寂寞に揺れる冬柳(2)
瑛と張姨娘が斉国公に向かう最中、潭国公は珍しく馬を走らせながら叔母である元妃のもとに向かった。
潭国公はその特殊な地位から馬で参内しても良いことになっていた。それは皇帝が元妃へ与えた寵愛による、恩恵でもあった。曹操に仕えた夏侯惇まではいかないが皇帝は甥である潭国公を大事にしていたのである、
上明門で侍衛に馬を預けると潭国公は真っ先に叔母の元妃もとに向かった。元妃は改修された椒風殿へと引越しをていた。椒風殿の名前の由来は漢の時代、哀帝が寵愛する董昭儀に与えた椒風舎から取ったものだ。皇后が住む椒房殿に似た名前の殿閣を与えて皇后と同等としたかったのだろう。しかも、董昭儀の兄は断袖の由来となった董賢である。二人はそろって哀帝の寵愛を賜っていたのだ。
微州出身の貴族たちは潭国公と元妃のことを董昭儀、董賢のようだと朝議の場で揶揄していた。それに馮一族は気にも止めなかった。そして元妃は特に気にするどころか何も感じなかった。
潭国公が息を切らしながら扉の前に控えていた侍女に取次を頼んだ。それにしても椒風殿は豪勢であり、目が眩むようだった。この椒風殿への引越しと改修にあたり特別職として尚設内侍が任命されるほどの力の入れようだった。
「潭国公様、お入りください」
取次をした侍女に促されて潭国公は元妃の前へと足を運んだ。元妃に目をやると深々と平伏して動かなかった。それを見た元妃は椅子から立ち上がり萌葱色の着物の袖を揺らしながら、彼の肩に手を置いた。
「曦、かしこまってどうしたの?」
「叔母上、朝廷や後宮のことに口を出すなといつも口を酸っぱくして言っておられました。今回の魚良娣の件は潭国公府にも責任があります」
潭国公は頭を上げた。元妃は神妙な面持ちで甥を見つめている。元妃は彼が魚良娣の殺害事件で何か掴んだのだと感じた。彼女は部屋にいた盈月以外の侍女を全員、下がらた。
「何か……掴んだのね?」
「魚良娣が握っていた端切れが内舎人のものではないかと姨娘の1人が教えてくれました」
「内舎人……?」
「後宮にはいませんが、太子宮には?」
元妃は少し考えてみたものの、知っている限りでは太子宮に内舎人は存在していない。そればかりか、ここ数年の間で内舎人は任命されていなかった。
女官には特別職がいくつかある。その一つである女侍中は尚宮をはじめとする六尚から選ばれる。六尚とは、尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功の総称だ。女侍中は皇后の印を預かり、また高級官僚と同等の身分が与えられた。
だが、実際に女侍中は任命されることは稀であり女官の長は六尚の中で年配の女官であった。その女官を尚侍と呼んだ。しかし、品階は正五品であり、六尚となんら変わりはなかった。
「太子宮にもいないわ。本当に内舎人の衣装のものだったの?」
元妃は潭国公を問いつめる。潭国公は真っ直ぐに彼女を見つめて答えた。
「繍房にいた張姨娘の話です。信憑性はあります」
「それはそうだけれど……任命されていないのに衣装の端切れが……」
元妃が困惑していると侍女の盈月が何かを思い出したのか、おもむろに口を開いた。
「染衣房で聞いたのですが、優秀な宮女に着せる袴袍を特別に染色することがあるそうです。ですが……刺繍までは施さないはずです」
潭国公と元妃は肩を落とした。だが、盈月は話すのをやめずに続けた。
「刺繍を施した生地自体がなくなっているかもしれません。尚功局の帳簿から紫紺色の生地を太子宮へ貸出したと聞いておりました。司計が帳簿に記していたので元妃さまのお耳には入れませんでしたが」
2人は顔を見合せた。生地自体が無くなったと考えれば、誰かの衣装の一部ではない。それに手芸用品や生地の出納を管理する司計が帳簿をつけていない訳がない。生地自体を持っていった先のどこかで、あるいは誰かが事件に関与している。
「叔母上、この先は私を伝言にお使いください。馮一族の男は朝廷で嫌われるので、この話は表立ってできないかと。それに蘭斉殿も……」
「あの男には気づかれないように。きっと、斉国公を疑うはず。漁陽長公主は蘭一族とは近づきたくないでしょうね」
漁陽長公主が最初に嫁いだ殷家は蘭斉の親戚であった。汚職、賄賂、横領、好色と腐敗した一族でもあった。それは蘭斉も同じである。似た者同士が婚族になったのだ。 それに苦しみ悩んだ長公主は自ら陳情をしたのもあったし、先帝の決断もあり離婚したのである。
そして張謹に嫁いだのだ。漁陽長公主と結婚した張謹は斉国公を賜り、一人娘に恵まれた。一方の殷家は長公主と離婚したことで体裁が悪くなり、根も葉もない噂や陰口までたたかれる始末だった。それゆえか幸せそうな漁陽長公主と斉国公に密かに妬みを抱いていた。
「盈月、あなたは司計の帳簿を確認してきて」
「かしこまりました」
盈月は小さく頭を下げると淡い緑色の裙をたなびかせながら椒風殿から出て行った。潭国公と元妃はそれぞれ椅子に座った。久しぶりに叔母はどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。 品の良さ、そして威厳に満ちた美しい顔。潭国公は疑問だった。
「なぜ叔母上が立后されないのでしょうか?」
口をついて出た言葉だった。それに元妃は驚いたのか目を見開いたまま潭国公に顔を向けた。
「北趙と微州の争いは分かりますが、叔母上には皇后の持つべき品位を感じるのです」
「曦……」
元妃は何か言いたげだったが、やめてしまった。きっと負の感情が全面に出るだろうと憂慮したからである。
甥の潭国公は政治には関与したくないが、お屋敷には董修儀の妹である董蓉、そして配下の陳姨娘と雁門郡公がいる。
潭国公のお屋敷自体が彼の朝廷だと元妃は思った。内院は後宮で姨娘たちがしのぎあっているのだ。瑛が嫁いでからは董蓉は今まで以上に董修儀と連絡を取り合い、また、雁門郡公も動いている。
たまに、宛国公に元妃は申し訳ないことをしたと思っていた。なぜなら複雑な力関係のお屋敷に愛娘を正妻として嫁がせたからだ。
元妃は一度、董蓉に会っていた。姉譲りの美貌だが、口から出てくる美辞麗句に感情などこもっていなかった。そして勝気でわがままな性格が鼻についた。
「あなたはあなたのことを心配しなさい。董姨娘の息子は元気?確か桓と言ったわね」
「腕白で困ってますよ。妻が嫁いで来る前は桓に爵位を譲りたいと思っていましたが、妻…いや、瑛に子どもができたら揺らいでしまって」
昔から潭国公は流されやすい性格だとは思っていたが、情が絡むとますます流されやすくなるのだと元妃は思った。だが、それを指摘しなかった。したところで姨娘の誰かが男子を産めば、今度はその子を跡継ぎにしようと揺れるはずだからだ。
「宛国公のご令嬢はどう?」
「初めはわだかまりが……多分、今もあるでしょうけど」
「当たり前よ。董姨娘を好き勝手させてたのだから。董蓉は姨娘であって、あなたの正室ではないのよ」
「わかりました……」
元妃はため息をついた。これで潭国公の家政に不便が出てないか心配になった。それに静樂がこぼしていた「差配」の話しが気になった。
静樂は潭国公のお屋敷には正妻がいて、差配役の妾がいると元妃に教えていたのである。
「曦、単刀直入に聞くけれどお屋敷の差配は誰が行っているのかしら?宛国公のご令嬢?それとも董姨娘?」
「それは……」
潭国公は言葉を濁した。