寂寞に揺れる冬柳(8)
正門に姨娘たちが集まる。陳姨娘は瑛が帰ってきたことにあからさまに不機嫌な顔を浮かべた。そばにいた董蓉は澄ました顔をしている。瑛にはそれが不気味であった。
「奥様、おかえりなさいませ」
真っ先に声を発したのは董蓉であった。それに合わせるように陳姨娘、秦姨娘、張姨娘も同じ言葉を発した。瑛は董蓉の前に立ち止まると、彼女を見て鼻で笑った。
「今日はどういう風の吹き回しかしら?董姨娘から挨拶するなんて」
「妾が正妻に挨拶するのは道理ですわ」
「今まで正妻のように振舞っていたのに急にどうなさったの?今更、礼を尽くすというのかしら?」
「わたくしめは常に礼を尽くしております」
「あなたが私に礼を尽くすはずかしら?」
瑛の言葉に秦姨娘と張姨娘は小さく笑った。そして瑛は董蓉に耳打ちをした。
「「酔寝」の件、その他のことは掴んでいるのよ?」
董蓉はそれを言われても動じなかった。彼女はどこか微笑んでいるようにも見えた。瑛は彼女の感情が全く読めなかった。そこに事情を知らない陳姨娘が口を挟んだ。
「奥様は董姨娘がお嫌いですから邪推なさっているのかもしれませんわ。董姨娘は今まで正妻の扱いでしたのよ?奥様は董姨娘を尊敬なさるべきだわ。ただの妾ではないのですよ?」
それに反応したのは瑛ではなく、董蓉であった。彼女は思いっきり、陳姨娘の頬を平手打ちした。瑛は董蓉の行動に動じることはなかった。やはり、陳姨娘は軽率である。その軽率さで自爆するのは目に見えていたが、瑛はその時まで楽しみを残しておこうと思っていた。その間に董蓉と陳姨娘の関係が悪化するのを願っていた。だから殴られても何も声をかけなかった。
いつもは反抗的な陳姨娘だったが、この時ばかりは瑛にすがってきた。しかし、瑛はそんなに善人ではなかいから睨みをきかせながら、いつもの恨みを込めて突き放した。
「あら、董姨娘に助けを求めないのかしら?」
秦姨娘はそう言うと袖で口元を隠しながら笑った。すかさず董姨娘が陳姨娘に語気を強めて言い放った。
「陳姨娘、奥様に失礼よ!謝りなさい!」
「お姐様……何故ですか?!」
陳姨娘は平手打ちされた左頬を手でおさえながら立ち上がった。侍女の紅袖が手をかすも、それを振り払って自身の部屋に帰っていった。瑛は内心で彼女の背中に向かって舌を出した。そして瑛は董姨娘に尋ねた。
「董姨娘、なぜ陳姨娘を殴ったのかしら?」
「それは陳姨娘が奥様に不敬を働いたからでございます」
一気に空気が張り詰める。瑛は口を開いた。
「違うわ」
瑛はぴしゃりと言い切った。董蓉は思わず顔を顰めた。秦姨娘と張姨娘は黙って様子を見守っていた。
「陳姨娘はあなたに不敬を働いたから、殴ったのでしょう?」
「それはどうでしょうか……わたくしめは特段、気にして……」
「気にしていたから殴ったんじゃない?あなたは正妻になりたがっているのだから。董姨娘、正妻という言葉に敏感なのね」
瑛はそう冷たく言い放つと貞観軒に帰って行った。董蓉は黙って彼女に頭を下げた。彼女が立ち去るとその場は解散となった。董蓉はしばらくその場にいた。あまりの悔しさに全てを忘れていた。
瑛が彼女に言っていたことは図星であった。そして瑛の意図も分かっていた。
あなたは正妻になれない……
「懐妊したからなんだというの」
負け惜しみのように董蓉は呟いた。行き場のない感情を落ち着かせるように彼女は何度も息を吸ったり、吐いたりした。思い返せば商家出身の自分が国公の正妻にはなれない。なれるはずがない。しかし、潭国公は感情の全ても差配も任せてくれた。それが愛だと疑わなかった。だが、愛があれば自分は正妻になれたのではないかと脳裏によぎった。姨娘であるが、皇帝に願い出ればいつでも正妻になれた。姉も味方になってくれていた。董蓉には歯がゆい思いばかりが募る。
(これも元妃と鄭瑛のせいよ……!)
「お母さん!」
董蓉は声のする方を向く。そこには乳母に連れられた息子の桓が無邪気に笑っていた。
(愛がなくても、この子がいれば……)
董蓉は両手を広げる。桓は思い切り彼女に駆け寄ると、小さな手で抱きついた。
「私の可愛い桓!いい子にしていた?」
「うん!」
その様子を見ていた乳母が控えめに言う。
「旦那様が公子様を詩経を諳んじていたのを褒めておりました……姨娘の教育の賜物かと……」
「そうでしょうとも!この子は公爵様の跡継ぎだもの」
董蓉の発言に奶娘は驚くしかなかった。瑛が懐妊する前は確かに桓が跡継ぎ候補の第一位であった。しかし、今は瑛の胎内にいる子どもが男子であれば跡継ぎ候補の筆頭である。おまけに潭国公の弟、馮昕もいるため、跡継ぎを子どもではなく弟にすることも公爵には可能であった。
「姨娘、それは言い過ぎでは?奥様に聞かれたら罰を与えられますわ」
「桓は長子よ?跡継ぎの権利はあるのよ?」
董蓉はそういうと器用に桓の手を取り臨香軒に向かって歩いていった。奶娘はその後を急いでついて行った。
(この子がいれば怖くないわ……)
その様子を馮昕は物陰から眺めていた。これは面白いと思いながら愛猫の阿好を抱きながら細く微笑んだ。
「阿好、これは面白いことになりそうだ」
馮昕は阿好に話しかけると阿好は大きくあくびをした。阿好には面白くないらしい。彼は阿好を見て何度も頭を撫でた。
「さて、お義姉様はどうでるだろうか……」
その刹那、背後から気配がした。
「若様」
背中から公爵の侍従である少星の声がした。馮昕は振り返りると飄々とした表情を見せた。少星は少し間を開けて静かに話し出した。
「公爵様がお呼びです」
「珍しいこともあるものだ。私も用事があったんだ」
少星は彼の言葉を訝しんだ。
(そんな偶然はあるわけない……若様は何を考えているか分からない方だ。この方はお屋敷を引っ掻き回すのだろうか)
「少星、すぐに向かう」
馮昕は阿好を抱いたまま公爵の元に向かった。少星はその後ろを歩いた。
その頃、貞観軒では春蘭が炭をくべていた。瑛は卓に肘をつきながら莫云と太子妃の関係について整理していた。内舎人の紫紺の衣装を莫云が着ていたのなら、魚良娣を殺害した容疑者として大理寺に引っ立てることができる。しかし、莫云の背後には太子妃がいる。ちまたは莫云と太子妃の対食を匂わす話しが流れ始めているから、皇族の面子を保つために有耶無耶にされるか、それとも莫云を別な容疑で処罰するかのどちらかだろう。
「私の読みが正しければ……太子妃と莫云の関係を魚良娣が知って消された……?」
瑛は黙って一点を見つめる。憶測と噂話が折り重なっていく。太子妃を惑わして、尚且つ魚良娣を殺害したのは莫云以外いないといくら考えても行き着いてしまう。
「奥様、秦姨娘、張姨娘がお見えです」
冬梅の声で瑛は我に返った。瑛は居住まいを正して二人が部屋に入ってくるのを待った。
「通して」
そこに見計らったように二人の姨娘が現れた。その手には色鮮やかな衣装が携えられている。今日は新年に着る衣装を選ぶ日であり、一年の終わりを実感する日でもあった。
「奥様の部屋はもう春ですわね」
声を弾ませたのは秦姨娘であった。
「あなたが公爵様に妊婦の体を冷やしてはいけないと口酸っぱく言って上等な炭を用意させたのでしょう?」
「あら、秦姨娘。炭の話は初耳よ?私の分の炭は頼んでくれなかったの?」
珍しく張姨娘はふざけてそう言った。秦姨娘はこれには笑ってしまった。
「二人とも衣装を選びましょう」
瑛の言葉に反応したのは秦姨娘であった。
「奥様、董姨娘と陳姨娘はよろしいので?」
瑛は思い出したかのように大きなため息をついた。
「冬梅、すぐに董姨娘と陳姨娘を呼んできて」
「かしこまりました」
冬梅が部屋を出た瞬間に冷たい風が入ってきた。風は音を立てて吹き始めていた。炭をくべていた春蘭は思わず、「嵐になるかしら?」っとこぼした。
「秦姨娘、あの二人がすんなり奥様のもとに来ると思う?」
張姨娘が心配そうに秦姨娘に言う。
「……どうかしら。言ってみたものの私も心配になってきたわ」
「玉儀、丹芍、二人が来たら、さっさと衣装を選んでお開きにしましょう」
この日、錦都では強風が不気味な音を立てながら長時間、吹き付けていた。お屋敷でも後宮でも、この風が不吉な予兆だと誰かが言い始めていた。