第70話 帰り道に御用心 後半
「こんなにも早く雨を戻していただけて、きっとアメフラシ達も喜んでいるでしょう」
女王の笑みが、広がりつつある水面に映って揺れた。
「……あの、女王様。俺たちまだ、雨……戻してないです」
「え?」
俺の返答に、アリスと玄太もこくこく頷く。
「では……これは?」
女王が少し目を伏せると、ウォルが後ろから小走りでやってきた。
「女王様、急報です!山に雨が戻りました!でも雨水がものすごい勢いで……!」
「くっ……やっぱり、誰かが掘り起こしたんだ」
俺の言葉に、セレヴィア女王がハッとする。
「あなた達、今すぐ出なさい!ここに閉じ込められる前に!」
「うん、行こう!」
「セレヴィア女王!ありがとう!」
俺たちはすぐに身支度を整えると、ウォルが手を挙げた。
「案内は、私がします!みなさん、ついてきてください!」
「じゃあな、ミルル!また!」
「え、あ……さよなら…」
寂しそうなミルルに振り返る余裕もなく、俺たちは逃げるように水の集落を後にした。
*****
洞窟の聖堂へ戻ると通路の足元にはもう水が溜まり始めていた。
「うおお……これ、マジで急がないとマズいやつだ……!」
「でも、これが本来の姿って事なんすね」
玄太が苦笑いしながら駆ける。だが、その笑みはすぐに凍りついた。
「ちょ、ちょっと待ってこれ。思ったよりヤバ…」
行きは普通に歩いてきた目の前の通路が、まるごと水で満たされていた。地形ごと沈み、水底へと変貌している。
ドドドドドッと奥から水が流れ込む音が響いている。
「…どんどん増えてる!勢い、強すぎない!?」
「今まで抑えられてた分、反動で勢いが強いんです!早く外に出ないと、あなたたち戻れなくなる!」
ウォルが叫ぶ言葉にゾッと背筋が凍る。
「山で溺れるなんて冗談じゃねえぞ!」
「……もう、泳ぐしかないわね!」
俺たちは決断し、持ち物を締め直す。
「私、先に行くわ!外に出られそうなルートを探ってみる!」
ウォルが勢いよく水流に飛び込んだ。
「天貴!玄太さん!私たちも行くわよ!」
「ああ!行くっきゃねえな」
「あ、ちょ!て、てんぱい!」
玄太は戸惑いながらソワソワして出遅れてる。
「おい!玄太、早く来い!」
俺の声に、玄太もようやく決意したように、水に飛び込む。
「うわっ……!?」
バシャッと音を立てて、水が跳ね上がる。玄太の姿は、一瞬で水の中に沈んだ。
「え?え?うそ……っ!?」
強烈な水流が、玄太の体をまるで糸の切れた凧のように引きずっていく。
「て、てんぱ……もがっ……!」
助けを呼ぶ声は水の音にかき消されて俺には届かなかった…。
ドドドドドドドッ……
洞窟内に流れ込む水の音が響き渡る。
「天貴!こっちよ!流れが弱まってる!」
アリスの声に、俺は必死に返事する。アリス達を追うのに精いっぱいだった。
「っぷ!ああっ、わかった!」
アリスの背を追って、水をかく。視界の端に見えるのは、泡と水流、そして前に進むアリスの姿だけ。
……そう、俺は気づいてなかった。
その後ろで、玄太が急流に流されていることに。
******
ようやく、水の流れがわずかに弱まり、俺とアリスは狭い岩間をすり抜けて外へと飛び出した。
「はぁっ……!はぁっ……!助かった……!」
崖の中腹にあいた天然の排出口のような岩場。その先には、濁った空が広がっていた。雨が……戻っている。
「……っぶはぁっ、はあ……っ!」
アリスも水を吐きながら、岩に手をついてへたり込む。
「大変でしたね…!」
「と、とりあえず……ここなら一息つける……」
俺も隣に腰を下ろして、ようやく気を抜いた。びしょ濡れの服と髪、ズキズキする腕。
けど──生きてる。
「……よし。みんな無事か?」
そう言って、俺はすぐ横を見た。
「……大変だったな、玄太!」
辺りを見回す。崖の斜面、狭い水路、俺たちが抜けてきた隙間。
「あれ、玄太…!?」
ウォル、アリス……どこを見ても玄太がいない。
「アリス!俺、戻る!」
「え……?さっきまで一緒に……って、天貴!?」
俺はアリスの返事を待たずに、水流の逆方向へと駆け戻った。
「玄太……!玄太ああっ!!」
足元はぐずぐずで、すぐに滑る。手を突いて岩をつかみ、水しぶきを浴びながら、ひとり水路を遡っていく。
「なんで……なんで隣にいないんだよ…!」
洞窟にどんどん流れる水流を見ても玄太の姿なんて、どこにもない。
「ちくしょうッ……!」
喉がひりつく。頭が真っ白になる。
気づかなかった。声、届いてなかった。俺が……俺があいつを見てなかった!
その時。
「天貴!危険だわ!!」
アリスの声が、後ろから追いかけてくる。
「アリスは馬車に戻ってろ!俺探しに行く!」
「でも……!」
「でもじゃない!!」
俺は唇を噛み、拳を握りしめた。
「玄太……溺れんなよ!絶対、助けるからな!!!」
って言った次の瞬間には、もう俺は水ん中だった。
やっと水から這い出たのに、また戻るなんて。 あの水流の速さ、冷たさ、苦しさ……死ぬかもって本気で思った。
でも……止まれっかよ!
「お前がいなくなる方が怖えぇんだよ…」
岩を掴んで、滑って、また掴んで。
俺はただ、玄太って名前だけを頼りに、水流へ逆らい続けた。
******
その頃、玄太は崩れかけた岩にしがみつき、必死に耐えていた。
濁流が肩を叩き、何度も顔を打つ。足元はとっくに沈み、手も足も痺れて感覚がない。
「たすけっ、てんぱぁー!!!」
叫ぶ声さえ、水音に掻き消される。視界はぼやけ、何が上で下かも分からない。
でも、必ずてんぱいの側に行く。絶対に戻ると信じていた。だから今は耐えるしかない。
「ぐっ……くそっ……流されるもんかぁぁぁ……!」
腕に力を込めた瞬間、指がズルッと滑った。
岩肌がぬるりと動いたように感じた。いや岩が崩れ始めてる!?
「やばっ、ちょっ……!?く、くそ……っ!」
支えていた岩が崩れ、体がフワリと浮く。
腰が水に取られた瞬間、何かが引っ張られる感触。
「……あっ、ポーチ!?」
ゴボッと音を立てて、腰のポーチが水に浮き上がっていた。
アメフラシの核が入ったポーチ。みんなが命懸けで集めたてんぱいと農場の希望。
「だめだ、流れるなっ……!待て、それだけは……っ!!」
玄太は衝動的に、支えていた岩から手を離した。
浮き上がるポーチに、手を伸ばす。身体は水に呑まれ、視界がぶれた。
冷たい水が一気に口に流れ込み、咳もできない。
「ごぼっ……!……あでがなぎゃ、でんばいがぁぁ……!」
ようやく指先がポーチに触れた、その時だった。
突如として横から、荒れ狂うような激流が襲いかかってきた。
「うわああああっ!!?」
体が持っていかれる。水が口にも鼻にも入り込んで、息ができない。
何が上下かも、何が手か足かも、もうわからない。
けど──
それでも、玄太のその手は、ポーチの紐をしっかり握っていた。
「っぐ……はなずもんがぁぁぁぁ!」
これが流されたら、てんぱいがまたスカイリンクを使ってしまう。
それだけは……絶対にさせない!!
「でんばいを……神にじないプロジェグドォォォォ……!!」
そう叫んだつもりだった。けど、声は泡になって水に消えていった。
握った手を離さないように、意識だけを頼りに…。
「ぐぼっ!?ぼがぼがが」
玄太はそのまま、水底のさらに奥へと呑まれていった。




