花紺青の水袖(4)
長らく行宮にいた喬太妃が回宮してくるというのだ。喬太妃は先帝の麗妃である。敬われる存在の彼女が何故、行宮にいたのか。
それは尹太妃と莒国大長公主がいたからである。喬太妃は彼女たちによって行宮に送られた。彼女は寵愛を笠にやりたい放題だった。しかし、先帝の遺書に彼女を後宮から追い出すように書かれていたのだ。それを莒国大長公主と尹太妃は強く支持した。虐げられた者たちの恨みは底知れないものがあった。尹太妃に至っては何度も心を踏みつけられていた。だから恨みは誰よりも強い。
一方で莒国大長公主を皆は大主と呼ぶほど皇帝や皇族は敬う対象にしていた。大長公主とは皇帝のおばの事である。そして先帝の姉妹であった。
その大主が喬太妃を嫌うのには生母を失寵させただけではなく、冷宮送りにしたからだ。理由は「嫉妬」である。大主は尹太妃に養育されて無事に育ったが、宮女や太監らは陰で、
「生母が冷宮にいるのに平気な顔をしているわ」
「情というものがないのだな」
っと、言われ続けた。
おまけに他の公主らからも蔑まされるようになってしまう。仲が良かった五公主ですら仰々しくなり、疎遠になって行った。
大主は仕方ないことだと受け止めると同時に喬太妃、当時は麗妃への恨みを募らせた。次第に彼女は権力を得ることを考え始めた。まずは、皇太后の世話をするために慈寧宮に通いつめた。
大主は皇太后を後ろ盾にすることにすることにしたのだ。その思惑は成功した。そして「国公主」という格式高い公主号を与えられたのである。
皇帝は喬太妃が回宮することに難色を示した。
尹太妃の孫娘、安慶県主が馮府に嫁ぐからである。喬太妃は微州出身の官吏たちには大事な存在だった。
喬太妃の実家は驍騎大将軍であり、北趙を消耗戦に持ち込み勝利した。北趙に勝利した驍騎大将軍を微州出身者は崇めている。微州は北趙に散々、悩まされてきた。そして長らく競い合ってきた。
一方で尹太妃は微州でも北趙でもない人間だった。中立の立場で微州と北趙の争いを見続けたのである。それは上手い立ち回りであった。
子どもの河南王も中立な立場で生まれた。だが、今回ばかりはそうとはいかないだろう。
娘の安慶県主が北趙の血を引く馮府に嫁ぐからだ。
皇帝は宣室殿で尚書令に意見を求めていた。尚書令の傍らには蘭斉もいた。蘭斉は機嫌が悪いのかぶすくれた顔をしている。尚書令が口を開く。
「陛下、喬太妃を迎えるのは他の太妃たちは許さないでしょう。あの端妃と競り合った妃嬪でございます。女媧に変わりありませぬ」
すると蘭斉は鼻で笑った。
「北趙の妃嬪のほうが女媧に決まってます」
尚書令の言っていることも蘭斉が言っていることもわかる。仮に金城伯がこの場にいたら喬太妃の回宮を語気を荒らげて進言してくるだろうと皇帝は想像した。
「武氏と韋氏をお忘れですか?」
尚書令が切り裂くように言った。武氏と韋氏とは唐王朝に君臨した女傑であり、悪女であった。武氏とは唯一の女帝・武則天のことだ。そして韋氏とは皇帝である夫を毒殺した皇后である。韋氏は武則天になることを求めた。それは娘の安楽公主にもだ。安楽公主を「皇太女」にしようとしたのである。その二人を合わせて「武韋の媧」と呼ぶ。
尚書令は続けた。
「陛下、微州も北趙も同じでございます。誰しも女媧になります。この世に妃嬪がいる限り、侵攻の禍根が残る限り、争いは絶えません。喬太妃の回宮はお認めになるしかありません。それと同時に尹太妃を主位太妃になさいませ。あとはお仕えする妃嬪を……」
蘭斉はますます機嫌が悪くなる。そして何か思い出したように言い出した。それは突拍子もないことだった。
「でしたら、蘭婉容はどうでしょう?我が娘ながら弁えております!」
「蘭婉容?」
皇帝は蘭斉に目線を送った。蘭斉は卑しい目をしている。貪欲さが滲み出ている。
「お仕えさせてみては?賢妃様は仏門のお勤めでお忙しいですし、楊貴嬪さまは淳親王の養育で手がいっぱいでしょう。ですが、御前に仕えるのは不慣れでしょうから董昭容様もお仕えさせましょう」
皇帝は蘭斉がここまで考えているとは思ってもみなかった。これが元妃から自分を引き離す計略ではないかとも考えてしまうのだ。
吉日
喬太妃は翡翠色の着物と菊の刺繍が施された靴を履いて皇宮へと足を踏み入れた。
何十年ぶりの皇宮は色褪せていなかった。むしろ朱塗りの屋根が眩しく見えるくらいだった。
彼女を出迎えたのは皇帝と元妃を初めとする妃嬪らだった。その中には尹太妃もいた。だが、尹太妃は主位太妃であるから、喬太妃よりは格が上だ。だから、余裕の表情を浮かべている。
喬太妃は得意げに正殿へと一歩ずつ足運ぶ。そして変わらぬ美貌を尹太妃に見せつけるのだった。




