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花紺青の水袖(2)

 芳名録に記入されていた「紫紺袴袍」で阿鳶が太子宮の内舎人になると采容は考えていた。

 彼女が瑛たちが掴んでいた証拠を知っているかは分からないが、少なくとも後宮のことに詳しいのは董蓉の傍にいたからだらだろう。

「春蘭、旦那様は?」

「含静堂におります。お会いになるなら、お供します」

「そうね。旦那様の耳に入れておかないとね」

 瑛は再び立ち上がると春蘭の手を借りて含静堂へと向かった。すれ違う使用人たちは瑛にしっかりと頭を下げるようになっている。それだけで董蓉のお屋敷で零落しているのを感じる。ただ、中には侮蔑するような目でこちらを見ている者もいた。

 それに対して瑛は何も思わなかった。自分は正妻であり、董蓉は姨娘。その関係は変わらない。今までがおかしかったのを糾しただけである。

 ただ、主母の地位を確立しつつある段階で董蓉や陳姨娘が何か事件を起こすのではないかと警戒していた。

(雁門郡公の孫というだけで厄介な存在なのに。早く序列をつけて封じ込めないとね)

 含静堂に向かうには大きな池がある。寒空の下の池は水が濁って見える。まるで人の心のようである。人の心はどこか濁っている。清らかな水が多い人間もいるが、純粋な心をもっているのはお釈迦様だろう。

 瑛が足を踏み出した時、


「あ!」


 彼女は足を滑らせてしまった。もう少しで池に落ちるところであった。幸い、春蘭が身を挺して瑛を庇ったが彼女は体を強打してしまった。

「春蘭、春蘭!玉儀を!秦姨娘を!」

 瑛は苦しそうにお腹を抱えて悶えている。春蘭は自分の綿入れを掛けて秦姨娘を呼びに行った。

 そこに潭国公が現れた。彼は瑛を抱き寄せて涙を流した。そして少星を呼ぶと彼女を含静堂に運ばせた。

 潭国公は寝台に苦悶の表情を浮かべながら横たわる瑛の手をずっと、握っていた。

(瑛は自分を必要としないのに……自分は瑛を求めていたのか?皮肉だ……妻が苦しんでいる時に気づくなんて)

「瑛、直ぐに玉儀が来る。大丈夫、お前もお腹の子も大丈夫だ!安心してくれ」

 しかし、潭国公の言葉は気休めにもならなかった。瑛は出血死はじめていたのだ。それを目の当たりにした潭国公は唖然とするしかなかった。

 そんな時、春蘭と少星に連れられて秦姨娘が勢いよく部屋に入ってきた。秦姨娘は出血を確認すると涙を流した。

「玉儀、助からないのか?!」

「全力でお助けします……ですが、お子は……」

 秦姨娘は言い淀んだ。その瞬間、春蘭が声を出して泣き出した。ただ、慟哭したかったのは潭国公であった。

 妻を失わずに済んだという気持ち。しかし子を失ったという気持ち。彼の心にそれは楔のように打ち付けられたのだ。

 瑛の小産(りゅうざん)の話はその日のうちに広まり、董蓉と陳姨娘の耳にも入ってきた。陳姨娘は董蓉の機嫌を取るために臨香軒へとやって来た。それに対応したのは采容だった。陳姨娘の顔にはほのかな笑みが浮かんでいる。

(笑みを浮かべて……奥様が大変な時に!)

 采容は内心で思ったが、態度に出さないように淡々と陳姨娘を董蓉に取り次いだ。部屋には桓とゆっくりと茶を飲む董蓉がいる。陳姨娘は嬉々として董蓉に話しかけた。

「お姐様、跡継ぎは桓若様になりましたよ!」

「奥様の話は耳にしたわ。何人か使用人たちも挨拶に来たのよ?まあ、私の可愛い桓が公爵の位を継いでくれたら……すぐにでも瑛を追い出すのに」

 采容は外で聞き耳を立てていた。

(なんて酷いことを!董蓉はこれを機にのさばるに違いない。左氏春秋伝みたいに旦那様がしてくれたら)

 采容は全ての考えを飲み込む。そして「今は時期ではない」、と言い聞かせた。

「如真、雁門郡公に朝廷で潭国公の爵位について上奏させて。桓は大公子に決まれば後継者に決まったのも同然だわ!」

「おじい様にお伝えします」

 その夜、臨香軒には杏酒の香りが漂っていた。

 一方、含静堂では薬草の香りと悲しみに包まれていた。瑛は静かに、声も出さずに泣いた。誰の慰めも受け入れようとはしなかった。

 そこに少星が現れた。少星の後に続くように母の宛国公夫人が暗い顔で寝台に駆け寄った。瑛の手を握ると無言で宛国公夫人は彼女の涙を手巾で優しく拭いた。

「お母様……」

 そこで初めて瑛は口を開いた。

「瑛、何も言わないで」

 だが、瑛は掠れた声で何度も何度も「申し訳ございません」と、告げた。その様子に傍に控えていた少星と春蘭は目配せをして部屋を後にした。

「秦姨娘から聞いたわ。運ばれた時には……もう遅かった、と……」

「……」

「瑛、しっかり聞いてちょうだい」

 宛国公夫人が力強く瑛の手を握る。まるで何か決意を決めたような力強さだ。

「秦姨娘があの道に微かにロウソクの欠片を見つけたそうなの。意味は分かるわね?」

「つまり、仕組まれていたということですか?」

「そう。でも、仕組んだ相手は証拠を残したわ」

 宛国公夫人は牡丹の刺繍が施された手巾を取り出した。そして手巾にできたシミを指さす。

「これはきっと椿油ね。輸入された貴重な物だわ」

 瑛は宛国公夫人の手を握り返す。彼女の目つきが変わった。その目つきは鋭かった。

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