寂寞に揺れる冬柳(5)
時は遡り
身重の瑛と張姨娘は漁陽長公主と斉国公の屋敷まで足を運んでいた。輿から2人が降りると、待っていたのは兵士たちであった。瑛は魚良娣の殺害に長公主と斉国公が疑われていると瞬時に理解した。
「長公主殿下に会わせて」
瑛が兵士の1人に言った。すると兵士はふざけたように答える。
「それはできませんね。俺たちも仕事なんでね」
「そう。じゃあ、聞くけど私を誰だか知ってる?」
瑛が声を低くして尋ねる。
「潭国公の奥方様ですかね?」
終始、ふざけた様子の兵士に思わず張姨娘は彼を睨んだ。一方の瑛は鼻で笑った。
「確かに私は鄭瑛。宛国公の令嬢よ。末端の兵士でも潭国公の妻の名前くらいは分かるのね。あなたは禁軍の兵士でもなんでもないわ。どこかの私兵でしょ?」
そう瑛が問い詰めると兵士は悔しそうにした。この問いは瑛の賭けでもあった。末端の兵士が潭国公の妻の名前なんて分かるはずもない。これで瑛の名前が答えることができたら禁軍の兵士ではない。
自分を潭国公の妻と知っているのは、どこかで刷り込まれた知識だろう。この兵士は潭国公の行動を見張っているか、注視しているかのどちらかだ。この兵士は蘭斉の私兵だと瑛は考えた。潭国公が蘭斉と共に魚良娣を殺害した犯人を探していたことを彼女は忘れていなかった。
「もしかして……」
瑛はおもむろに口を開いた。
「蘭斉殿の私兵じゃない?」
兵士の顔色が明らかに変わる。瑛は読みが当たったと内心で微笑んだ。そして、そこにいた私兵たちが騒ぎ始めた。その騒ぎは斉国公のお屋敷にも届いていた。騒ぎを聞きつけてお屋敷から女主人の漁陽長公主が現れたのである。
憔悴しているようにも見えが、皇帝の姉妹だけあってか気品が漂い、一種の矜持すらも感じられた。
螺髻を造花で彩り歩揺は風に揺れてサラサラと微かに音がした。雲と花の刺繍が施された袖が揺れる。漁陽長公主は私兵らをねめつけた。
「やはり、蘭斉の手下だったのね。騙されたわ。いつ陛下から毒を賜るのではないかと怯えていたけれど。もう心配はいらないわね」
瑛と張姨娘は長公主の放つ厳かな雰囲気と言葉に礼をするのも忘れて立ちつくしていた。長公主が視線を送るとようやく2人は平伏した。
長公主がお屋敷の外に出ると、そこにいた私兵たちは後ずさりして彼女に道を開けた。そして瑛に手を差し伸べた。
「潭国公夫人ね」
先程とは打って変わったかのように優しい声音で瑛に声をかけた。
「さようでございます。潭国公の正室、鄭瑛と側室の張丹芍でございます」
「身重と聞いているわ。体を起こして」
瑛は長公主の手を借りて体を起こす。少し間を置いてから張姨娘も体を起こした。
「蘭斉に伝えなさい。私はこたびの事件に関わっていないと!」
長公主がよく通る声で言った。その声は太鈺大路に響き渡っている。それを聞いたか分からなかったが、私兵たちの親玉である蘭斉が険しい顔をして現れた。どこか近くで漁陽長公主を見張っていたのだろう。
「長公主殿下、事件に関わっていないなら証拠は出せますよね?」
ねちねちとした口調で蘭斉は長公主に尋ねた。長公主はそれに動じなかった。
「あの日、私は夫と寺に出かけていたわ!」
「証拠は?」
「侍従たちに聞けばわかることよ」
すると蘭斉は手にしていた扇を開いてあおぎだした。その様子に瑛と張姨娘は不快感を覚えた。だが、2人以上に漁陽長公主は不快感を覚えていた。
「侍従?口裏わせも考えられますしねぇ……証拠になりませんなぁ……」
すると張姨娘が蘭斉に向かって声を荒らげた。
「あの日、長公主殿下は確かに不在でしたわ」
それには蘭斉は驚きを隠せないのか目を見開いた。張姨娘は続けた。
「私は魚良娣の看病のために斉国公のお屋敷に人手を借りに出向きました。ですが、長公主殿下や斉国公は不在と告られました。私は斉国公とは無縁の人間です。これは証拠になりますか?」
蘭斉は明らかに悔しそうな表情を浮かべている。それだけではなく顔を赤くしていた。伏兵の如く現れた張姨娘の証言に蘭斉は怒りも感じていた。蘭斉は斉国公らを陥れたかった。
「丹芍……?」
瑛は張姨娘の今にも泣き出しそうな顔を見つめた。
「蘭斉、そういうことよ。早く私兵を撤収させなさい!」
「潭国公め!この邪魔者め!」
そう捨て台詞を吐くと蘭斉らは斉国公のお屋敷の前からひきあげて行った。ふと、瑛は張姨娘が嘘をついていることに気づいた。あの日、潭国公のお屋敷から張姨娘は出かけていなかったのだ。
(なぜ、嘘の証言を?)
瑛は張姨娘に聞けないままだった。そこに斉国公が慌てた様子で現れた。漁陽長公主を見るなり彼は彼女に頭を下げた。そして、瑛と張姨娘に目をやった。
「潭国公夫人、そして姨娘、証言してくださってありがとうございます!」
(斉国公……丹芍の異母兄!自分を捨てた張家になぜ味方したの?)
瑛は張姨娘の意図が分からなかった。だが、彼女には何か理由があるのだけは理解しているつもりだった。突然、張姨娘は斉国公の前までやってくると懐から紙切れを出した。
「これに見覚えはございませんか?」
斉国公は紙切れに目をやる。その刹那、彼は張姨娘に抱きついた。それには漁陽長公主も瑛も驚いた。
張丹芍 博平縣侯 女 母平妻安氏
瑛が盗み見した紙切れにはそう書いてあった。
それを瑛が目にした時、彼女は張姨娘が実家のために証言したのだと分かった。だが、瑛には分からなかった。なぜ決別していたはずの彼らに嘘の証言をして守ったのか。瑛は首を傾げた。
「丹芍!生きていたのか!」
漁陽長公主は斉国公の姿を見て涙を流した。斉国公に妹がいることは薄々と聞いていたが、その妹が自分たちを救った恩人だったことに2人は感謝した共に彼女に辛い思いをさせたことを詫びた。
瑛と張姨娘は斉国公のお屋敷に案内されて中庭がよく見える客間に通された。出された茶は銘茶であったし、茶菓子は御膳茶房で作られた特別なものだった。
御膳茶房は皇帝専用の茶菓子やお茶を用意する部署であら、責任者は尚膳太監である。それは皇帝専用の御膳を創る御膳房も同じく責任者は尚膳太監であった。
皇帝は姉妹のため、朝になると茶菓子を届けさせに太監を遣わしていたのである。
瑛は茶が飲めないため茶菓子を味わった。そこに居住まいを正した斉国公と漁陽長公主が現れた。
2人が席に着くと、斉国公は張姨娘を見つめながら静かに話し出した。
張姨娘の生母である安氏は実は籍没された貴族の娘だった。掖庭宮から逃げてきたところを博平縣侯に匿われて平妻になったのである。
張姨娘を出産して1ヶ月後に彼女は見つかり掖庭宮の宮婢になった。そんな生母がいたら後々の災いとなる、そう考えた博平縣侯は幼い張姨娘を繍房に預けたのである。
それを聞いた張姨娘の目から再び涙か溢れてきた。そして斉国公が彼女の戸籍を出てきた。その母親の名前は正妻になっていた。
「丹芍の人生の為にした事が足枷になっていたのかと思うと私は辛くて仕方ない」
斉国公は申し訳なさそうに、そして寂しそうに言った。当の張姨娘は終始、驚きで涙を流していた。瑛は張姨娘が言っていた戸籍がしっかり作られていたことに安堵したのだと感じた。
そして、先程だが実家を守る行動をした。やはり張姨娘の心の中には実家の張家の存在があったのである。
実家を護る。その気持ちに瑛は激しく動いた彼女唯一の願いだったのだろう。