第36話 空と、君のあいだに
アグリスティア王都。
かつて笑顔と活気にあふれていたこの場所は、今や重苦しい沈黙に包まれていた。
市場に響いていた果物売りの声も、行き交う市民たちの笑い声も消え失せ、石畳の通りには倒された屋台や、ひしゃげた看板が無残に転がっている。
その中を、軍靴の音を鳴らしながら歩く男がいた。
「ふん、しけたツラしやがって。俺がこの国を無能な王から救ってやったというに」
赤いマントを翻し、街を闊歩するゲド。その背後には、彼直属の私兵たちが無言で付き従っていた。
すれ違いざま、通行人の一人の服を乱暴に引き寄せ、ゲドは吐き捨てるように言い放つ。
「おいてめぇ、なんだその目は。俺が誰だかわかってんのか?」
市民は顔を背ける。だがその瞳には恐怖ではなく、冷たい諦めと軽蔑が宿っていた。
(……この国を帝国に売った裏切者、ゲドめ)
その無言の視線は、何よりも痛烈だった。
私兵たちは店の看板を蹴飛ばし、気まぐれに野菜の山を潰しては笑う。ゲドは通りの端に置かれていた小さな花壇を、つまらなそうに蹴り飛ばした。
「将軍!あのカフェの女、今日は逃げたようで」
「逃げたぁ?裏路地にでも隠れたか?」
「はっ。すぐに見つかるかと」
「ふん、見つけ次第連れてこい。アレが今夜のおもちゃだからな!」
にやりと笑ったその時。石畳を踏む、異質な足音が近づいてくる。
それは漆黒のローブをまとった帝国の使者。仮面越しにのぞく鋭い視線が、すべてを見透かすようだった。
使者はゲドの前に静かに立ち、低く通達する。
「将軍殿。即刻、城へお戻りを。街での私兵による武力行使、破壊、並びに民間人への不当拘束。すべて、帝国法により禁じられております」
「はあああ!?誰に口きいてんだてめぇは!!俺はこの国を落とした英雄なんだぞ!?」
「その英雄は、帝国から貸与された玉座に座っております。それをお忘れなきよう」
無機質な声が、ゲドの怒号をすっとなぎ払った。その瞬間、後ろに控えていた私兵たちの動きがピタリと止まる。
ゲドが振り返ると、彼らは誰一人として目を合わせなかった。仮面の下で沈黙を保つその姿に、逆らえない何かを察しているようだった。
「……チッ、わかったよ。戻ればいいんだろ、戻ればよ!!」
ゲドは舌打ちし、怒りを隠そうともせずに踵を返した。
「だがなアルカノア。あの農場だけは、絶対に潰す。俺様の手でな……!」
そして、数刻後。
ゲドは玉座に身を投げ出すようにもたれかかっていた。
そこは、かつてアグリスティア王国が誇った謁見の間。今は帝国軍によって薄暗く改装され、栄華の面影はもはやない。
「なぜだ……なぜ、あんな農場に俺様が……!」
ギリッ、と拳を握りしめるゲドの前で、帝国の使者が淡々と報告書を読み上げていた。
「報告によれば、数度のアルカノア農場襲撃にて突撃部隊の約三割が負傷。作戦の失敗を帝国軍中枢は重大事と認識しております」
「黙れ……!」
ゲドが低く、唸るように声を漏らす。
「貴殿の失態はすでに本国に報告済み。戦略責任者の更迭が検討されています」
「ふざけるな!!」
ゲドが立ち上がり、赤絨毯を蹴飛ばす。
「俺はこの国を落としたんだぞ!?農場一つに手こずっただけで更迭だと!?」
「……ご理解いただきたい。貴殿が今座しているその玉座も、帝国の慈悲にて貸与されたものであると」
使者の声音は、あくまで平坦だった。だが、その中に込められた冷ややかさは、ゲドの喉元を鋭く締めつけるようだった。
「誤算は、農場の抵抗だけではありません。スカイリンクと呼ばれる天候操作のアストラによって、火災が無効化されたことが確認されています」
「……スカイリンク?あの小僧か……」
「自然現象を操るアストラは前例が少なく、研究班も対応に苦慮しています。帝国としても警戒すべき対象と認識されつつあります」
ゲドは歯を食いしばる。
あの時、炎の空を割って現れた金色の雲。あれは、ゲドの知る魔法ではなかった。
「俺が、あんな小僧場にっ」
かすれた声で、ゲドは呟く。
「……このままで済むと思うな」
その瞳に灯るのは、もはや名誉や忠誠ではなかった。
ただ静かに復讐という名の狂気だけが、じりじりと燃えていた。
***********
そして翌朝のアルカノア農場。
昨日の襲撃の余韻を残したまま、農場には朝の光と土の匂いが戻っていた。焦げた柵、ひび割れた樽。戦いの傷跡は、あちこちに残っている。
それでも。
「グロウ!こっちの柵の復旧たのむ!」
「はい!ラクターさん!」
「シーダ!まだ生きている苗や種を植えなおして!」
「分かったわ、アリス!」
「おらー!ダストラ組は俺に合わせてひたすら手ぇ動かせー!」
そしてコンバインさんの元気な掛け声に、踏み荒らされた畑の復旧作業のリズムが乗っていく。羊は除草、牛は踏み固め、風車はまだ止まったままだが、みんなの動きは力強い。
「ミノ太、あと一歩前だモ!もう一歩!」
「ブモォォオ!」
モーちゃんとミノ太の連携も絶好調。羊たちも焦げた草をきれいに食べながら、畑の再生を助けていた。
そんな中、スイカ畑で割れたスイカをかたずけていた玄太。
「あれ?なんだこれ……?」
土の中から現れたのは、スイカと同じ色の赤いネックレス。
「アリスさんのかなぁ?後で渡そうっと!」
「おーい、玄太君!
農夫のひとりがクワを手に、声を上げた。
「はーい!今行きます!」
そう言って赤いネックレスを胸のポケットにしまい、耕し班の列に飛び込んでいった。
「てんぱ~い!この爆裂クワ、マジやばいっすね!」
「んー!だよなー!」
無邪気に笑う顔。
周囲のアストラ持ちは、地面をなぞるようにサクサクと土を耕していく。でも玄太は、汗をかき、肩で息をしながら、クワを振り続けていた。
でも、わかる。あれは“気を遣ってる”顔だ。
アストラを持たない人たち。もしくは、“持ってるけど使えない”と判断された人たち。
この農場は、そんな彼らにも役割がある場所だ。
アリスとノーグの工夫。みんなの理解。誇れる環境だと思う。
でも、それでも。どこかで「線引き」はある。
「よし、この区画は完了っと!天貴!雨頼めるか!?」
「……あぁ、分かった」
空に手を向けて、ちょっと念じる。
ぽつ…ぽつ………サーーーー……。
それだけで雨が降る。
「ひゅー、助かるぜ!今日はたんまり降らしてもらうからな!次の区画終わるまで少し休んでてくれ!」
「あ、あぁ……」
ちょろっと手を上げて空に向かって念じるだけで感謝される。
いや、別にアストラ組がサボってるわけじゃない、でもなんだこの感じ。
(これが、勝ち組ってやつか……?)
この農場は誰に対しても優しい。でもこの世界では珍しい事なんだろう。でも能力の便利さで、やっぱり差は出る。例え劣等感を抱かない環境を作っていても。
現代ではなかった、‟埋められない何か”が、俺と玄太のあいだにある気がした。
「てんぱ~~い!スカイリンク最高っす!!」
「お、おぅ」
そう言って手を振る玄太に、俺は全力で手を振り返すことが出来なかった。
「っつぅ……」
背中が少し痛んだ気がした。
***********
そしてその夜。
作業を終えた俺と玄太は、湯気もうもうの風呂で肩までお湯に浸かっていた。
「てんぱい!背中流しますよ!」
なんて言ってたのに、湯船に入った途端ウトウトする玄太。
「おいおい、ここ風呂だぞ……って、寝てるし!」
俺の肩にコテンともたれかかって、玄太はすぅすぅと寝息を立てている。
あったまりすぎて落ちたらしい。ちょっと寝言で「うまっ…」とか言ってるし。
(昼間の作業中、あんなに必死で動いてたからなぁ……)
思えばあいつは、誰よりも泥だらけで、誰よりも汗をかいて、誰よりも笑ってた。でもそれって、たぶん自分が足手まといにならないようにって、無意識に頑張っちまってんだよな。
俺にそう思わせないように笑って、「気にしてないっすよ」って顔して。
「……強ぇよな、こいつ」
俺よりずっと、ちゃんと考えてるじゃねえか。
答えの無い問いに天井を見上げると、目の前を一匹の黒い仔牛がぷかぷかと通過した。
「ふぅむ……甘乳パンが恋しいのう……」
クータンが、湯船に浮かびながらぼそっとつぶやいた。
(ったく!クータンは相変わらず甘乳パン……)
「まてよ、甘乳パン!?」
その瞬間、頭の奥でビリッとスイッチが入った。
「……そうだ、そうじゃん!」
「転玄太には、“食いしん坊”ってチートスキルがあるじゃねえか!」
魔法も剣も使えなくても、特別なアストラなんかなくたっていい。
玄太には“うまっ”を伝える力がある!“うまっ”を生み出す力がある!
それだけで、誰かを笑わせることができる。元気にできる。希望にできる。
「そうだ!玄太のうまっ!で、この農場を変えてやりゃいいんだ!」
(そして何より……俺が落ち込んでる場合じゃねぇ!)
自分じゃ戦えないのに、俺の武器を持ってきた玄太。それでも俺の隣に立つために追っ掛けて来たこいつに、俺ができることをやってくしかねえ!
「よし、やるか!玄太!甘乳パン復活プロジェクト、始動だ!」
ヒーローばりにかっこよく決めたつもりが、返事はもちろん──
「くぅ……すぅ……んごぉ……」
俺の肩にもたれたまま、ぐっすり夢の中の玄太だった。




