言葉
言葉は生き物だから、使役することは不可能なのだ。使役しようとすること自体が烏滸がましい振る舞いである。それは直接言葉に使役されることに他ならない。支配・被支配の単純な関係でしかものを語ることが出来ないならば、それはもう死んでいるも当然である。誰かが何かを伝えようとするときにしばしば想起される、誰かから他の誰かへ言葉を介在して何事かを伝達するという使い古された典型的なイマージュ。それが真なら、我々はずっとずっと昔に息絶えたまま、火葬場のもくもくと吹き出る煙とまっさらな青空を漫然と眺めているだろう。「私」が言葉を発するのではない。「我々」が意味を発掘するのではない。「誰か」が歌を歌うのではなく、音楽を奏でるのではなく、リズムを刻むのではなく、耳を塞ぐのではなく。眠りを彼の地に。それもとびっきり長い眠りを。幽霊がうたた寝している。腹を割って話そうではないか。すかっすかのお腹を、向こうの風景が透けて見えるぐらいの。「言葉」がこんこんと湧き出している。言葉は生きている。蠢いている。死んでいる。歌っている。眠っている。今ここにありてあるもの、それこそが言葉なのだ! ……なら言葉に支配されているって? そんなことはありえない! 忌むべきは支配しているように「見える」ものではなく、そのようにしか「見よう」としていない、かつそのことに気付きすらせず、気付こうともしない潤沢な自尊心ならびに貧弱な想像力だ。言葉とは我々そのものなのだ。言葉は我々のすべてである。言葉はあり得たはずの、あり得なかったはずの我々の軌跡なのだから。