雨の花海棠(4)
こうして夜が更ける。
半月は白銀に輝き、中庭の鏡宝池に光が落ちていく。潭国公府が徐々に静かさに飲み込まれてく。
瑛が鏡台の前に座って髪を梳いていると臨香軒から酔っ払った潭国公が鏡越しでも確認できるほど顔を真っ赤にしてやって来た。
潭国公は瑛を見るなり、ろれつの回らない口調で言う。
(今になって戻ってきた……お酒臭い……)
「夫人、いや、瑛……今夜はここで休むぞ!」
そう言うと潭国公は瑛を後ろから抱きしめた。
「公爵様!おやめ下さい!少星!公爵様を自室にお連れして!」
瑛は潭国公の腕を振り払って控えていた少星を呼んだ。
潭国公は瑛の態度に酷く気分を悪くした。
「蓉は優しかった。そなたは心が狭い……たかが酔っているくらいで騒いで!」
董蓉と比べられて瑛も酷く気分を悪くする。瑛は酔っ払った潭国公とは同衾したくなかった。酔った勢いで夜を過ごしたと言われるのが嫌だったからだ。それに瑛の自尊心が傷つくからだ。春蘭と冬梅が瑛に着物を羽織らせる。さすがに寝間着姿を見られたくなかった。
「名家の潭国公の当主が酔って正妻と同衾したと噂されれば朝廷で笑われます!」
「朝廷で笑われるものか!私には元妃様がついて…ついて…ついている!」
「元妃様は女人ですから朝廷に口出しできませんわ!公爵様、わたくしめは正妻です!初夜に訪れなかったことで使用人たちから同情され……元妃様にお願いしたら、わたくしめの同情や陰口は消えますか?わたくしめは今の公爵様とは同衾できません!」
「お前!私を拒むのか!」
潭国公は瑛に殴りかかろうとした。そこに慌てて少星が入ってきて潭国公を羽交い締めにする。
「少星!何をする!お前の主人に何をする!私は公爵!潭国公だ!」
羽交い締めにされた潭国公は少星に力づくで部屋から出された。瑛に頼まれて春蘭が部屋の外を柱から覗くと貞観軒の外に侍従が集まっており、潭国公は数人の侍従たちに担がれて行った。瑛は羽織っていた着物を冬梅に渡すと、そそくさに寝台へと潜り込んだ。ただ、その日はなかなか寝付けなかった。
瑛と潭国公の昨夜の出来事は翌朝には姨娘たちや使用人たちの耳に入っていた。
董蓉と陳姨娘が貞観軒に挨拶へ向かう最中も昨夜の出来事で盛り上がった。董蓉は得意そうに微笑み、陳姨娘は嬉しそうだった。
「公爵様は董姐様を優しいと仰って、奥様を怒鳴ったっと聞きましたよ!やはり董姐様が一番の妻なのですね」
「当たり前よ。公爵様は自分を受け止めてくれる優しい女人がお好きなの。どんな公爵様でもよ?酔っていようが、怒っていようが……お仕えする身で選り好みするなんて。奥様は分かってないわね」
少し後ろを歩いていた張姨娘は2人の会話を聞いて、彼女たちに挨拶をするのを止めた。そして関わらないように貞観軒までの道を変えようとした。侍女の琥珀が不安そうに張姨娘を見つめる。
「姨娘、董姨娘と陳姨娘と一緒に行かないのですか?今でも許せないのですか?」
「やめて!誰かに聞かれたらどうするの?!」
張姨娘は2人から距離を置いている。自分は後宮に姉妹がいる訳でもなく、爵位のある家の出身地でもない。
ただ潭国公のお情けで娘がいるだけの女人に過ぎないと張姨娘は自分を卑下している。
張姨娘こと張丹芍は尚衣院の職人だった。噂では博平縣公が営妓との娘という話があった。営妓とは軍に所属する妓女である。太夫人が特別に仕立ててもらった衣装に彼女が刺繍した青竹が気に入り、尚衣院を監督する太監に金子を払って彼女を潭国公府に引き抜いたのだった。
彼女は刺繍も上手く、衣装作りも上手かった。こうして繍房で働いていた、ある日、物静かで微笑みの美しい彼女が潭国公の目に留まり妾となったのである。そして娘の宜寧、宜荘を産んだ。しかし、董蓉や陳姨娘は2人を繍房の卑しい女の娘と罵っては嘲笑ったのである。それは許せない出来事だったのだ。けれど張姨娘には対抗できるほどの力や身分はなかった。
「琥珀、どこで誰が聞いているの分からないのだから口には気をつけてと何度も言っているじゃない」
「申し訳ございません」
琥珀が何度も頭を下げる。張姨娘は辺りを見渡して誰もいないことを確認すると胸を撫で下ろした。そこにもう1人の侍女である瑠璃が宜寧と宜荘を連れてやって来た。宜寧と宜荘は母の張姨娘を見るなり駆け寄ってきた。
「宜寧、宜荘、奥様に挨拶に行くのかしら?」
宜寧が静かな声で答えた。そして尋ね返した。
「はい。宜荘と奥様に挨拶をしに参ります。お母様、奥様はどんな方でしょうか?私たち庶出の子どもたちに厳しい方でしょうか?」
「宜寧、そんなこと考えてはいけない。それにお母様もよくわからないのよ。ただ、最初から悪人だと決めつけては奥様への失礼になるわ」
「孟子の性善説のように考えろと?」
張姨娘は宜寧に目を合わせるようにしゃがんだ。真っ直ぐな瞳に不安が見える。
(奥様は嫡女…庶出の子どもたちの末路は正妻次第…それをわきまえている方だと思うけど)
「いいこと。宜寧、宜荘、奥様を悪く言っては尾ひれがついて批判することになるわ。私たちが生き残るには息を潜めて、誰とも争わないことよ」
宜寧と宜荘は小さな声で返事をす。それを確認した張姨娘は貞観軒に再び歩き出した。
中庭は桂花を植える作業をしている庭師たちが何人もいる。宜荘が言う。
「奥様へのご挨拶が終わったらお菓子が食べたいな…桂花を見たら食べたくなっちゃった」
瑠璃が宜荘に答える。
「厨房でれんこんと桂花のお菓子を作らせますか?」
「そうして!」
れんこんのお菓子とは藕粉桂花糖糕という。糕は粉餅、またはケーキのようなものだ。宜荘はれんこんと桂花のお菓子が大好物だった。
貞観軒に向かうと、董姨娘と息子の馮桓、陳姨娘、秦姨娘と娘の宜花を連れて侍女から声がかかるのを待っている様子だった。
陳姨娘が聞こえるような大きさの声で奥向きに向かったて言った。
「お仕えもしていない奥様がまさか寝坊ではないでしょうね?眠かったら、どうぞお休み下さいませ。差配は董姐様にお任せしても良いのですよ」
董蓉が姨娘たちに問いかける。
「奥様がこの先、公爵様に嫌われたら追い出されるかしら?」
張姨娘と秦姨娘は顔を見合せて口を噤んだ。穏便に済ませたい2人は、
「さあ?」
「分かりませんわ」
っと答えを濁した。すると陳姨娘がはっきりと言う。
「追い出されるに決まっているわ。休妻されて潭国公府から出て、董姐様が正妻に…」
さすがの董蓉も陳姨娘を言い過ぎだとたしなめた。しかし、陳姨娘の口は開いたままで瑛への悪口を絶え間なく話している。
貞観軒から春蘭が出てきた。
「奥様の支度が終わりました。どうぞ、中へ」
春蘭に案内された姨娘たちは客間に通されて、椅子に座るように促された。見計らったかのように使用人らが姨娘たちに蓋碗に茉莉花を入れて出てきた。
蓋碗とは蓋のある茶碗で、茶を飲む時は蓋を少しずらして茶をのむのである。
そこに髪は高髻に結い上げた瑛が現れた。単髻には螺鈿で出来た蝶の簪が対になるように挿してあった。高髻は頭頂部に髷を結う。そこに簪などを挿すが派手な髪型ではなかった。
瑛が現れると、姨娘たちは茶を飲むのをやめて立ち上がり、彼女に向かって一礼をした。
「顔を上げて」
姨娘たちはお礼を述べてから頭をあげて椅子に座った。瑛が柔らかな声で言う。
「董姨娘、正妻にすることは分かっている?皆さんを紹介はしていただいたけれど、挨拶はまだだったわ」
「それはもちろん。皆さん、奥様にお茶を捧げるのよ」
と董蓉の一声で姨娘たちは立ち上がり、冬梅から蓋碗を配られた。
董蓉は姿勢を低くして、椅子に座っている瑛ににじり寄って手にしていた蓋碗を捧げた。微笑みながら瑛はそれを受け取り、一口飲んで蓋碗を春蘭に渡した。そして瑛が促す。
「次は陳姨娘の番ね」
冬梅から蓋碗を受け取った陳姨娘も董蓉のようににじり酔って蓋碗を差し出した。しかし、瑛はなかなか受け取ろうとしなかった。緊張が走る。