菊の花が咲き始める頃(10)
彼女は暁姿軒に住んでいた。
暁姿軒は名の通り「東」を向いていた。董蓉が嫁ぐまでは彼女が正妻扱いだった。
張姨娘は繍房にいたことと名前以外は素性が知れなかった。そのような女人を潭国公は愛したが、すぐに冷めてしまった。冷めてしまった心をわずかに引き留めたのは娘の宜寧と宜荘であった。
董蓉が迎えられると張姨娘はお屋敷の片隅にたまに思い出されるだけの存在になってしまった。それに加えて陳姨娘が迎えられると存在は霞や霧のようにあやふやな物になり、陳姨娘からは素性の知れないことから虐げられた。
瑛は張姨娘の後を追って歩いていると、中庭に彼女の姿を見つけた。たたずむ姿は実に儚く目に映る。瑛はたたずむ彼女にそっと声をかける。
「丹芍、赤い芍薬……いい名前ね」
「奥様……?」
張姨娘は振り向いた。その目には涙が浮かんでいる。
「思い出したくもない話をしたんじゃないの?」
彼女は袖で涙を拭った。
「……」
「丹芍、っと呼んでも?」
「はい」
「陳姨娘と何かあったの?さっきの言葉は陳姨娘があなたを調べていたということよ」
張姨娘は視線を落とす。
「陳姨娘からは何度も虐げられました。それに董姨娘からも……わたくしは知っています。宜寧の薬が煎じられるのがいつも遅いのか」
「そのようなことが?」
「もう、慣れました」
張姨娘は視線を再び瑛に向けた。彼女の瞳は琥珀色をしている。瑛は思わずその瞳に吸い込まれてしまいそうになった。
「美しい瞳……」
無意識に瑛は呟いた。瑛は琥珀色の瞳を初めて見たのである。これは後宮の妃嬪ですら手に入らないものだ。このように天から与えられた美しさに瑛は息を飲んだ。
「わたくしは寵愛を争いたい訳ではございません」
張姨娘の言葉で瑛は我に返った。
「宜寧と宜荘を守りたいだけなのです」
「彼女たちが大切なのね」
すると張姨娘は今度は天を仰ぐ。瞳からは一縷の涙がこぼれている。
「あの子たちがいたから、わたくしは公爵様の傍にいられる。分かっています。わたくしはあの子たちに自分の生母と同じことをしています」
「どういうこと?」
瑛は首を傾げた。張姨娘はまた涙を拭う。
「わたくしの生母は素性の知れない女人でした。繍房の主人からは宮婢と聞いていました」
「名前も知らないの?」
張姨娘は何度も小さく頷いた。
「名前も姓も知りません。今、何をしているのかも、生きているのかも知らないのです」
瑛はこの世に生母を知らない人間がいることを目の当たりにした。瑛には宛国公夫人という嫡母と生母がいる。それが当たり前だったからだ。
だからといって一概に張姨娘を憐れむのは間違いだと認識していた。張姨娘も憐れみの対象にはなりたくないはずだ。
「丹芍、あなたは母君とは違うわ。宜寧と宜荘を自分と同じ境遇にさせなかったじゃない」
「そう言われたのは初めて……」
そこでようやく張姨娘は瑛に笑いかけた。瑛も張姨娘に笑みを返した。琥珀色の瞳に光が宿る。
「奥様、わたくしは確かに博平縣公の娘です。繍房の主人は博平縣公からの信件も預かっていたのです。私の出生に関する信件です。わたくしが15歳になったら渡すように言われていたと聞きました」
「それは繍房の主人と丹芍しか知らない話?」
「そうです。なぜ……陳姨娘が知り得たのか……」
瑛は陳姨娘があの場で張姨娘の出生について発言したのかが分からなかった。そして彼女がどうして張姨娘の出生について知っていたのかも分からなかった。
(丹芍の素性が知れて困るのは彼女を隠しつずけた博平縣公よ。博平縣公が困る理由……族譜に載せなかったから?それとも国が決めた戸籍に届けなかったから?それこそ皇帝陛下を欺く罪だわ)
「この件は私に……」
「大丈夫です」
張姨娘がかぶせるように言った。どこか投げやりな口調であり、冷たさも感じられた。張姨娘にぴしゃりと言われて瑛は何も言えなくなった。
(ここで私が出しゃばったり、お節介をしたりしたら丹芍の傷は広がるはず。彼女は自分の出生で傷ついている…それにしても陳姨娘……如真はどこで知り得たの?繍房の主人?いや、雁門郡公?)
いくら自分自身に問いかけても疑問が深まるばかりで解決の糸口は見つからなかった。かと言って追及してはいけない問題である。今は出生を知り得た方法よりも、それを言いふらした陳姨娘を罰するのが先だ。
「陳姨娘は罰するわ」
「罰する?」
張姨娘はおうむ返しに聞いてきた。彼女には陳姨娘を罰するという考えはなかったようだ。
「そうよ。これはあなたへの侮辱だわ」
「侮辱だなんて……これは真実です」
「あなたはこの真実で苦しんでいるのではないの?苦しみを抱きながら生きている丹芍への侮辱よ!」
瑛は思わず語気を強めてしまった。それに気づいたのは言葉を発してからだった。張姨娘は瑛の言葉に驚いているのか、目を丸くしている。瑛は慌てて優しい言葉を投げかけようとしたが、何も思いつかなかった。しかし、張姨娘の口からは思いがけない言葉が出てきた。
「奥様、奥様の気概には敬服いたします」
瑛は張姨娘の言葉で胸を撫で下ろした。
「わたくしは苦しみと共に生きるのが運命と考えておりました。それにこの苦しみに気づいてくれた方は誰も……公爵様でも知らないのではないかしら……奥様の言葉を聞いて、なぜか心が満たされたような気がしました」
張姨娘は瑛が思っている以上に強い心の持ち主だった。苦しみを抱いて生きている彼女は誰よりも思慮深く、繊細で臆病だ。ただ、何かのきっかけがあれば強くなることも出来た。きっかけは苦しみを共有できた時だろう。
張姨娘は孤独だった。秦姨娘と交友があっても、娘たちがいても埋められない孤独が心を蝕んでいた。瑛の言葉はその蝕まれた心に光を当ててくれた。張姨娘の心は彼女が言ったように満たされていた。張姨娘は苦しみを誰かに受け止めてもらいたかったのだ。
「苦しみから解放される日はくるわ。それまで紆余曲折してしまうけれど」
「奥様は今の状況は苦しくないのですか?」
思いがけない質問に瑛は一瞬、固まってしまったが、口をついて言葉が出た。
「苦しいわ」
張姨娘は何も言わなかった。それでも彼女は肯定する雰囲気を醸し出している。
「正直、奥様が嫁がれたから安眠できた日は片手に数えるだけです。そして董姨娘と陳姨娘がいつも何かを企てています」
「今までが異常だったのよ」
先程の弱気な言葉とは打って変わって強く、冷静な言葉を述べていた。
「わたくしもそう思っておりました。董姨娘、いえ、董蓉は正妻の座を欲しています。これからも手綱を弱めないかと……わたくしが言うのはおこがましいと承知しておりますが……奥様のお力になります」
張姨娘の思いがけない申し出に瑛は驚いたが、嬉しくもなった。味方は多い方が良いが、多くなれば多くなるほど思惑が生まれる。そして分裂して裏切り者が出てくる。
董蓉と董修儀に挑むには味方は多い方が勝算はあるだろうが、統率が取れなければ綻びが出来てそこを攻め込まれる。ならば、一網打尽とはいかないが少数精鋭で少しずつ牙城を崩していくのが良いだろう。それに少数なら速く動ける。
相手は多数だ。貴族も大臣も巻き込んだ強敵だ。だが、それは烏合の衆に違いない。なぜなら、董蓉と董修儀の父である董謙が大量の銀子を袖に忍ばせて味方につけた者ばかりだからだ。それに少しばかり北趙に反感を抱く微州出身を混ぜだけだ。銀子だけで繋がった味方は味方ではないのだ。