紫の繍球花(3)
翌日、冷たい空気が漂う中、董蓉の告げた通り雁門郡公夫人が険しい表情で現れた。内院に案内された雁門郡公夫人は侍女も伴わずに貞観軒にやってきた。噂によれば雁門郡公夫人は気性が激しく、それゆえに嫁や妾たちに気に入らないことがあれば当たり散らしていたという。
瑛を睨みつけながら雁門郡公夫人が挨拶をするために彼女の前に歩み寄ってきた。髪は白髪混じりで高髻に結い上げている。そこに銀の歩揺を挿して、紫紺色の着物を纏っている。全体的に老いを隠せていなかったが、瑛を睨みつける眼力だけは若く、そして力強く感じた。
「潭国公夫人、ごきげんよう。孫娘の如真がお世話になっております。信件の内容が気になって訪れましたの……潭国公夫人の手を煩わせていないか心配だったのです」
そう言うと雁門郡公夫人は用意された椅子にゆっくりと腰を下ろした。彼女の言葉には刺がある。
(気の強そうなお祖母様だこと……)
「そうでしたか。陳姨娘はわたくしを嫌っておりますし、調教が難しい馬のようですの」
「孫娘が馬……?まあ面白いことをおっしゃるのね。でも、それは失礼では?」
「例え話の一つですわ。陳姨娘を調教できるのは董姨娘でしょうか?郡公夫人はどう思われますか?わたくしは陳姨娘を飼い慣らせるのは董姨娘だと思っています」
「董奥様は長い間、潭国公府の奥向きを仕切ってきましたし、正妻同様でしたから。孫娘はそれで潭国公夫人に反発をしているのかと……それにしても潭国公夫人は輿入れの次の日には侍女を罰したとか」
雁門郡公夫人が自分の番よ、っと言わんばかりに話し出した。瑛はほほ笑みを浮かべながら苛立ちをみせないようにつとめる。しかし、太ももの上で組まれていた手に力が入っているのが分かった。
「董奥様の忠告を無視した挙句、如真から捧げられた茶を受け取らなかった…しまいには如真を罰して、あからさまに妾たちを差別したとか」
「誤解です。お茶が熱かったのです。それに陳姨娘が蓋碗をわざと落としたのです」
雁門郡公夫人の眉間に皺がくっきりと浮かぶ。雁門郡公夫人は孫娘の陳姨娘を溺愛していたから、彼女のしたことは全て「偶然」と考えるようになっていた。故意で何かをしても「間違えた」という感じだ。
その環境にいた陳姨娘は歪んだ倫理感の中で育った。溺愛されて、使用人たちを顎で使い、そして故意に悪事を働いた。それが見つかっても「間違えた」で済ませる。それは潭国公府のお屋敷でも変わらなかった。ただ、董蓉がいる手前か口だけの謝罪はしていた。
「夫人、あなたの存在が如真を苦しめているのよ?何が誤解なものですか!蓋碗を落としたのは間違いです!」
「郡公夫人、いつまでも陳姨娘は可愛い孫娘ではないのですよ?公爵に嫁いだ「大人」ですわ。わたくしの存在が苦しいのであれば、わたくしは陳姨娘の存在が苦しく感じます」
雁門郡公夫人は立ち上がり、瑛を指さしながらものすごい剣幕でまくし立てる。
「もう一度、言ってごみなさい!郡公の孫娘に対してなんて事を!さすが、元妃様だわ!嫉妬で自分のことしか考えられない令嬢を潭国公の正妻にするなんて!」
(元妃様が私を選んだの?)
憤慨した雁門郡公夫人は部屋を後にしようとした。そこに潭国公が現れて、彼女を引き止めた。潭国公は彼女の表情から瑛と何かあったと感づいた。
「郡公夫人、妻が何か失礼を?」
「失礼も何も礼儀がなってない方ですわね」
鋭い目つきで潭国公が座っている瑛のことを見つめた。瑛は表情を変えずに見つめ返す。潭国公は妻妾同士の揉め事に関与することがなかった。ただ、家同士の付き合いには敏感であった。潭国公を支えているのは叔母の元妃、董修儀をはじめとする董一族、そして雁門郡公だった。
雁門郡公とは大衡国建国以前からの付き合いで、大衡国が建国されるとお互いに爵位を賜り、皇帝に仕えた。先々代の義嘉帝が皇弟・郃王に弑逆される事件があった時には義嘉帝の皇太子を命懸けで守り、郃王を討って反逆者たちを粛清した。
それが潭国公と雁門郡公の功績であり、忠臣の姿であると讃えられた。
瑛は息を大きく吸って、それをゆっくりと吐いてから平静を保ちながら雁門郡公夫人に対して尋ねた。
「郡公夫人、わたくしは国公の正妻です。郡公と国公がどちらが上の爵位かご存知ですよね?」
「爵位を盾にするなんて!ずる賢い女だわ!潭国公様、この女を休妻させるべきです」
「夫人、郡公夫人になんて言う口の利き方だ!確かに国公が上だが、郡公夫人は夫人より年上だぞ」
「そのようなこと知りません」
瑛は潭国公の言葉を冷たくあしらった。その態度が雁門郡公夫人を激怒させる。今にも殴りかかりそうな雁門郡公夫人を潭国公は落ち着いて、とか、本意ではないのです、とか言って彼女をなだめていた。
(公爵様は私の面子より家の面子を立てたいのね)
「夫人、郡公夫人に不敬ではないか!しばらく謹慎して頭を冷やすように」
「潭国公様、それでは甘すぎます!」
瑛は潭国公から初めて謹慎を言い渡されて動揺した。どうして正妻より、妾の実家を優遇するのかが理解できなかったからだ。その動揺に雁門郡公夫人は気づいて、彼女に向かって大きな声で言い放った。
「如真は謹慎なんて言い渡されたことはないわ!」
笑い声をあげながら雁門郡公夫人は1人で部屋を後にした。部屋に残された潭国公は瑛に静かに問いかけた。
「瑛、お前は雁門郡公との関係を拗れさせたいのか?」
「いいえ」
「何が不満なのだ?」
「何も」
「……もういい」
潭国公は瑛を残して、その場を後にした。瑛は潭国公に正妻としての気概を見せたかたった。しかし、それが潭国公には裏目に出てしまった。だが、一つ安堵したのは休妻を言い渡さなかったことだ。
(謹慎で済ませたのには訳がありそうだわ)
そこに潭国公の侍従である少星が慌てふためきながらやってきた。傍らには侍女頭もいた。少星と侍女頭が瑛に深々と一礼をすると真っ先に口を開いたのは侍女頭だった。少星は瑛と侍女頭の顔を交互に見つめては困惑の表情を浮かべている。
「奥様、謹慎中は毎日、写経をするようにと公爵様と雁門郡公夫人からのご達しです」
「わかりました」
侍女頭の次に少星が言う。
「公爵様は奥様が謹慎中は董姨娘に奥向きを任せるようにとも言っておりました。私は内院の鍵を預かりに参りました」
(正妻にこれは言い難い話だわ。だから、あの表情をしていたのね。まあ、いいわ。謹慎中に色々と考えられるし、この際、董蓉の手腕をみてやろうじゃないのよ……)
「少星、鍵は春蘭から受け取って。それと董姨娘にくれぐれもよろしく、っと」
瑛は2人に向かっ笑ってみせた。その明るい表情に2人は呆気にとられてしまった。瑛はすっと立ち上がるとその足で貞観軒の寝室へと向かった。瑛が謹慎を言い渡されたことを春蘭と冬梅は知って、2人は不安になったのか目を真っ赤にして寝室に現れた。
「春蘭、冬梅、姨娘たちも謹慎の話は聞いているはずよね?」
春蘭と冬梅は頷いた。
「侍女たちはある程度、自由に出来るはずだから色々と調べて欲しいの。春蘭は喜酒のこと、冬梅は董蓉のことよ。私は信件が出せるかやってみるつもり」
春蘭は首を傾げた。そして不思議そうに瑛に尋ねる。
「奥様は謹慎に何とも思わないのですか?」
「言われた時は動揺したけど考えたの。私が何故、潭国公に嫁いだのか、董蓉たちが私を嫌うのか……これを調べるためにはこちらに目がいかない方がいいって。心配しないで!この状況は打開できるから」
瑛の力強い言葉に2人は今にも落ちそうだった涙を袖で拭った。