第93話 神喰いの器
【帝国本陣・ゲドの部屋】
焚かれた香が、鋭い香辛料のように鼻を刺す。
だが、そんな空気すらも吹き飛ばすような怒声が、闇に響いた。
「貴様、それがまともな報せか!?」
将校が床に叩きつけられたのは、赤と黒の印が交錯する戦況図。
その中央には、こう書かれていた。
《アグリスティア王宮、王族と側近により奪還される。帝国軍、全拠点より撤退》
ゲドは椅子から立ち上がり、拳で肘掛けを砕いた。装飾が散り、破片が床に跳ねた。
「この私がわざわざやった下ごしらえに、こうもあっさり手を引くとは!?」
「お、恐れながら!王族の一部が農民と手を組んで……」
「わかっておるわァ!!」
部下の言葉を遮るように、ゲドは床を踏み鳴らす。その衝撃だけで、部屋の外の兵たちが一斉にひざまづく音が聞こえた。
「ふん……役立たず共めが…!」
王族や側近がこのまま引き下がらないのは想定済みだった。
「だが、神の器だと?……忌々しい!!」
指で戦況図の片隅をなぞる。そこには、奇跡と称された天候変化の報告。
空から天使の羽な舞い、天の奇跡が玉座に降り注いだと。民衆の間では祈りが届いたと、神話めいた脚色が始まっていた。
「祈りだと?おもしろい……」
唇をなぞるゲドの目に、狂気が宿る。
「……ならば、こちらも器を用意しようじゃないか」
「ゲ、ゲド様……?」
「天に祈らずとも、命じれば全てを喰らい尽くす器をな」
ゲドが手を払うと、背後の簾がかすかに揺れた。
ズズ…ズズズ……。
鈍い音を立てて、そこから“何か”が這うように現れる。
「な……なんだ、あれは……?」
「……スライムか?いや……違う!人の形に見えるぞ…!?」
「気安く口を開くな」
ゲドの一言に、部下たちの声が途切れる。だが目は釘付けだった。這いずり歩くそれはドス黒い体に赤黒いのオーラを纏った人型の何か。
その全身には、黒鉄の鎖が幾重にも巻かれていた。鎖には刻印が浮かび、赤黒い光が脈打つたびに、床の術式がかすかに呼応する。
「……封呪鎖……?」
「怖じることはない。こいつはまだ未完の器。お前たちは幸運だ」
「ゲド様……その存在は、一体……何者なのですか……?」
ゲドはゆっくりと笑った。まるで子どもに秘密を明かすような、歓喜すら混じる笑みだった。
「こいつは……アストラを持たぬ者、ダストラどもを寄せ集め、スライムに喰わせて作った、人型の呪魔だ」
「……な、なんと!無価値の者達とはいえ、残酷な…!」
「何を驚く? 奴らは、神に選ばれなかった屑どもだぞ」
「っ……!」
「ダストラに価値がない?いや、あったさ。無能ゆえに世界を恨み、呪いに匹敵する怨嗟の念を抱えていた」
「──それを、喰わせまくったのさ」
「呪いを……喰わせたですと!?」
「ああ。スライムを媒体……いや、“器”としてな」
「お、おそろしい……!」
「これは、ただの魔物ではない。ダストラたちの怨念そのもの……世界に見捨てられた者たちの、“呪いの器”だ」
「……そんなものを一体なぜ…」
「ふん。聞きたいか?」
ゲドは静かに問い返す。誰も答えられない。
「これは神を語る者を喰わせるための口、まさしく神喰いの器だ」
「風に舞う薄氷を奇跡と称えるなど、信仰とは実に愚かしい」
「こいつが完成した暁には、神の器を名乗る者を喰らわせ、信仰をえぐり取らせるのだ!」
立て続けに捲し立てるゲド。
「ゲ、ゲド様……その存在を放った後、本当に制御できるのですか……?」
「ふん、愚問だな」
「暴走した時の保証は……!」
「保証だと?」
ゲドはゆっくりと一人の将校の方へ歩み寄った。
「ならばいっそ、貴様の家族で盾を作れ。喰わせている間に、お前は逃げれば良い」
「……………い、いえ…」
「さあ、まだ質問はあるか?」
静寂。
部下たちは皆、口を閉ざしたまま、ただ床に目を落とすしかなかった。
──そのとき。
「失礼いたしますッ!」
扉の向こうから、張り詰めた声が響いた。
一瞬で部屋の空気が切り替わる。兵士の足音が、躊躇いがちに近づいてくる。
「……何だ」
ゲドが視線もくれずに言うと、兵士は膝をついた。
「アグリスティア元王妃が……こちらに参られております」
「…………ほう」
ゲドの指が、ぴたりと止まる。
数秒の沈黙。
だがその沈黙は、あまりにも重く、長く感じられた。
「玉座を明け渡して、泣きついて来たか……」
誰に向けるでもなく、ゲドがぼそりと呟いた。
それは笑いにも怒りにも聞こえなかった。ただ、つまらなさそうな声だった。
「で、では追い返しますか……?」
「…………いや、よい。通せ」
ゲドは呪いの器を廉の奥に戻し、椅子に深く腰をかけ直した。
「利用価値、か……」
すると、兵士が退出し数分もせぬうちに、ヒールの硬い音が廊下から近づいてきた。
汚れたドレスの裾を引きずり、顔を上げたその女こそ、アグリスティア王国のかつての正妃。
涙で化粧も崩れ、髪も乱れたまま、だが目だけが激しく燃えていた。
「ゲド……!」
第一声は、まるで詰問のように鋭かった。
「あなた、なぜ迎えを寄越さないの!?」
兵士が制止しようと動いたが、ゲドは手で制した。
「ほう。亡国の貴婦人が帝国へなんの用かな?」
「黙りなさい!」
ピシャリと、王妃が言葉を叩きつける。女の声が、帳の間に乾いた音を立てて響いた。
「私はあなたのために玉座を捨てたのよ!王を、国を、家族すらも裏切って!なのに、あなたはこの私を見捨てるというの!?」
その声に、ゲドはわずかに口角を上げた。
「なるほど。しかし、恩を着せたいなら、玉座を守り、王妃であることを続けておくべきだったな」
「っ……!」
「だが……そうだな。功がなかったとは言わん。今さらとはいえ、こうして命を賭して参じてきたその忠誠に」
「忠誠…ですって……?」
ゲドは立ち上がり、椅子の背を軽く撫でた。
「ふ……冗談だ。詫びの品を用意してある」
「……詫びの品?」
「そうだ。お前がまだ“信じているもの”にふさわしい、特別な贈り物だ」
王妃の眉が、わずかにほころぶ。
「……最初からそう言えばいいのよ。やっとあなたも、私の価値を理解したのね」
彼女は裾をつまみ、静かに歩き出した。
「贈り物は……どこ?」
ゲドは、にこやかに手を差し伸べ、背後の黒い簾を指し示した。
「そこだ。奥に進むと、間もなく見える」
王妃は足早に廉の奥へと向かう。背中に異様な視線を感じながらも、“私に相応しい贈り物”を受け取りに行く気満々だった。
「まったく!もっと早くこうしていれば、すべて上手く…」
廉の奥で何かが王妃にぶつかった。
「……うぅぅ……」
「……え?」
その姿を確認する間もなく、その何かの両腕が彼女の身体を掴む。
「やだ……やめてっ!私は……私はアグリスティアの──ッ!」
簾の奥で悲鳴が空気を震わせる。直後、沼の奥に沈むような、鈍い音が響いた。
「ゲ、ゲド様ッ!?王妃が……!」
「黙れ」
静かに放たれた言葉に、兵が口を閉じる。
ゲドは、湯の冷めた紅茶を見つめながら、低く言った。
「恨みと妬みを喰らい成長する、それがあれだ。まぁ、王妃の“恨み”など、腹の足しにもならんがな」
簾の奥では、脈動する影が膨らみ、わずかに背が伸びる。
「………」
たった数分で起こった惨劇に兵達は足も口も動かせないでいた。
「アストラも持たず、力もない者たちの呪いはアストラの力に飢えている!天を操る神の器など格好の餌になろう」
「……!」
「その為にはもっとダストラを喰わせるのだ!恨みを!呪いを!もっとだ!」
鼻で笑うように言い捨て、ゲドは背もたれに深く沈み込んだ。
「さぁ、掻き集めろ!ダストラ狩りの始まりだ!」
部屋には再び沈黙が戻った。
ただ、簾の奥からは呪いの器がひとつ息を吸い込むように、音もなくゆっくりと膨張を続けていた。




