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菊の花が咲き始める頃(11)

 皇宮に潭国公からの遣いがやってきたと皇帝と元妃に伝えられたのは薄暮が始まるころだった。遣いに目通りしたのは元妃の侍女の盈月(えいげつ)であった。

 伝えられたのは魚選侍が体調不良で潭国公府で休んでいるということと外泊できるかということだった。

 それを盈月の口から聞いた元妃は皇帝の判断を仰ぐことにした。

「陛下、いかがなさいます?」

「外泊はあまり良い気はしない。太子妃が不在なのに家政を担っている魚選侍も不在となれば……」

「1日くらいから黄選侍だけでも良いかと」

「違う」

 元妃は皇帝の顔を見つめて彼の言葉が唇から出てくるのを待った。

「太子妃が宮外にいることが例外なのは元妃でもわかるだろう」

「承知しております」

 太子妃を宮外で静養させると命じたのは皇帝であるが、それは例外だった。妃嬪は一度、入内すると死ぬまで後宮で過ごさなければならなかった。後宮とは妃嬪の人生と時間を閉じ込める檻なのである。

 そのように人生を過ごす運命の太子妃を宮外に出したのは檻から出したようなものだ。檻から出た鳥は戻ってくるとは限らない。

「魚選侍は今夜中に太子宮へ戻るように伝えよ」

「分かりました」

 元妃は盈月を手招くと皇帝の言葉をそのまま伝えた。盈月は短く返事をすると部屋を後にした。元妃は魚選侍が少し不憫に感じたが、皇帝の判断に口を出すことはしなかった。ここで口を出せば皇帝の不興を買うことになる。長年、皇帝に仕えている元妃はそれを弁え(わきま)ていた。

「元妃よ、魚選侍は何か患っていたか?」

「太子宮の太監からは何も聞いておりません。申し訳ございません。太子宮のことはすべて皇太子たちに任せていたので」

「皇太子に任せていたのは朕もだ。元妃、魚選侍が戻ってきたら侍医の診察を受けさせよう……それから後宮と太子宮の妃嬪たちの配置を見直そうと思っている」

 元妃は黙っていた。それは皇帝に話を続けるように促しているようだった。

「十二嬪も華美であるし、貴嬪の下に宮嬪など余計であろう。それに太子宮に配置された才人の位階は元は後宮の位階だ」

「陛下の頭の中には配置が浮かんでいるのでしょう?」

 元妃のくだけた言い方に皇帝は思わず微笑んだ。元妃は礼儀正しいが、元は馬を自由に操る活発な女人だ。皇帝はそこに惹かれていた。だが、今は馬には乗らないし、活発とは言い難い。それでも元妃の美しさは円熟味を帯びていた。この先、元妃はもっと美しくなるだろうと皇帝は思っている。この感情は董修儀にも楊充媛にも抱いたことはなかった。やはり、皇帝にとって元妃は特別であった。

藝香(げいこう)にはお見通しだな」

「あら、名前で呼ぶなんて珍しい」

 皇帝は元妃の肩を抱いた。

「実は唐朝の高宗や玄宗の時のように簡素にしたいと思っている。いや、それよりか……まずは位階を減らす」

 片手で皇帝は元妃に位階を記した紙を渡した。

「これは太子宮のだ」

「太子妃、良娣(りょうてい)選侍(せんじ)保林(ほりん)淑女(しゅくじょ)……いいわ!」

「藝香に言われると嬉しい気持ちになるのは昔も変わらないな」

 元妃は皇帝の身体にもたれかかった。そして今度は後宮の位階を記した紙を見つめた。元妃はそれを読み上げた。

「皇后、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃……?」

「何かおかしいか?」

「私はどうなるの?」

 元妃の表情が曇る。「元妃」の位階がなかったからだ。

「藝香は皇后になるんだよ」

「え!」

 元妃は驚きのあまり身体を皇帝から離した。

「嘘でしょう?悪い冗談はよして」

 皇帝は笑っている。元妃はその表情から彼が本気だと感じた。しかし、立后まで容易い道のりではないことは元妃自身が一番、知っている。

 尚書令、蘭斉、金城伯、そして董修儀らが立后させないように謀りを巡らせている。思惑は違えど、彼らにとって元妃が立后するのは権力を維持するためには避けたいことだったのだ。

「もう、お前を側室のままにはしたくないんだよ。それで肩身の狭い思いをしてきたはずだ。皇太子のためにも立后したい」

 皇帝は再び元妃を抱き寄せた。皇帝の胸に顔を埋めながら元妃は複雑な気持ちに襲われていた。喜びを感じているのに心から喜べないのだ。そして考えないといけないことが山ほどあることに疲れを感じていた。


 魚選侍は月が顔を出したころに半ば追い出されるように潭国公府を出ていった。魚選侍の容態は回復していたが、何も話さなくなっていた。

 魚選侍の様子に秦姨娘は心許なかった。薬は指示通りに飲んでいたが、表情は虚ろで焦点も合わない状態であった。それを伝えたはずだが、回宮を促した皇帝に秦姨娘は怒りを覚える。だが、怒りを覚えたところで相手は天子だ。天子は全知全能であり、民たちの生殺与奪を握っている。

 秦姨娘の隣に帰宅した潭国公がやって来た。潭国公は昕から話を聞いていた。

「玉儀、不安なのだろう?」

「医術の心得がある人間からしたら不安です」

 秦姨娘はどこか素っ気ない。以前から秦姨娘は潭国公に素っ気なかった。しかし、最近はますます素っ気ない。秦姨娘は潭国公に仕えているというよりか、瑛に仕えているという認識が強かったからだ。

 秦姨娘は娘の宜花(ぎか)を産んだ時に彼を早々に見限っていたのである。これもまた、董蓉に絡んでくる話であった。秦姨娘は彼を愛そうとしていたし、愛されようともした。彼女は潭国公の花火のような恋心を向けた相手だった。初めは勢いがあって華美であっても、時間が経てば一瞬の消えてしまう恋心である。

 秦姨娘は花火のような恋心で火傷をした被害者だった。

 宜花が産まれてからは感情のすべてを彼女に注いでいた。だが、これが董蓉を勢いづけたのには違いない。

「まあ、心配でも回宮する命令が出たんだ。だから陛下のお心は分からない。まあ、私たちが詮索するようなことでもないだろう」

「それより、魚選侍様の護衛が少ないのでは?」

太鈺大路(たいぎょく)を通るから心配無いだろう。そういえば、魚選侍様から白檀の香りがしなかったか?」

「さあ」

 秦姨娘は潭国公をその場に残して部屋に戻って行った。その様子を物陰から陳姨娘と侍女の緑袖が眺めていた。

「姨娘、公爵様に声をかけたらいかがです?」

「そうね」

 陳姨娘が何も知らない素振りで潭国公の前に歩み寄った。藤色の着物に月明かりが落ちている。光をまとったような姿に潭国公は思わず口元が緩んだ。

「如真が公爵様にご挨拶申し上げます」

「如真、そう畏まるな」

「ありがとうございます。公爵様、魚選侍様のお見送りを?」

「そうだ。そなたも看病していたと聞いている。疲れただろう」

 潭国公は陳姨娘の手を握った。潭国公の温もりが手の先から陳姨娘へと伝わってきた。それに陳姨娘はまんべんの笑みで返した。彼女は笑うとえくぼができた。

「いえ、わたくしは疲れていませんわ。公爵様、わたくしの部屋で食事でも?」

「久しく如真の元に訪れていなかったな」

「奥様がご懐妊となれば公爵様の足は自然と遠のくものですわ。仕方ありません」

「さあ、案内してくれ」

「ええ」

 2人は仲良く鈴なりになって内院へと帰って行った。


 潭国公の耳に太鈺大路で魚選侍が刺客に襲われた話が舞い込んできたのは明け方だった。

 陳姨娘の住居である玉壺軒(ぎょっこけん)で休んでいたところに少星が飛び込んできたのである。

 皇太子の側室が刺客に襲われるという前代未聞の事件に朝廷も後宮も震撼していた。

 そして一番、動揺していたのは回宮を命じた皇帝だった。

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