花紺青の水袖(5)
喬太妃の回宮は微州勢力にとっては絶好の機会であった。無事に宮に入った喬太妃は侍女に囲まれながら高笑いが止まらなかった。
そして、これから尹太妃と大主を陥れようかと計略を巡らすのであった。大主は不死鳥のように舞い戻ってきた。なら、自分も不死鳥になれるのではないかと喬太妃は考えた。
「まずは、董昭容と蘭婉容を味方につける方がいいわね。あとは太子妃一族……」
喬太妃は夜伽を記録する女官である彤史を呼びつけた。彤史は赤い軸の筆を使うことから、そう呼ばれるようになったのである。
「太子妃は皇太子にお仕えしている?」
彤史が小声で、
「いいえ」、と答えた。
「太子妃様は体調を崩されて常春宮でご静養をなさっています。皇太子殿下は見向きも……」
彤史は口を噤んだ。喬太妃は彤史を下がらせると傍らにいた侍女に「明日、太子妃を見舞う」と、だけ伝えた。
一方、お屋敷では。
瑛はまだ癒えない体で手巾の持ち主を探した。ロウソクの欠片に絹に牡丹の刺繍。そして珍しい椿油。
これらを用意できるのは董蓉か陳姨娘くらいだ。瑛は再び、あの事故現場に向かう。
宛国公夫人が言っていたロウソクの欠片は一部だけ残っていた。あとは持ち帰られたのか、なくなっていた。
「椿油だけで足を滑らせるかしら……だからロウソクを?」
瑛は懐から手巾を取り出す。見事な針運びの牡丹の刺繍を見つめると張姨娘の顔が浮かんでくる。
「丹芍が?」
瑛の内心で疑惑が生まれる。だが、彼女は椿油を持っているだろうか?彼女の今の身分では椿油は手に入るだろう。しかし、確実に手に入れることができるのは商家出身の董蓉だ。あくまでも陳姨娘は董蓉のおこぼれをもらうだけだ。
「奥様」
声をかけてきたのは冬梅だった。冬梅はしばらくの間、鮑姨娘の世話をしていた。
「冬梅、鮑姨娘の世話はいいの?」
「果翠が交代すると……」
「あの日、名前が出てきた侍女だわ。果翠に鮑姨娘を任せて大丈夫?」
「そうですね……」
冬梅が何気なく瑛の手元に目をやった。瑛はそれに気づいて理由を尋ねた。
「どうしたの?」
「その手巾に見覚えが……確か張姨娘が持っていたのです」
「え!」
思わず瑛は手巾を床に落としてしまった。今まで築いてきた「信頼」が音を立てて崩れていく。あの張姨娘が、あの丹芍が自分を小産させる訳がないと信じていたからだ。
「冬梅、私を小産させたのは丹芍なの?」
「ただ、持ったていただけです。何かの間違いでは?」
「そうだといいけど……一度、疑うと晴れない霧になってしまうのよ」
そこに着飾った董蓉が現れた。髪には玫瑰の造花を着けている。衣装はそれに合わせた唐紅色であった。
「あら、奥様。ごきげんよう」
「董姨娘、何か用事でもあるの?」
「実は……昕若様の婚礼の件ですわ」
「昕の婚礼なんて初耳よ。私が伏せっている間に目まぐるしい状態になっていたのね」
小さく董蓉は笑った。
「河南王の娘、安慶県主が昕若様の奥方になりますのよ?おめでたいではございませんか」
河南王は微州寄りの思想を持つ。皇帝はそれを危惧したのであろう。元妃には世子、娘には北趙の婿。完璧な布陣である。しかし、その布陣を崩していくのが政治であり、後宮である。
「おめでたい?」
パシン!
乾いた音が響く。瑛からの一撃で董蓉の頬は赤くなり、その表情は歪んでしまった。それでも彼女の表情は一瞬にして元に戻った。
「わたくしの言葉がお気に召さなかったのですか?」
すると口を開いたのは、瑛ではなく冬梅だった。冬梅は董蓉の目の前に歩み寄ると厳しい口調で告げる。
「不幸があった中でおめでたいだなんて失礼ではありませんか?確かに昕若様が奥方を迎えることは悪いことではありませんが……もっと奥様にかけるお言葉があるのでは?」
董蓉は一切、表情を変えずに冬梅の言葉を遮ることなく聞いていた。
「まあ……口の上手い侍女だこと。確かにかける言葉はございますわね。奥様、お加減はいかがですか?」
心のこもっていない気遣いに瑛は呆れてしまった。そして侮蔑の瞳を投げかけた。董蓉は気づいていたが、仮面のような笑みは崩さない。
「奥様のお身体が芳しくないようでしたら、婚礼はわたくしにお任せ下さいね」
董蓉はくるりと踵を返した。ほのかに体から椿油の香りがした。整髪料なら桂花油が一般的である。椿油は海の向こうで使われている。日本の椿油は種子から作られており、髪に使う。そして、この物語に出てくる「椿油」とは体の保湿に使うことが多い。
だから、董蓉の体から椿油の香りが漂ってきてもおかしくないのである。
「手巾は丹芍、椿油の香りは董蓉……繋がらないわ。全く。こうも複雑に糸が絡まっているとは思わなかった」
「奥様、この件は……董姨娘と別な誰かが関わっているような気がするのです」
「どういうこと?」
すると冬梅なしゃがみ込んでロウソクの欠片を拾った。
「このロウソクは使用人たちが使う質の悪い物だからです」
瑛は冬梅の言葉の意図を考えた。




