その0 【序詩】:マリア 【お題目】:ふとっちょ人形のクロッキーとからかい~そのいち~
★熱血豪傑ビッグバンダー! 第九話『檻重ねワンダーランド』
teller:バッカス=リュボフ
――それは今から確か、二十年と少し前のおはなし。
おれがまだちっこいちっこいガキんちょで、ボロの布切れはためかせたり、よたよたふらふら、おぼつかなく歩いてたころの、おはなし。
そして、おれの隣に、まだ聖母が居た頃の話。
◆
【序詩】:マリア
【お題目】:ふとっちょ人形のクロッキーとからかい~そのいち~
◆
屍が暮らす街、だった。
セカンドアース第29地区。
地区内のスラム比率が多く、セカンドアースの各地区でも特に治安が崩壊していた場所。
いつもあちこちが土気色で、濁って油っぽい、汚い虹色を良く見かけた。
当たり前のように、街に腐臭が漂っていた。
洗っても拭えないほどの汚さの中で、おれはぼんやりのんびり、きれいなものを探していた。
でも、おれにはなにが『きれい』なのかわからなかった。
おれは今以上にからっぽだった。
痩せてたからお腹も膨れてないし、本当に何も知らなかったから、頭の中だってからっぽだった。
何も知らない、わからないおれ。
今日もよたよたぽてぽて、目的もなく、あちこち歩いて。
こどものおれは、ぺたりと、なにか、名前の知らない生きものに触れた。
昨日も触れて、撫でて、すこし戯れたいきもの。
だけど、触れてからおれはきょとりと首を傾げた。
昨日と、違う。
だって昨日までは、あたたかかった。
それが今日は冷たく横たわって、動かなくて。
なんで? ねむい? さむい?
両手でさわさわ撫でても、動かない。つめたい。かたい。
なんで、きみは昨日と違うの。
「――バッカス!」
バッカス。
おれの名前を呼ぶ声が、せまい路地裏に響いた。
そのひとは、慌てたようにおれに駆け寄って、やせっぽちのおれをひょいと抱き上げて、ぎゅうと抱き締めてくれた。
腐ったにおい、生臭いにおいに充ち溢れたスラム街だけど、このひとだけはいつも、いいにおいがする。
甘いにおい。落ち着くにおい。
香水、のにおい、らしい。
このひとのにおいに包まれるのが、心地良くて。
抱き締めてもらえたまま、おれは自然と擦り寄った。
おかあさんに甘える、赤ん坊のように。
その人は、そのひと、は。
どこかの宗教の聖母の名前を持っていた。
眼鏡の似合う、お姉ちゃん。
甘いにおいのお姉ちゃん。
空が晴れている日は、金髪が特にきらきらして見えるお姉ちゃん。
「マリア……姉ちゃん……」
「もう、バッカス。ひとりでこっちの道に行ったらあぶないよ、って言ったでしょ。心配したんだよ」
名前を呼び合って、存在を確かめ合って。
優しく優しく抱き締め合って、手を繋いで、寄り添って、一緒に生きる。
それが『家族』だって、マリア姉ちゃんは、おれに言った。
だから、マリア姉ちゃんはおれの家族。
親の顔も知らなくて、おれがまだよたよたよちよちとすら歩けなかった頃に、おれを拾い上げて抱き上げて、それからずっと傍にいてくれたひと。
育ててくれたひと。
姉ちゃん。
でも少し、おかあさんのにおい。
――だけど少し、甘すぎるにおい。
みんながみんな、自分一人生きるのが精一杯のこのスラム街で、マリア姉ちゃんがどうしておれなんかを拾ったのか。
幼い頃はその理由を考えもしなかったけど――たぶん、きっと、今思うと。
マリア姉ちゃんは、どうしようもなかったんだと思う。
寂しくて、寂しくて、寂しくて。
一人きりであの街を生きるには、どうしようもなくなってしまったんだと思う。
だからおれを、そばにおいてくれたんだ。
誰かを愛して生きることを、生き延びる理由にしたんだ。
ずっとマリア姉ちゃんと二人っきりで生きてきて、おれもマリア姉ちゃんも親が居なくて。
第29地区の空はあんまり良くない空だから、雨の日はあんまり雨に打たれたらだめだよ、とか。
ひとりでゴミ箱を漁るのはあぶないよ、とか。
あてもなくぼんやりふらふら歩いたらだめだよ、とか、狭い道や暗い道にひとりで行っちゃいけないよ、とか。
おれに生き方を教えてくれたのは、マリア姉ちゃんだった。
なんなら歩き方すらも、こけて転んだ時の立ち上がり方すらも、姉ちゃんはおれに教えてくれた。
色々おれに教えてくれたマリア姉ちゃんだけど、おれ、ばかだから。
教えてもらっても、わかんないこともあって。
おれは首をかしげたまんま、訊いたんだ。
昨日まではあたたかかった、やわらかかった名前の知らない、たぶんかわいい生きもの。
今日はつめたいんだ、かたいんだ、どうして、なんで、って。
その時のマリア姉ちゃんがどんな顔をしていたのか、わからなかった。
だってすぐに、姉ちゃんはおれを抱き締めてくれたから。
抱き締められると、姉ちゃんのかお、見えなくなっちゃうから。
――しぬ、ってことだよ。
――おしまい、ってことだよ。おわかれ、ってことだよ。
――でも、あたりまえのこと、なんだよ。
そんなことを、姉ちゃんは言ってくれた気がする。
だけどやっぱり、そのころのおれには良く、わかんなくて。
もうこの子はあったかくならないんだよ、とマリア姉ちゃんが教えてくれた時。
おわかれしなきゃね、せめて土に、埋めなきゃね。
そう、姉ちゃんに言われるがままに一緒に土を掘った時。
つめたくかたい、結局なまえも知らない、だけど時々一緒に遊んだ小さな生きものを手放した時。
あのあったかさには、もう、さわれないんだ。
そう思うと、胸の奥、なんか、くるしいんだ。
怪我してないのに、痛いところ、ある気がするんだ。
このくるしいのは、なんで、どうして。
そう、姉ちゃんに訊いたら、姉ちゃん――ちょっと寂しそうに笑って。
「そのくるしいのがね、痛いのがね。生きてるってことなんだよ」
そう、教えてくれた。
いきること。
しぬこと、の反対。
くるしいのも痛いのもつらいのに、いやなのに、それがいきることなの?
そんなのかなしいよ、やだよ。
姉ちゃんの言ってること、よくわかんないよ。
少し駄々をこね始めたおれを、姉ちゃんはまた、抱き締めて。
姉ちゃんが、あったかくて。
「……バッカスは、あったかいね。やわっこいね」
姉ちゃんの方がずっとあったかくてやわっこいのに、姉ちゃん、変なことを言って。
「今はまだ、わからなくてもね。本当は、バッカスにはあまりわかってほしくないんだけどね」
なんでだろう。
姉ちゃんの声が、小さくふるえてる気がして。
「死ぬ、の意味がよくわかるってことはね。生きることを、知ることでもあるんだよ。……それはね、喜びがね、わかることでもあるんだよ」
――ふるえた声のまんま、姉ちゃんは、おれにはむずかしいことを言った。
◆
昨日まではさわれてた、あったかさ。
それがなくなったのが、さみしい気がして。
ぼんやり両手をぱたぱたさせたり、曇り空に手をのばしてみたりしていたら、マリア姉ちゃんがおれの両手にパンを握らせてくれた。
今日はパンをもらえたから、お食べ、って。
ごはんはいつも、マリア姉ちゃんがくれたから。
ごはんがどうすれば手に入るのかなんて、この時のおれは知らなくて。
ただ、ごはんを食べる前にマリア姉ちゃんに教えてもらった通りの言葉を、最初にちゃんと言うことだけ。
それだけ、しっかり覚えてた。
「……いただき、ます」
隣で、マリア姉ちゃんも同じ台詞を言ったのが聴こえた。
きれいな声。
いつもおれの名前を呼んでくれる声。
そのきれいな声で、マリア姉ちゃんはくすくすと笑い出した。
おれはまた、首をかしげる。
今日は、よくわかんないことが多い日だ。
そんな毎日ばっかりだけど。
「バッカスってね、いつもぼーっとしててのんびり屋さんで……だから、いつもむすっとして見えちゃう顔してるのにね。ごはん食べてる時だけ、絶対やわっこくなるの。それがかわいくて」
「……やわっこく?」
「うん。雰囲気が……かな? バッカスってたぶん、まったりしてる人なんだよ」
そんなこと、言われても。
自分の顔なんて、自分がいつもどんな顔してるのかなんて、自分ひとりじゃわかんないよ。
そんな生意気なことを言って、おれはちょっとだけ拗ねた気がする。
でも、姉ちゃんはいつも優しい手で、まだパンを食べているおれのほっぺたに触れて。
「大丈夫。わたしにはバッカスがすてきな顔してるの、いつも見えてるよ。ほら、こんなに可愛い顔してる。ね、だから大丈夫。わたしはずっと、覚えてるよ」
「……んと、おれ、かわいくは、ないよ」
「かわいい、よ。ふふ、ほんとのほんとに、かわいい」
姉ちゃんはとても嬉しそうに、おれをからかうように笑ってたけど、おれはまだちょっと拗ねてた。
かわいい、が、なんでかあんまり嬉しくなかったから。
子ども扱いされたみたいなのが、なんか、やだったから。
なんでかはわからなかった。
わかんないことばかりだ。
この頃のおれはまだぼんやりした子どもで、好き嫌いの意味もよくわかってなくて。
ごはんを食べてる時にやわっこい顔してるって言われても、食べることそのものに好き嫌いがあるのか、この時はわかんなくて。
マリア姉ちゃんのことが好きなのはさすがにわかってたけど、その好きの意味も、わかっちゃいない子どもだったんだ。この時のおれは。
子ども扱いを嫌うなんて、ほんとに子どもな証拠なのに。
なんなら自分が子どもなことも、おれはきっとよくわかってなかった。
まだまだ拗ねてるおれに、姉ちゃんは、物語るように言った。
「でも、わたしね。まったりしてる人は素敵だなって思うの。時間とかをね、緩やかに愛せる人はね、すごい人なんだよ」
「……ゆるやか? あい?」
「そうだなあ……例えばバッカス、この前あそこのお店の前の……ほら、お酒の絵が描かれた看板のところでこけて、おでこぶつけちゃったでしょ」
「……うん、いたかった」
「でもバッカスが痛がったのは、こけてから一時間くらいあとだったもの。わたし、びっくりしたんだから。……あの時のバッカス、看板ぺたぺた触ったり、看板のお酒の絵をじーっと見たり……痛いことよりまず気になるものが沢山あるって感じだったな」
そうだっけ。
なんでだっけ。
看板……お酒の絵の色、気になったんだっけ。
あれが、きれいってこと、だったのかな。
「さっきの……動かなくなっちゃった子を抱いてたときもそうだよ。バッカスは、いのちの温度とか、いのちの感触とか……そういうの、探せる人なんだよ。緩やかに、色んなものを愛せる人。きっといつかバッカスは、愛がおっきいひとになるね」
「あい」
おうむ返しのように、おれは姉ちゃんが言った言葉を繰り返した。
わかんないことと知らないこと、わかってることと知ってること、わかりたいことと知りたいこと。
子どもの頃なんて、そんな気持ちがごちゃまぜだ。
「……ああそうだ。『バッカス』ってね、お酒の神様の名前なんだって」
「……かみさま? じゃあマリア姉ちゃん、おさけ、すきなの?」
おれは、マリア姉ちゃんに拾ってもらえたから。
だからおれの名前は、『バッカス』って言う名前は、マリア姉ちゃんに付けてもらえた名前。
どうして姉ちゃんはおれにそんな名前を付けてくれたのか、そういえば、その日初めて気になった。
マリア姉ちゃんは、おれの質問を聞いて困ったように笑った。
細い首を、ゆるゆる横に振った。
「うーん……お酒、かあ。ほんとはわたしね、お酒にはあんまり良い思い出、ないの。でもね、バッカス。わたし、神様はきっと好きだよ」
「かみさま」
「むかしね。この星の……セカンドアースの、そのまえ。地球って星に生きていた人が凄く多かった頃からね。神様も、神様への祈り方も信じ方も、人によって違ったんだって。だからわたし、神様ってね。みんなの心にいて、それぞれぜんぶ違う姿かたちをしてると思うの。それだと自由で、素敵だなあって」
そう言って、笑って、姉ちゃんはおれを見て。
やわっこい光を湛えた眼を、細めて。
「わたしはお酒、あんまり良い思い出ないけどね。わたしの思い出とは違うかたちの神様を探したかったのかも。……好きなもの、増やしたかったのかもね。……それで、ほんとに増やせたよ。好きなもの」
マリア姉ちゃんが、おれの目をじいっと見て、おれのぼさぼさの頭を、よしよしと撫でてくれて。
おれに難しいことばかり言うマリア姉ちゃんだけど、その優しい眼がおれを見てくれると、いつもすごく、安心した。
「ねえ、バッカス。大人になったら、いつかお酒、一緒に飲もっか。約束だよ?」
差し出された小指に、なんの疑いも持たず、おれも小指を差し出して。
小指がふんわり絡んだころ、マリア姉ちゃんは嬉しそうに、どこか遠くを見るような顔して、言った。
「……バッカスがこけちゃったお酒の看板、あったよね。いつか……いつか、バッカスが大人になったらさ。バッカス、あの看板よりおっきくなっちゃうかもね」
――知らないわかんないでいっぱいのおれの手を引いてくれる、優しい優しいマリア姉ちゃん。
こんな街で姉ちゃんが香水なんてものをつけている理由、それがこの街では『おんなのひとのにおい』だってこと、子どものころのおれは、なにも、まったく、わかんなかったけど。
でも、おれの前で穏やかに笑うマリア姉ちゃんは、あったかくてやわっこい、だいすきなひと、だった。
マリア=リュボフ。
そのひとは、おれの聖母だった。
そのうち、おれのすぐ目の前で、自ら死を選んでしまうひとだけど。
――それでもずっと、おれに生きることを教えてくれた、あたたかいひと、だった。
◆
【序詩】:マリア
【お題目】:ふとっちょ人形のクロッキーとからかい~そのいち~
【――序詩:一時、休演】
◆
――さて、物語は、また、今へと。




