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紫の繍球花(4)

瑛が謹慎になって3日目の昼のことだった。

 

瑛は何とか実家である宛国公に信件を出そうとしていた。しかし、瑛がどうしても信件を出したいと願い出ても春蘭と冬梅は内院の外には出れなかった。そこで目をつけたのは掃除係の秋菊だった。瑛は秋菊に秦姨娘へ伝言を頼むことにした。

 春蘭が心配そうに瑛へ尋ねた。

「なぜ、秦姨娘に?」

「ちょっと、思い出したの。私が幼い時に高熱を出した時、皇帝陛下が特別に太医院の侍医を遣わしたの」

 春蘭の思い出したのか、

「そうだ!確か秦侍医でしたね!」

 っと弾んだ声で言った。

「これから先、秦姨娘と宜花を守ること引き換えに実家への信件を頼んだのよ。あの時の恩を返す時だわ」

 春蘭は内心で秦姨娘がやって来るのを祈った。


 厨房の夏荷が昼食の(あつもの)を届けに行こうとすると、そこに秦姨娘が現れた。夏荷は首を傾げる。秦姨娘は薬房で薬の処方をしたり薬草を管理したりはするが、厨房には気が向かないのか現れたことがないからだ。秦姨秦娘が夏荷に気づくと、その手に握られている盆を見た。

「これは奥様の羹かしら?」

 秦姨娘が尋ねると夏荷は小さく返事をした。

「はい」

「わたくしが届けるわ。奥様にお会いしたいの」

「ですが、奥様は謹慎中で会うことはできないかもしれません」

「分かってるわ。それでも会いたいの」

 秦姨娘の気迫に負けた夏荷は羹をのせた盆を手渡した。秦姨娘はそれをしっかりと受け取るとそそくさに厨房を後にした。夏荷は秦姨娘が何をしたいのか分からなかった。それ故、秦姨娘の行動で心配になった。夏荷は彼女の後を追った。

「姨娘!秦姨娘!」

 厨房から出て、すぐにある廊下を秦姨娘は歩いていた。爽やかな肩に掛けてある水色の領巾(ひれ)がたなびいている。夏荷の声で秦姨娘は足を止めて、こちらに向き直った。

「どうしたの?早く行かないと羹が冷めるわ」

「申し訳ございません。ただ、気になったのです」

 今度は秦姨娘が首を傾げた。夏荷は顔をこわばらせながら尋ねた。

「なぜ、姨娘自ら奥様の元に出向くのか……公爵様や董姨娘に見つかれば注意だけでは済まないかもしれません。それでも、なぜ?」

「なぜ?奥様にお会いしたいの。不安ならあなたも一緒にどう?むしろ、一緒なら都合がいいの」

 夏荷は秦姨娘について行くことにした。歩きながら秦姨娘は彼女に話しかけた。

「厨房にいるあなたは気づいていない?」

「何がでしょうか?」

「婚礼の日に出された喜酒が後宮から送られてきたものだと」

(秦姨娘は気づいていたの?でも、私も気づいていたって言ったら……?)

「さあ……卑しい身分のわたくしめは……」

「そう。あの喜酒は後宮の司醞司が醸造した「酔寝(すいしん)」よ。張姨娘から聞いた時は驚いたわ」

「何がですか?」

「「酔寝」は名前の通りのお酒だけれど、厳密には喜酒には出すものではい。おまけに公爵様があまりにも長く眠るものだから、喜酒を調べたの。お酒には怪しい所はなかった。怪しいと思うのは……董修儀様が送ってきた婚礼の品よ」

 夏荷は固唾を飲んだ。秦姨娘がここまで頭が回るとは思っていなかったからだ。それと同時に喜酒に疑問を抱いた者が自分以外にもいたことに驚いた。だが、夏荷は瑛との約束を守るために口を出さなかった。

「こればかりは推測でしかないけれど」

 秦姨娘は木漏れ日が差し込む廊下をやや早足で歩く。夏荷もそれに合わせて歩いた。すると正面から着飾った董蓉が優雅に歩いてきた。秦姨娘と同じ姨娘だが、それでも董蓉とは序列が存在する。秦姨娘は董蓉に道を譲った。董蓉は秦姨娘の前まで来ると足を止めて顔を覗き込んだ。

「秦姨娘、調子はいかが?」

「董姨娘こそ、薬が効いたようですね」

「とても効いたわ。侍医の家系の娘の薬はよく効くのね。ところで秦姨娘、今日は何の日かご存知?」

「何でしょう?」

「あなたは昔からお屋敷のことに疎いのね。今日は公爵様の弟君をお迎えする日よ」

「奥様が謹慎中なのにですか?」

 その一言に董蓉の目つきが鋭いものに変わる。思わず秦姨娘はたじろいてしまう。

「今は私が仕切っているのよ。以前もそうだったじゃない」

「ですが、以前とは状況が変わりました。今は正妻がいらっしゃいます」

 董蓉は秦姨娘を睨みつけながら、その場を後にした。秦姨娘の見せた小さな抵抗は昔に取り残された彼女の矜持を傷つけた。だが、秦姨娘はそれで良かった。


(奥様が私に目をかけてくれれば董蓉なんて怖くないわ)

「姨娘、董姨娘にあんな口をきいても良いのですか?」

「この家の正妻は奥様よ。董姨娘は私と同じ妾でしかない。いつまでも正妻気取りはさせないわ」

 秦姨娘は再び廊下を歩く。そよ風が吹いてきた。羹から出ていた湯気は消えかかっている。2人が貞観軒の前まで来るとかんぬきをされた扉の前が目に飛び込んできた。貞観軒は内院の奥にあり、裏には使われていない舞台がある。秦姨娘はそこに回り込む算段だった。

「これではお会いになれないのでは?」

「手立てはあるわ」

「何でしょう?」

「お手玉よ」

「お手玉?あの投げて遊ぶ?」

「そうよ。窓に投げつけて奥様の気を引くの。確か裏手に回れるはずだから……一か八かでやるしかないけれど。あなたは羹を持って中へ。窓があったら、そこを少し開けて」

「はい」

 秦姨娘は羹を夏荷に手渡すと、裙をたくしあげて貞観軒の裏手に続く壁をよじ登った。先代の正妻が住んでいた貞観軒の手入れは行き届いていた。見上げた所に窓があったが、開いてはいない。そこよりも奥に回るが窓は開いてはいなかった。秦姨娘また奥に回る。すると窓が開いていた。

「届いて……!」

 隠し持っていたお手玉を秦姨娘は一つ、また一つと窓に向かって投げつけた。しかし、中からさ音沙汰がない。最後の一つを一抹の希望を持ってお手玉を投げる。すると窓側に人影が見えた。そして人影がこちらに目線をやっているのを確認できた。

「誰?」

 その人影の主は瑛だった。瑛は額に汗を滲ませた秦姨娘を見て驚きを隠せないようだった。秦姨娘は笑顔を見せる。

「奥様!」

「秦姨娘!?」

「侍女と馬車を外で待たせています!ご実家に信件があれば届けます!」

「助かるわ!」

 瑛は秦姨娘に秋菊を遣わせていたのだ。瑛は彼女なら引き受けてくれると睨んでいたのである。秦姨娘は潭国公府と実家の取引を中止されるのと身分の保証がないのが悩みの種だった。ならば、正妻の立場を使って取引の継続と彼女の身分を保証することを約束したのである。

「秦姨娘、これよ!」

「確かに受け取りました!」

 瑛は秦姨娘に重りをつけた信件を窓から渡した。秦姨娘は受け取ると、急いでその場から去っていった。秦姨娘はまた壁を昇り降りして、外に控えていた侍女の苓児に瑛からの手紙を預けた。


「苓児、宛国公府に」

「わかりました。奥様は他に何か?」

「ないわ……今は早く宛国公府に向かって」

「はい」

 苓児は何度も頷き、宛国公府まで用意していた馬車で走り去っていった。秦姨娘はほっと胸を撫で下ろした。しかし、その泥で汚れた彼女を陳姨娘の侍女である緑袖(りょくしゅう)が見ていた。緑袖は獲物を見つけたと言わんばかりに急いで陳姨娘のいる東屋と向かった。緑袖は笑顔で陳姨娘に駆け寄り、彼女に耳打ちをした。

「これは、何かありそうね……」

「すぐに董奥様に言いつけましょう」

 陳姨娘はゆっくり首を横に振って緑袖へ囁くように告げる。陳姨娘は何か企みを思いついたらしい。


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