菊の花が咲き始める頃(5)
静樂の言葉を聞いた皇太子は彼女を見つめられなくなった。以前から彼女が自分をやんわりと拒んでいたのに気づいていたが、気のせいにしたかった。しかし、今の静樂の発言で確信に変わった。
皇太子は静樂から愛されたかったし、愛したかった。懐妊してから見境もなく彼女に全てを捧げていた。彼女が母親を支持する家柄の娘ということもあり、彼女が味方のように感じていた。それから、味方ではなく愛すべき女人に変わった。
だが、彼女は変わってしまった。一時、粗末な身なりをしていたが、それを見て見ぬふりをしたからだろうか。皇太子には思い当たる節が何個もあった。
「私は静樂が良いのだ……侍婢と戯れたことは認める。だが、それは一時だ!私は静樂に一途に、永遠と愛を捧げたい。太子妃の座が欲しいなら与えよう」
「殿下、それは誤りです」
静樂がぴしゃりと言った。皇太子は静樂の顔を恐る恐る見つめた。彼女の眼差しは氷のように冷たかった。
「与えない愛もございます。静樂は太子妃の座など欲しくはありません。今は子どもを無事に産むことだけが希望です」
「分かった。熱くなりすぎた。明日、荷物をまとめて南苑に移るといい……もう休もう」
「はい」
静樂は琴から手を離すと、そのまま軽く会釈をして寝所を後にした。皇太子は窓辺に立ち、白銀の月を見つめた。月には姮娥という仙女がいると聞いたことを思い出した。姮娥は嫦娥とも呼ばれている。
彼女は夫が西王母からもらった不老不死の薬を飲んで月に住み、蟾蜍になった。
(彼女は夫を愛していなかったのか……。それとも月で自由に過ごしたかったのか……)
皇太子は感傷的な気持ちになっていた。心が夜に沈む。心を照らしてくれる存在はもういないのだと思い知らされた。静樂はもう入内当時の人形のような女人ではない。意志を持った「母」に変わっている。
それが皇太子には理解できなかった。もどかしかった。
「殿下」
老太監が扉の外から声をかけてきた。静まり返った寝所に何かを感じたのだろう。
「侍婢を呼びますか?」
そして老太監が声を低くして告げる。
「この前のか……名は?」
「季児と阿宮でございます」
「季児と阿宮?」
老太監が拂塵を片手にいそいそと寝所に入ってきた。その顔には深い皺がいくつもあった。笑っているのか、そうでないのか、不気味な表情を浮かべている。だが、宮仕えの長い彼はよく心得ている。
「季児は染衣房の下働きでございます。目元が李選侍様に似ております。阿宮は尚儀局の下働きで……お気に召しませんか?」
「今は一人でいたい」
すると老太監は引き下がらなかった。
「さようですか。1人でお休みになるには肌寒いのでは?」
そう老太監が言うと、見計らっていたかのように1人の宮女が現れた。睫毛が長く、月のように清らかな宮女であった。思わず皇太子は頬を赤らめた。その様子を見て老太監は静かに寝所を後にした。
「支度をお手伝いいたします。宮女の綰児と申します」
綰児はそう短く告げると手際よく皇太子を寝巻きに着替えさせた。皇太子は綰児の少しあかぎれた手を見る。
「綰児はあの太監に賄賂でも渡したのか?」
「曹太監は私の義祖父でございます」
綰児は手をとめずに答えた。あの老太監は曹太監と呼ばれていることを皇太子は初めて知った。
「宦官が養子を迎えるのは珍しくないが……お前の父は宦官ではないのだろう?」
「わたくしめは捨て子でした。それを今の父が拾ったのです。父は暴室の太監でございます」
綰児はよどみなく話した。
「暴室の太監とは。妃嬪に恨まれているだろうな」
暴室には監視役の太監がいる。その太監は自分の機嫌次第で下級の妃嬪らや罪を犯した宮女らを折檻したり、待遇をわるくしたりとやりたい放題だった。
太監の中には彼女たちを虐げない者もいたが、前者ばかりであったせいか、恨まれ続けてしまっていた。
「綰児、宦官の養女なら貴族の令嬢のように過ごせただろう。なぜ、手があかぎれている?」
「わたくしめは浣衣局にいたのです」
浣衣局は洗濯を行う部署で、女官や宮女が罰として左遷される所でもあった。
「なぜ?」
「元は尚寝局におりましたが……修儀様から……突然……」
綰児の瞳に涙が浮かぶ。彼女は途切れ途切れに話した。
「実は……庾尚寝に潭国公夫人の婚礼の品に……麝香が含まれていたことを……」
皇太子は綰児の唇の前で差し指を立てた。綰児は涙を流しながら頷く。皇太子は声を潜めて綰児に質問をした。
「曹太監は知っているのか?」
「いいえ、知っているのはわたくしめだけです……どうしてもお伝えしようと、養祖父に頼んだのです」
「綰児、よく聞くんだ。潭国公は母上の実家だ。しかも潭国公の正妻はあの宛国公の令嬢……私の恩人。その方をお守りしないといけない……しかも、潭国公夫人は懐妊中だ。麝香は明らかに潭国公夫人を害することになる。分かるな?」
綰児は何度も頷く。
「いずれ、お前を修儀の部下が手を下すだろう。綰児、お前を私の愛妾の身分にして身辺を警護するから、お前は麝香の話は私と李選侍以外には一切するな」
「はい。ですが、太子妃様がお許しになりますか?」
「太子妃は静養中だ。私が宮女を好きにできない決まりはない」
すると皇太子は燭台に向かい、灯りを消した。それでも月光で部屋は明るかった。
「綰児、皆が下がったら、部屋に帰って私の帯留めをみせよ」
「殿下?」
「お前は身を捧げるつもりだったのだろう?」
「……」
綰児は俯くと、小さく首を縦に振った。
「そのようなことはない。だから、帯留めを見せるんだ。わかったか?」
「はい」
綰児は跪くと額を床に付けるほど頭を下げた。皇太子は彼女を保護することが母親である元妃にとって最善だと考えていた。
風の噂で潭国公夫人が懐妊してから体の調子が優れないことを聞いていたからである。もし、それに陰謀があったら朝廷と後宮を巻き込む大事件だ。皇太子は宛国公には借りがある。大事件から彼の娘である、瑛を守ることが借りを返すことになると皇太子は思ったのだ。
夜更けになった。先程まで顔を出していた月に雲がかかり、朧月になると篝火の明るさが目立つようになっていた。皇太子が寝台で身を休めていると、微かな衣擦れがした。背を向けて横になっていた綰児が起き上がっていた。
「帯留めを忘れるな」
「……お休みではなかったのですか?」
「お前が起こした。さあ、戻るんだ」
「はい」
綰児は帯留めを手に取ると、足早に寝所を後にした。皇太子はようやく仰向けになる事ができた。息を大きく吐き出した。どこか心が落ちつかなかった。綰児から麝香の言葉が出たときには背筋に何か走るものがあった。
董修儀は毒だろうが刃だろうが、あらゆる手段を用いることが可能だった。可能にできるほどの財力があったからだ。しかも、皇帝の寵妃であり虎視眈々と皇后の座を狙っている。
「あの女狐が立后されたら……潭国公夫人が子を失うことがあったら……」
負の感情が皇太子の心を支配する。そして、体が思っていたより睡眠を欲しているのに驚いた。心がざわついているのに体は眠りたがっている。この不均等な感覚に皇太子は朝まで振り回されることになった。うつらうちらしていた時には太子宮で綰児が皇太子から寵愛を賜ったと噂されていた。