菊の花が咲き始める頃(6)
綰児は正式な側室ではないが、手の着いた宮女として召人として部屋を与えられた。そして綰児は養祖父の曹姓を取って「曹召人」と呼ばれることになった。
それに苛立ちを覚えたのは董修儀だった。修儀は早いうちに彼女を始末しようと考えていたからだ。太子宮は以前にも増して警備が手厚くなり、出される食事も水も毒味されており、迂闊に手が出せない状況になっている。
考えを巡らせながら御花園を散策していると向こうからくちなし色の着物を着た黄選侍が思い悩んだ表情で歩いていた。董修儀は幽艶な笑みを浮かべながら彼女を呼び止めた。
「黄選侍、深刻そうな表情ね。どうなさったの?」
「修儀様、お恥ずかしいですわ……こんな顔を見られて……」
黄選侍は手巾で口元をおさえて作り笑いを浮かべた。董修儀は何故、彼女がこんな表情をしているのか察しがついていた。
「もしかして、曹召人のことかしら?」
一瞬だけ、黄選侍の表情が強ばった。彼女の読みは当たっていた。
「殿下が選んだ方に文句は……」
「そうでしょうね。よく考えてみて?あなたは選侍で相手は愛妾よ?身分が違うのに、どうして思い詰めているのかしら」
董修儀はそっと黄選侍の手をとった。指先は冷たく、長いこと御花園にいたのがわかった。
(警備に隙はなくても、人には隙があるものよ。皇太子、甘かったわね)
「選侍、困ったことがあったら何でも仰って?」
「修儀様、わたくしは焦っているのです」
「焦り?」
「はい。太子妃様も不在で懐妊中の李選侍は南苑に。わたくしは家政を任されております。そんな中で召人を迎えること苦しく……それにわたくしは懐妊する訳がないのです」
「お渡りがなければ、仕向けるのよ」
修儀はそう告げると掴んでいた手を離して、彼女を漪蘭殿へと招いた。
漪蘭殿は趣向が凝らされた殿閣であった。元妃の住む飛翔殿よりも豪勢で、彼女が好きな天竺牡丹の時期になれば無数に咲いていた。
正殿に案内された黄選侍はその内装に寵妃という地位が特別であり、また、権勢を誇れる存在だと実感した。
「お掛けになって」
侍女の蕓枝が黄選侍に丸椅子を用意した。黄選侍はそれに座ると待っていたかのように上座に座った修儀が口を開いた。
「太史監は使えるわ。それに太子妃と李選侍がいないなら、黄選侍と魚選侍と曹召人だけよ?太史監を使って皆を不吉で星を凌駕すると言わせるのよ」
「そのようなこと……出来ますか?」
「出来るわ。私が今夜、そうしてみせるわ。黄選侍はお部屋で美しくしていらして」
そこに蕓枝が桃膠や柘榴を持ってきた。黄選侍はこれが何か分からず、首を傾げていた。
「美容に良いものよ。お使いなって」
「修儀様に感謝いたします……」
「それにわたくしはあなたを太子妃にしたいの」
黄選侍はそれらを受け取ると、しばらく修儀の言葉を思い出しなが、ある種の恐怖を抱きながら太子宮に帰った。
太子宮にある彼女の殿閣、安処殿には太監や宮女が恭しいく彼女を出迎えた。黄選侍は状況が分からなかった。宮女の1人が黄選侍に皇太子のお渡りを告げた。そして修儀の言葉を思い出した。
(修儀様、これは幻でしょうか?何かの術でしょうか)
それから黄選侍は言われた通りに玫瑰の花びらが浮かぶ湯に浸かり、身体を清めてから化粧をして髪を結った。双髻にした髪には翡翠の簪などを挿して華やかな出来に仕上がっている。そして柘榴を一齧りした。柘榴は美容や女性の健康に良いものとされていた。
眉は三日月眉にして額には菱形の花子を描いてもらった。ただ、黄選侍の希望で白粉は少なめにして紅も控えめに塗ることになった。淡い桜色の着物を纏った彼女は安処殿で皇太子のお渡りを待った。その間に料理や酒が運ばれてきた。
そして皇太子が太監を連れて現れた。黄選侍の胸は高まった。
「黄選侍、今日の装いは実に美しい」
「ありがとうございます」
「さあ、食事をしよう」
2人は円卓に並ぶ料理を少しずつ食べた。黄選侍は緊張のあまり、なかなか食べられずにいた。
「黄選侍、どうした?口に合わないのか?」
「いえ……殿下のお渡りが久しぶりで。いささか緊張していますの」
「そうか。入内して2日目に黄選侍の元に通ったな」
「覚えておいてですか」
黄選侍ははにかんだ。そして箸を置くと体を皇太子の方に向けて彼を優しい眼差しで見つめた。静樂とは違い温かさが伝わってきた。
「殿下は優しくわたくしを抱きしめてくださいました」
「それはお前が優しかったからだ」
「お恥ずかしい」
その黄選侍の柔らかい雰囲気に触れて皇太子は静樂とは違う安らぎを覚えていた。太子妃にも静樂にもないものである。そして彼女が浮かべる柔和な微笑に皇太子は惹かれてしまいそうだった。
「黄選侍、今夜は共に過ごそう」
そう告げると皇太子は寝所を後にした。それから食事は下げられて、黄選侍は別室で薄化粧を施されて寝巻きを着せられた。
そして寝所に向かうと寝台に同じように寝巻き姿で座っていた。おずおずと黄選侍は皇太子の隣に座った。すると皇太子は申し訳なさそうに話し出した。
「今夜、選侍の元を訪れたのは太史監の言葉でだった。不本意であったが、訪ねたのだ。そうしたら、選侍、お前が私に安らぎを与える女人だと知ったのだ」
「そんな……わたくしはそのような女人ではありません。殿下に少しでも寛いでいただけたら」
「実に優しい」
黄選侍は立ち上がると燭台の灯りを息で消した。
潭国公の屋敷では秦姨娘が瑛の看病を続けていた。不調の原因になったものは全て排除した。
それもあってか瑛の体調は回復していった。それに董蓉は歯ぎしりをした。上手く行けば嫡子は命を失っていたからだ。それだけではなく、瑛も命を失っていたかもしれない。そうなれば、潭国公の正妻は子どものいる董蓉に決まるはずだ。
「全く、悪運が強い女だわ」
茶菓子を食べながら董蓉は陳姨娘に珍しく愚痴をこぼしていた。
「運は尽きるものですよ。いずれ悪運すらもなくなりますわ」
「だと、いいけど。そういえば公爵様は今どちらにいらっしゃるの?」
陳姨娘はバツが悪そうに答える。
「張姨娘のもとです」
「あのお針子ね。あの女も運があったわね」
陳姨娘も同調するように言った。
「確かにそうですわね。繍房のお針子が今や公爵様の姨娘だなんて……だから、今は顧みられないのですよ」
董蓉は余裕そうな笑みを浮かべた。それは自分が一番、潭国公に愛されて、信頼された特別な存在と自負しているからだった。
それは矜持でもある。これは絶対に揺るがないものだった。だが、瑛はそれを壊そうとしていた。董蓉はそれが許せなかったし、彼女を心から迎え入れるなど毛頭もなかった。だから、姉の修儀に頼んで婚礼品に細工をしたのである。
「私はいつか、あの女が泣きながらお屋敷を出ていく姿が見たいの」
「董姐さま、それは趣味が悪いわ」
陳姨娘は口ではそう言いつつも、満更でもない口ぶり出あった。
「そう言えば如真、菊は咲き始めているかしら?」
「どうだったかしら……確認しますわ」
「菊花茶が待ち遠しいわ」
すると陳姨娘がふざけたように言い出した。
「秋の金木犀のお酒は待ち遠しくないのですか?」
「それはあなただけじゃない?」
2人は笑いあった。