花はストレートティーよりも、少し甘い紅茶の方が好きだ。

昔はお砂糖を入れていたが、バイト仲間だった子が、紅茶に飴を入れているのを見て真似してから、紅茶に飴派になっている。


朝は一個の飴、疲れている時や気が重い時は二個の飴。

今は一個の飴で大丈夫。


スッとした甘さの紅茶を飲みながら携帯を開くと、夜遅くに山ほどの着信が入っていた。


昨夜は着信音を切って、携帯をカバンの中に入れたまま見ないようにしていた。着信があってもなくても、眠れなくなると分かっていたからだ。

心のどこかで連絡を待つ自分がいたし、迷いがある時に電話を取って言い訳を聞いたら、絶対許してしまうに決まっている。



由花は着信歴を見ながら考える。


メッセージには、「誤解だ」「愛してるのは由花だから」「今日会いたい」「信じてほしい」と書き連ねてあった。



「会いたい」「愛してる」とあれだけ聞きたかった和希の言葉は、今の由花にはもう響かなかった。

今はもう、ただ由花を繋ぎ止めようとするだけの言葉にしか聞こえない。


「誤解だ」と言うが、誤解でも誤解じゃなくても同じだった。


もしかしたら部屋にいた人は、本当にただの同僚だったのもしれない。

だけど誤解だとしても、誤解されそうな状況を作る和希に幻滅した。

部屋に二人きりでいるなんて、いつ誤解じゃない関係になるかも分からない。


由花はずっと、「女の子を部屋に入れた時点で、私はもう和希を信用しないし、言い訳も絶対に聞かないよ?」と和希に話していた。



他にも、「これから由花の休みの日は、必ず会いに行くよ」と書いてあるが、他の日は誰と会うのかと疑ってしまう。それに義務で会いに来られても、由花も気が重いだけだ。


「これから女の子は絶対に部屋に呼ばないよ」とも書いてあるが、今さらその言葉を信じられるわけがない。


もしここで和希とやり直す事を選んでも、由花は昨日の事を無かった事になんてできない。

許したフリをしながら、心の中では和希を罵る日々は、きっと今までよりも苦しいだけだ。


だから、もう会わない方がいい。

これ以上ズルズルと関係を続けていてもしょうがない。





じっくりと考えて、「やっぱり無理ね」と答えを出す。


「ごめんね。もう信用できないし、もう会いたくない」

「別れよう」

「今までありがとう。さよなら」


立て続けにメッセージを送ると、すぐに着信が入ったが、電話には出なかった。


長い付き合いになるのだから、きっと由花の意思は届くだろう。

由花がわざと電話に出ない時は、絶対に何があっても電話に出ない事は和希も知っているはず。



何度かの着信のあと、連絡は止まった。

由花の意思は伝わったらしい。


由花はホッと息をつく。


(今日は肌の調子は絶好調だから、美容院に行こう。美容師さんも、失恋したから髪切りに来たのか?なんて思わないはず。

それから新しい服とコスメも買って、帰りにデパ地下でお惣菜も買っちゃおうかな。なるべく明るい外の世界を見よう)


最近「どうせどこにも行かないし」と、あまり買い物もしていなかった。「こういう時こそ贅沢しちゃおう」と、由花は予約が入りそうな美容院を探し始めた。








「今から一人でお買い物なんですか〜?少し髪を巻いておきますね。お姉さん可愛いから、絶対声かけられちゃいますね」


美容師さんのサービストークに合わせて笑いながら、(大丈夫。私は明るく笑えてる)と鏡越しの自分を確認する。


初めて担当してもらった美容師さんは、由花の希望以上通りの髪型に仕上げてくれて、気分が上がっていく。

鏡に映る由花は、いつもより可愛く見えた。

美容師さんが「こっちの方が、お姉さんに似合いそう」とアドバイスしてくれた髪色も、由花の肌の色に合っていた。


美容院を出る頃には、お買い物気分がさらに盛り上がって、普段着る機会のないワンピースも手に取ってみる。


店員さんに「それ絶対お姉さんに似合うと思いますよ!」と、サービストークに乗せられて試着をすると、確かになかなか似合っている。


(これを着て、今度の休みはどこかに行こう)と、一人のお出かけを楽しみにさせてくれる服だった。



新しい髪型と新しいワンピースに合わせたアイシャドウとリップもお買い物する。

コスメはプチプラだけど、可愛い色のものが見つかって、次の休みが楽しみになった。


デパ地下のお惣菜売り場では、グラム単価の高さに慄いたが、(今日は特別!)と言い聞かせながら、少しだけお買い物した。

少しの量でも、特別な料理に気分が上がる。




帰り道、(これだけ素敵な一日を過ごせたのだから、寂しさに負けて、流されたりしないようにしよう)と、由花は紙袋を持つ手に力を込めた。


外の明るい世界で、どれだけ他に意識を向けても、心から気持ちが晴れていたわけではない。

それでも家に向かう足取りは、朝よりもずっと軽かった。


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