雨の花海棠(5)
「奥様?わたくしめの茶は受け取れないのですか?」
瑛が中々、受け取らないこたとに陳姨娘は苛立ちを覚える。蓋碗をそっと触ると熱かった。
「お受け取りできないと?」
「ごめんなさいね。少し熱くて…別に受け取れないわけではないの」
そう言うと瑛は蓋碗を受け取ろうとした。すると、陳姨娘はわざと蓋碗を手を滑らせたようにみせて落とした。蓋碗は割れて、中身のお茶は瑛の緑色の裙を濡らす。
「奥様、手を滑らせてしまいました。お許しを」
陳姨娘は意外と自尊心が高い。瑛の態度に小馬鹿にされたと感じていたのである。それに苛立ちも加わり、このようなことをした。瑛は驚くどころか怒りを込めて言う。
(盛大にやらかしてくれたわね……容赦はしないから……!)
「陳姨娘はわたくしに粗相のないようにと言ったけれど…あなたが粗相をするとはね。あなたが雁門郡公に笑われてしまうわ…その前にあなたは正妻ではないから日陰の身…」
「奥様!わたくしめを侮辱するのですか!」
陳姨娘は立ち上がり、瑛に向かって怒鳴った。董蓉がすかさず2人の間に入った。瑛は董蓉に顔を向ける
「董姨娘、あなたは姨娘たちを甘やかして奥向きを仕切ってきたの?」
「決してそのようなことは!陳姨娘は故意ではないのですよ。そうよね?陳姨娘」
「董姐様の言う通りです。故意ではありません。正妻なのですから、これくらいで嫌味を言うとは…お心が狭いのではないのですか?ですから、公爵様に…」
「黙りなさい!」
瑛の怒鳴り声で陳姨娘は呆気にとられた。彼女は自分より若い瑛がまさか怒鳴るとは思っていなかった。とっさの出来事で董蓉は陳姨娘に助け舟が出せなかった。
「陳姨娘、わたくしを侮辱するの?自分で言ったことは返ってくるの。出ていきなさい。自分で頬を50回、冬梅の前で平手打ちをしなさい」
「お、奥様…?董姐様、何とか奥様に…」
「あなたの身から出た錆よ。今回は助けられないわ」
董蓉は冷たく言い放った。
瑛が部屋の隅に控えていた春蘭に目配せをする。春蘭はうなずくと両手を叩いた。乾いた音が貞観軒に響いた。すると侍従たちが貞観軒に入って無理やり、陳姨娘をそこから引きずり出した。その後を追うように董蓉は桓の手を引いて冬梅と同時に部屋から出ていった。向かう先は陳姨娘のもとではく、臨香軒だろう。
静かになったのもつかの間だった。
「おかあさま…宜荘は怖いです……」
このやり取りを見ていた張姨娘の娘である宜荘が泣き出してしまった。
宜荘の泣き声で瑛は内心で「しまった」っと叫ぶ。幼い宜荘に恐怖を植え付けてしまったことに後悔を覚えた。すかさず張姨娘が宜荘を抱きしめた。
(私としたことが!子どもたちのことを忘れていたわ)
「すみません…まだ、宜荘は幼く…お気を害してしまったら申し訳ございません」
すかさず張姨娘が謝る。
「わたくしが悪かったわ…子どもたちの前で醜い姿を見せてしまってごめんなさい。宜荘、母上を許してくれる?」
瑛は宜荘を手招きした。張姨娘に促されて、恐る恐る瑛の前にやって来た。宜荘は目を真っ赤にしている。
「こんな母上を許して」
「母上…宜荘は大丈夫です」
瑛は自分の手巾を宜荘の側で控えていた瑠璃に渡して、宜荘の目元を拭かせた。張姨娘は瑛の優しい姿を見て、どこか安堵した。庶出の子どもたちにも彼女は愛情を持って接してくれると思ったからだ。しかし、それは瑛に対して好意的な人間だけのものではないか、っと疑問も浮かんだ。安堵の奥に不安が混じる。
彼女の心を知ってか知らずか秦姨娘が瑛に穏やかな口調で提案をした。
「奥様、宜荘の好きなお菓子でもお出しになったらいかがでしょう?」
瑛は嬉しいそうに何度も頷いた。それを見た張姨娘の表情がいささか明るくなる。瑛は宜荘に柔らかく優しい声で尋ねた。
「それはいいわ。宜荘、奥様に好きなお菓子を教えて」
「はい…母上、宜荘はれんこんと桂花のお菓子が好きです」
「春蘭、夏荷に作らせて。宜荘、教えてくれてありがとう。宜寧、宜花、あなたたちは何が好き?」
宜寧と宜花は目を輝かせて瑛に話し出した。瑛はそれに一つ一つ頷いて、耳を傾けていた。だが、娘たちは必要以上に瑛に近づこうとはしなかった。
秦姨娘が張姨娘に耳打ちをする。
「奥様は子どもが好きそうね」
「安心したけれど……。奥様が嫡子を産んで北風のように冷たく娘たちに接するかも……私はしばらく様子を見るわ」
2人の話し声は瑛には聞こえなかった。宜花、宜寧、宜荘らの話し声でかき消されていたからだ。
「宜花、宜寧、宜荘、お菓子が出来たら部屋に届けるからお母様たちと部屋に戻ってくれる?秦姨娘、張姨娘、子どもたちをお願いね」
2人は子どもたちを連れて貞観軒を後にした。瑛は足元の蓋碗の破片に目をやる。
「春蘭、これを片付けて」
「お嬢様たちが踏まなくて良かったです」
「大丈夫。庶出の子どもたちにとっては正妻は怖い存在よ。近くに来なかったでしょ?」
「確かにそうでした!」
春蘭は記憶を巻き戻しする。3人は母親たちの側から離れなかった。春蘭はしゃがみ込み、破片を拾おうとする。すかさず瑛が彼女に注意をした。
「素手は危ないわ。掃除係を呼んで」
「は、はい」
春蘭は立ち上がると、そのまま掃除係を呼びに部屋を出た。瑛はその間、自分の浅はかさを実感した。幼い子どもたちがいる場で陳姨娘を挑発した。それに応じた陳姨娘もそうだが、場の空気が読めていなかった。瑛は正妻というお屋敷では絶対の立場を過信しすぎていたのかもしれない。
物思いにふけっていると春蘭が掃除係を連れてきた。小柄な下女であったが、器量が良かった。瑛は思わず名前を尋ねた。
「あなた、名前は?」
「秋菊と申します」
秋菊は頭を深々と下げる。彼女の手にはほうきが握られている。器量を見る限り、掃除係の下女にはもったいないと瑛は思った。
「秋菊、破片を片付けてちょうだい。よろしくね」
そう言うと瑛は春蘭をその場に残して寝室へと向かった。寝室には寝台を整えている冬梅の姿があった。どうやら陳姨娘の罰を見届けて仕事に戻ったらしい。衣擦れで冬梅は瑛に気づいたのか、手を止めて頭を下げた。
「奥様、いかがなさいましたか?」
「陳姨娘の様子はどうだった?」
冬梅は冷静に答える。
「大層、お怒りでした。ですが…」
「私も挑発したわ」
「わたくしめもそう思いました。陳姨娘はあからさまに対抗するので対処も簡単ですが、雁門郡公の孫娘であることをお忘れなく」
「そうね…董蓉はどうだった?」
「董姨娘はあれから自室にこもりっきりだとか。采玉や采容は口が堅いので、下女たちから聞いた話ですが……病らしいです」
瑛は鏡台の前に座る。鏡に映る顔は疲れていて、しかも目の下にはクマができている。自分はもっと優しい顔をしていると思っていただけに衝撃だった。
「お疲れなら横になってみては?」
「その前に着替えを」
「すぐに用意いたします」
冬梅が着替えを用意するために寝室から出ていった。さそして今後のことを考えた。どうしても董蓉と陳姨娘が自分を敵視しているのは確かだ。秦姨娘や張姨娘は好意的に思えるが、どこか日和見なところがありそうだ。
董蓉が大きな顔をしていられるのは姉が皇帝の側室だからだ。陳姨娘は雁門郡公の孫娘だからである。
郡公の孫娘とはいえ、郡公は国公の下の爵位だ。宛国公の嫡女である瑛に楯突くのは董蓉がついているからだろう。
(陳姨娘が董蓉とつるむ理由は何かしら?もしかして、何かお互いに利点があるのかも…雁門郡公は潭国公と長い付き合いと言っていたから何かあるはず。董蓉の息子が公爵になれば、仮に董修儀が子どもを産めば後ろ盾になると考えたけれど……お屋敷の中だけでは解決できない…)
ふと、瑛は自分がなぜ潭国公に嫁いだのか父である宛国公から聞いたことはなかった。言われるがまま、雨の日に嫁いだ。それなのに董蓉と陳姨娘は敵視している。憶測だが、これには深い事情があるに違いない。潭国公や馮元妃、そして董修儀が絡んでいるのかもしれない。
瑛は父の宛国公に事情を聞こうと手紙を出すことを思いついた。なぜ、自分が潭国公に嫁いだのか、っと。
「父上が素直に教えてくれれば良いけど…」
瑛は小窓に吹き付ける雨粒を見つけて脳裏に中庭の花海棠が雨に濡れているのが浮かんできた。
「雨に濡れる花海棠を見て…立ち止まる人間は何人いるのかしらね」
静かに呟く。中庭の花海棠は今日も雨に濡れている。