寂寞に揺れる冬柳(9)
玉壺軒では陳姨娘が董蓉に平手打ちされた頬を濡らした手巾を使って手当していた。瑛の言動も存在も癪に障るが、今日はよりによって慕ってきた董蓉の気に触れてしまった。
陳姨娘は何故、そうなったかを考えるよりも平手打ちされたことに同様していた。そして全てが瑛のせいだと他責的なことを考え始めるのであった。
そこに顔なじみのない侍女が碧色の衣装を運んできた。陳姨娘は思わず嫌味をこぼした。
「なんて季節感のない衣装なの?冬は鈍色が似合うと言ったじゃない!まるで夏の空の色だわ!」
すると侍女は申し訳なさそうに告げる。
「申し訳ございません。何でもこの色は錦都で流行っているので……董姨娘ために郡公様が買い付けたのです」
「なら、仕方ないわ。他には?」
侍女は群青色の衣装を陳姨娘に差し出した。流れる雲と雁が刺繍された衣装であった。見事な刺繍であったため、陳姨娘はこれを貞観軒に持参しようと決めた。この群青色の衣装は子どものものであった。
「これは子どもの衣装ね」
「さようです。陳姨娘、これは男児の衣装です。それと……」
侍女は陳姨娘に囁いた。
「毒が仕込まれております……」
「あなた、なんて事をいうの!桓様が身につける物よ!すぐに董姐さまに言いつけてやるわ!」
動揺した陳姨娘は手にしていた手巾を侍女に向かって投げつけた。それに侍女は微動だにしなかった。ただ黙って衣装を差し出し続けている。
「桓様が身につけるものではございません。奥様の御子でございます。この毒はじわりじわりと効いてくるものです。長く身につけたり、そばに置いておいたりしていれば必ず体を害します」
「それをわたくしが奥様に?誰の命令であなたは動いているの?」
陳姨娘はこの侍女が気味悪く感じていた。先程から口元は動いているのに目は表情も感情も宿してはいない。口調も平坦であり、声はとてもか細いものであった。
「後宮の方でございます」
「後宮……」
「はい。後宮の方が陳姨娘なら必ず衣装を奥様に渡してくれると仰っておりました。後宮の方は陳姨娘を高く評価されております。それに弟君は今度、驃騎将軍になられるとか……」
陳姨娘はおだてられて気分が良くなったのか、侍女に得意げに言った。
「よく陳府の事情を知っているのね。爾朱碩との戦いで功績があったのだから当たり前よ。もしかしたら郡公から国公になる機会を得たようなものなの。だから後宮の方に手を貸すのはこれが最後と伝えてちょうだい」
「はい。お伝えしておきます」
侍女が差し出した衣装を陳姨娘は受け取った。彼女は退出しようとする侍女を引き留めた。
「あなたの名前は?」
「渓児でございます」
「わかったわ。下がっていいわよ」
渓児はゆっくりとした足どりで玉壺軒をあとにした。渓児が廻廊を歩いていると正面から歩いてきた董蓉の侍女・采容が彼女に会釈をした。渓児も会釈をするとお屋敷の中庭に足を運んだ。
中庭で渓児は空を見上げた。翳りはじめた黒い空に強い風音がまるで獣が唸っているようだった。彼女はおもむろに左手を空に伸ばした。しばらく、そうしていると鷹が力強く羽ばたいてきた。
「お前はいい子ね。こんな風でも飛んでくるんだもの」
渓児はそう言うと鷹の首にぶら下げられた小箱に紙切れを入れた。
「さあ、行って」
鷹は渓児の言葉を理解しているのか、風に抗うように飛んでいった。渓児はそれを数分、眺めてから中庭を後にした。それを馮昕の生母・鮑姨娘が偶然、目撃してしまった。鮑姨娘はその場をあとにしてすぐに貞観軒に小走りで向かった。
貞観軒では瑛と二人の姨娘が董蓉と陳姨娘のことを待っていた。瑛は二人抜きで衣装選びをすることも視野に入れたが、独断で衣装選びをされたと嫌味を言われるのは気に障るから、とにかく二人を待つことにした。そうすれば瑛が二人に嫌味を言えるし、お屋敷では「寛容な主母」と自分の評価が上がるだけである。
「あの二人は何をしているのかしら?」
秦姨娘が苛立ちながら茶を飲む。
「董姨娘は昔からそうだったじゃない。いつも私たちがご機嫌伺いに行っていたわ」
張姨娘も言葉に棘がある。秦姨娘と同じように苛立っている。
「今は奥様がいるじゃない!公爵様も主母を曖昧になさるからいけないのよ。あのやたら美人な顔と偉そうな態度がが鼻につくの!」
秦姨娘は思わず本音を口走ってしまった。
「確かにね。公爵様が悪いのは分かっているのだけど、それに付き従っている陳姨娘も悪いと思わない?陳姨娘は雁門郡公の孫娘だし、おまけに浅はかだわ。まるで太子妃様……」
瑛は咳払いをした。張姨娘は瑛に尋ねる。
「奥様、太子妃様が何か?」
「あなた達なら信用できるから話すけれど、魚良娣を殺害したのは太子妃様に関連ある人物だわ」
秦姨娘は目を丸くして瑛を見つめた。何かを発することも出来ずにいる。
「丹芍に教えてもらった内舎人の衣装を女道士の莫云が着ていたとしたら?それに魚良娣が殺害されたのは夜よ?莫云が内舎人に紛れて身につけていてもおかしくないわ」
ようやく秦姨娘が呟いた。
「莫云は左利きでしょうか?」
「え?玉儀、何か知っているの?」
瑛が聞き返すと秦姨娘は声を潜めて二人に言った。張姨娘はどこか不安げである。
「林司薬が偶然、検死を目撃したそうです。遺体には左手で斬られた傷があったそうです。仮に莫云が右利きだったら……そう思ったのです」
張姨娘の顔からは不安が消えたのか、納得したように何度も頷いた。一方で瑛もそこまでは推理していなかった。しかし、犯人が莫云でなければ一体、誰が魚良娣を殺害したのだろうと瑛は頭を抱えた。
炭をくべていた春蘭が手を真っ黒にして立ち上がった。そして瑛に不思議そうに言い出した。
「なら、莫云を呼んでみてはいかがですか?」
「それだわ!」
瑛は思わず身を乗り出した。春蘭の大胆な考えに瑛を闇の中から助け出すに光としては十分であった。
「春蘭、すぐに手配を」
すると張姨娘は退出しようとする春蘭の腕を掴んだ。また不安な表情を浮かべて瑛に告げる。張姨娘はこの件では臆病になっていた。
「さすがに名誉に関わるのでは?莫云は女道士という以外に素性は分かりません。長公主殿下も後悔しているとおっしゃっていました。斉国公への疑惑は晴れたではありませんか。もう深入りなさらないでください」
「丹芍の言葉はごもっともだけれど……」
瑛は肩を落とす。それを見た秦姨娘が静かに二人に向かって話し出した。
「公爵様は皇太子殿下の叔父ですし、それに太子宮には李選侍様もいます。太子宮のことに深く関与するのは当たり前ではないでしょうか?確かに奥様の名誉に関わりますが、一番に考えるのは太子宮のことでは?」
秦姨娘の言葉に張姨娘は口を噤んだが、どこか不安そうな態度は変わらなかった。張姨娘の気持ちは分かるが、ここで太子宮のことを何とかするのも叔母の役目のような気もしていた。それに犯人が分かれば、潭国公の手柄となり朝廷での立場も改められるだろう。
瑛は潭国公を愛していなかったが、不思議と彼が手柄を立てることを望んだ。それが愛情ではあるかは別として、懐妊してから気持ちが少しづつ変わっているのには違いなかった。
一方で董蓉らとの確執は徐々に深く広がっている。しかし、それは想定の範囲内であった。自分が潭国公府に嫁いできた時から宣戦布告をしてきたのは董蓉である。今はそれを迎撃しているだけである。
(何ら恥じることはないわ!)
「春蘭、莫云はどうしたら呼べるかしら?」
「そうですね……」
春蘭が何かを言いかけた時だ。
「奥様!」
勢いよく鮑姨娘が部屋に入ってきた。瑛は思わず立ち上がり、彼女が話し出すのを待っていた。
「すぐに侍女を全員、連れてきてください!」
「え?」
瑛は首を傾げた。鮑姨娘の表情は険しいものであり、頭の中は整理できなくても、何か大変なことが起きていることは理解できた。
書き直しました。