寂寞に揺れる冬柳(1)
それからすぐに魚選侍の葬儀が行われた。
魚選侍は死後、良娣の身分に追封された。これに静養中の太子妃と静樂は参加しなかった。この一件で太子宮ばかりか、後宮までも震撼させた。
この国で一番、安全な場所にいた女人が殺された、しかも龍の通り道とも言われる太鈺大路でだ。
おまけにその犯人も見つかっていない。
これには瑛も恐怖を覚えた。潭国公は毎日、遅くまで犯人を捜しているというが手がかりはなかった。それゆえが目の前に住んでいる漁陽長公主らが疑われている。
軒先で瑛が春蘭を伴って散歩していると、潭国公が勢いよく走ってやって来た。それに瑛は呆気にとられたが、すぐに平然を装って何があったか尋ねた。
「公爵様、何かあったのですか?」
「魚良娣を殺害した犯人を突き止めたんだ!」
「あら?どなたが?」
「蘭斉殿だよ!」
(蘭斉……汚職官僚って噂しか聞かないわ)
「蘭斉殿が言うには漁陽長公主の下男が魚選侍を殺害したそうだ」
瑛は首を傾げた。そして不思議そうに譚国公へ尋ねた。
「動機は?単なる金銭の目当てでしょうか?」
瑛の言葉で潭国公は黙り込んでしまった。彼は肝心な動機を教えてもらってなかったのである。瑛にはそれが予想できた。彼は元妃の甥であるから、政治的な関与を認められていない。これは公の話ではなく、裏ではの話である。
「それは……」
「長公主の下男ならお給金にも待遇にも満足しているはずですし」
「まあ、確かに……あ!そういえば」
潭国公は思い出したかのように腰にぶら下げてあった巾着から端切れを取り出した。これに瑛は再び首を傾げた。
「魚良娣が握っていたものらしい。蘭斉殿に内緒で持ってきたんだ。何かこれで手がかりを掴めないかって」
潭国公は瑛に端切れを手渡した。紫紺色の端切れで蝶の羽のような刺繍が施されている。
「公爵様、これは張姨娘にお見せになった方がよいのでは?下男の着物の端切れだとしたら変です」
「なぜだ?」
「これが絹だからです」
潭国公は瑛の言葉で何か気づいたようだった。普段から絹を着ている彼にはその着眼点はなかった。そして刺繍を指でなぞる。銀糸を使った蝶の羽の刺繍に見覚えがあったが、どこで見たかは思い出せなかった。
「張姨娘に聞いてみましょう?繍房にいたなら分かるはずです」
「わかった……丹芍とも会っていなかったし……」
潭国公は渋々といった風であった。彼は張姨娘にしばらく会っていなかったのである。宜寧と宜荘と遊ぶことで張姨娘と繋がっているような気がしていたのだ。
これは潭国公の大きな勘違いでもあった。確かに「子はかすがい」と言うが、譚国公は夫として父として何もしてなかった。
2人は暁姿軒へと足を運んだ。暁姿軒は東から暁が一番、見える美しく荘厳な部屋であった。董蓉の臨香軒とは大違いであった。臨香軒は派手に造られたものだが、暁姿軒は自然が作り出した部屋である。
(丹芍は暁を1人で眺めていたはずだわ)
瑛は部屋で1人で冷たい夜を過ごす張姨娘のことを考えた。そして薄暗い中から現れる暁をどう思っているのか。新しい日に何か喜びを感じるのだろうか、瑛はそう考えた。しかし、これは彼女の推測でしかなった。
張姨娘の自室に向かうと彼女の姿はなく、侍女の1人が刺繍部屋にいると2人に告げた。
張姨娘は侍女が告げたように刺繍部屋で図案を眺めていた。この刺繍部屋は彼女が嫁いだ際に増築したものだった。
「丹芍、私よ」
瑛は潭国公より先に張姨娘へ声をかけた。張姨娘が明るい表情を瑛に向けた。しかし、次の瞬間、彼女の表情が曇った。潭国公が目に入ったからである。
張姨娘は彼に何も求めていないし、与えるつもりもなかった。それは表情も同じである。張姨娘は立ち上がると2人に向かって頭を下げた。
「公爵様、奥様、ごきげんよう」
「頭を上げて」
「はい」
瑛は潭国公に目線を送る。潭国公はそれに気づいて、おずおずと張姨娘に話しかけた。
「こ、これを見てもらいたい」
「あら、蝶の刺繍ですわね」
張姨娘の口調はよそよそしいく、冷たいものだった。瑛はこうなったのはひとえに潭国公の偏愛だと実感せざるを得なかった。そして瑛は董蓉の得意げな顔を思い出して、内心で唾を吐いた。
「丹芍、この蝶の刺繍はどこで使われているか分かる?」
「繍房にいたとき、確か内舎人の衣装に施した記憶が……」
思わず瑛と潭国公は顔を見合せた。内舎人が置かれるのは後宮だからである。そもそも内舎人とは皇后、太子妃に仕える女史でも筆頭格に値し、皇帝陛下の勅書を太監以外で扱える女人でもあった。
「今の後宮には内舎人はいない」
潭国公が呟いた。
「ですが……」
張姨娘がゆっくりとした口調で話し始めた。
「この刺繍は後宮のものではありません。後宮の内舎人なら金糸を使うはずです。銀糸を使うのは太子宮です」
「公爵様、魚良娣の殺害には太子宮が絡んでいるのかもしれません」
潭国公は少し考えてから2人に言った。
「叔母様に会ってくる」
そして付け足すように囁いた。
「これは内密に」
瑛と張姨娘は頷いた。それを見た譚国公は踵を返した。刺繍部屋に残された瑛は近くにあった丸椅子に腰を下ろした。張姨娘は力が抜けたように無表情で立っていた。
「丹芍、よっぽど公爵様が疎ましいみたいね」
瑛の言葉で張姨娘は我に返ったのか、彼女に柔和な笑みを見せた。張姨娘の中では瑛と秦姨娘は特別な存在だったからである。
「疎ましいと思えなくなったら、私はお屋敷を出ています。幸いなことに刺繍が出来ますから」
「ねぇ、丹芍。刺繍のことで頭がいっぱいだったのだけれど、犯人はどうして斉国公の屋敷の前で魚良娣を殺害したのかしら?」
「奥様……」
「このまま、公爵様が問題を解決しないと漁陽長公主と斉国公が疑われるわ」
「私には斉国公様は関係のない方です」
張姨娘は言い切った。彼女がそういう風になる心情は分かるが、このまま放置はできないだろう。漁陽長公主は廃黜されるか尼僧になるかだが、夫の張謹は小さな罪をホコリを叩くように出されて、しまいには親の代の罪まで持ちだされるはずだ。この事件を蘭斉が担当したらやりかねない。そして、張姨娘、張丹芍を戸籍に届けなかったことを追及される。
戸籍は国が人民を把握し、管理するためのものだから身分を偽ったり、流民と同じように無戸籍は大罪だ。張姨娘の父である博平縣公は大罪を犯したのである。
「仮に斉国公が吊し上げられたら、あなたの父親も兄も大罪を犯したことを世間に知られるわ。最悪、あなたも罪に問われて宜寧や宜荘が罪人の娘になってしまう」
大衡国では15歳になったら後見人なしたっ役所で申立をして戸籍を得ることができたからだ。それをしないと罪になってしまう。
張姨娘は真実を知りながらも戸籍を作らなかった。博平縣公に捨てられたと思い、今更、戸籍に入っても邪険にされるだけと強く思い込んでいたのである。
「奥様、宜寧と宜荘を巻き込みたくはありません!」
「そうよね。いい、これから斉国公のお屋敷に行くわよ?あなたの話をするの。斉国公はあなたの存在を知っているはずよ」
「……それは斉国公様に累が及ぶのでは?」
「大丈夫。今、大事なのは博平縣公が犯した戸籍の罪と斉国公を庇うことよ」
「わかりました」
瑛は少し膨らんだお腹を抱えながら丸椅子から立ち上がった。それにこの事件に漁陽長公主と斉国公は無関係だと瑛は信じていた。