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紫の繍球花(2)

 瑛が出ていくのと入れ違いに采容が董蓉の元に駆け寄ってきた。董蓉は涙目になっていた。それに采容は驚いて、どう声をかけてよいのか悩んだ。

「今すぐ、あの女を追い出してやる!お姉様に言って私を正妻にしてもらうわ!」

「姨娘?!」

「元妃様が後宮にいなければ私が正妻になれたのよ?!今まで差配も何もかもやってきたのに……何も知らない新参者が偉そうに。あの女が正妻じゃなかったら……」

「落ち着いてください!」

 董蓉は泣きじゃくりながら寝台に倒れ込んだ。そして胸元に手を当て表情を引き攣らせていた。董蓉は昔から強い怒りを感じると気分が高まり泣き叫んで胸が苦しくなった。騒ぎを聞いた采玉も部屋に入ってきた。采玉は董蓉の背中を擦りながら采容に語意を強めて指示を出す。

「秦姨娘を呼んで!いつもの薬を!」

「分かった!」

 采容は裙を手繰り寄せて秦姨娘の住む柳葉軒が建っている西の棟まで走った。秦姨娘の住む東の棟と西の棟を繋ぐ廊下を一気に駆け抜けると秦姨娘の侍女である、苓児(れいじ)が茶菓を運んでいるところに出くわした。

「秦姨娘はいる?!」

「采容さん?姨娘は部屋にいらっしゃいますが……」

「姨娘が苦しんでいて…」

「わかりました。直ぐに姨娘を呼びます」

 苓児が部屋の前で秦姨娘に取り次ぐと、薬を持った本人が現れた。秦姨娘は至って落ち着いているようだった。秦姨娘は董蓉が述べたように医術の心得があった。それだけではなく、実家の家業は皇宮に仕える太医院(たいいいん)侍医(じい)、医者であった。どうやって一介の侍医の娘が潭国公に嫁ぐことになったかというと、薄太夫人が病に倒れた時に馮元妃が侍医を遣わせた。それが秦侍医だったのである。

 潭国公府にやってきた秦侍医に娘である彼女が同行していたのだ。可憐な百合のような秦姨娘こと玉儀(ぎょくぎ)は好奇心を瞳に宿しながら潭国公府にやって来た。

 その姿に潭国公は惹かれた。彼は首尾よく彼女を妾に迎えるが、先に娶った董蓉は彼女を許すまで時間が必要だった。董蓉が彼女を許した時には秦姨娘の瞳に光はなくなっていた。

「この薬を飲ませれば落ち着くわ」

「姨娘、ありがとうございます!」

「急いで戻って飲ませて」

「はい!」

 采容は元来た道を再び走って行った。後に残された秦姨娘はため息をついた。苓児が不安そうな表情を浮かべて彼女を見つめた。それに気づいた秦姨娘が呟く。

「思いのまま生きているのに何が苦しいのかしら」

「姨娘……」

 彼女が嫁いだ時、潭国公が柳葉軒を訪れると董蓉は産まれたばかりの桓が熱を出した、泣き止まない、などと言って2人の時間を邪魔をした。桓が成長すると今度は董蓉自身の体調不良を訴えるようになった。しかし、それには仮病も含まれていた。秦姨娘はいつも苦しい思いをしていた。

「若様には抑肝散(よくかんさん)、董姨娘には桂枝茯苓丸(けしふくれいがん)。癇癪や苛立ちを鎮める漢方よ…董姨娘には何年も、何年も同じものを出し続けてきたわ」

 抑肝散は子どもの癇癪、桂枝茯苓丸は婦人科疾患に効くと言われている。桓は抑肝散を飲む必要はなくなったが、董蓉には飲ませる必要があった。そうしなければ、実家との取引や太医院での地位がなくなる恐れがあったからだ。

「董蓉は皇帝陛下の義妹……私の実家は侍医と薬屋。修儀様の一言があれば私の実家は終わりよ」

「元妃様は助けてはくれないのですか?」

 苓児が恐る恐る尋ねた。秦姨娘は首を横に振る。

「侍医の娘を助ける必要がある?元妃様が守りたいのは潭国公府ではなく……皇太子殿下。私が思うに、奥様が公爵様の正妻になったのは元妃様の意向じゃないかしら?奥様は宛国公のご令嬢よ。宛国公は皇太子殿下の立太子を鶴の一声で賛成させた実力者……功に報いたい気持ちと修儀様、いえ、董一族を牽制したいからじゃない?」

「わたくしめはそこまで考えが回りませんでした」

  「いいのよ。苓児、扉をしっかり閉めて。宜花が風邪をひかないように子供部屋をみてきて」

「はい」

 苓児は秦姨娘の言う通りに扉をしっかりと閉めて、子供部屋の見回りに向かった。1人になった秦姨娘は力無く椅子に腰を下ろした。自由があるように見えて何かにしばれて息もできないほど身動きのできない人生に何回も後悔してきた。その度に瞳の輝きが失われるのも分かっていた。

 采容が柳葉軒から出てきたところを偶然、冬梅が見ていた。訝しんだ冬梅は采容の後をつけた。采容の手に薬があるのも見えて、余計に訝しんだ。彼女の後をつけてたどり着いたのは厨房だった。厨房の入り口で冬梅は采容と下女たちのやり取りに耳をそばだてる。

「姨娘のお薬よ。早く煎じてちょうだい」

「すみません。今、()がいっぱいで……宜寧お嬢様の喉の薬を煎じているんです」

(董姨娘が薬?あの丈夫そうな董姨娘が?)

「そんなの後にすればいいじゃない!たかが、繍房の下女の娘じゃない!」

 そう言うと采容は「宜寧」と書かれた札のついた土瓶(どびん)を無理やり押し退けた。采容の表情に悪びれたところはなく、むしろ清々しい表情をしている。冬梅は采容の態度に気持ちをぐっとおさえた。

(早く奥様に……!)

 冬梅が振り向くと侍女頭が立っていた。そして彼女は抑揚のない口調で冬梅に告げる。

「董姨娘はこのお屋敷の全て。この件で奥様が出る幕はないのよ」

 そう告げると侍女頭はその場を後にした。冬梅は歯がゆい思いを抱いたまま貞観軒へと帰って行った。とぼとぼと肩を落として廊下を歩く冬梅を春蘭が見つけた。

「冬梅、遅かったじゃない」

「春蘭……奥様は?お休みになられてない?」

「急にどうしたのよ、何かあった?奥様ならまだ……」

 侍女頭の言葉が冬梅の脳裏に浮かぶ。この件に瑛を巻き込んでも良いのかと思う。それでなくても瑛の周りは面倒な事ばかりだ。だが、董姨娘の横暴ぶりに目を瞑ることはできない。

「春蘭、宜寧お嬢様は喉を患っているの?」

「今朝、張姨娘が宜寧お嬢様が風邪気味とおっしゃっていたわ」

「ねぇ、董姨娘は何か病気を……長期で患っている病気ってあるか知ってる?」

「何よ!質問ばっかり。冬梅、何かあったんでしょ

 ?!」

 冬梅は春蘭にすり替えられた土瓶の話をした。春蘭は意外と落ち着いて話を聞いていた。そして淡々と持論を言った。

「きっと、それは董姨娘からの言いつけじゃなくて采容の独断かもしれない。仮に董姨娘から言われていても采容の独断と姨娘に言われたら奥様は采容しか罰せられない。どちらにせよ、宜寧お嬢様が心配だわ」

「奥様に話さない?」

「侍女頭が言っていた通り、お屋敷では董姨娘が全てを握っている。奥様はまだ対抗できないと思うの。奥様にあるのは「正妻」という立場だけ。それに今は雁門郡公夫人や公爵様の弟君の話で頭がいっぱいだわ」

 冬梅の表情が曇る。それを見た春蘭が元気づけるように彼女の手を取り、明るく声をかけた。

「大丈夫よ。奥様なら何とかできるから!」

「そう……?」

「うん!」

 春蘭は冬梅に向かって微笑んだ。

 確かに瑛にあるのは「正妻」という立場だけだった。口で何とか打ち負かしているが、それは立場がそうさせているのであって真に負かした訳ではない。だから、董蓉や陳姨娘は悔しい感情を強く抱くのだ。しかし、瑛はお屋敷の中では完全な「正妻」ではない。雁門郡公夫人のように董蓉を「正妻」として見ている家もある。

 それらを全て変えるためには強固な武器が必要だった。

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