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菊の花が咲き始める頃(4)

 太子妃の様子が不憫だと感じた皇帝は彼女に優しく立ち上がるように促した。

 だが、皇太子が彼女を睨みつけるている。皇帝はそんな息子を見て、太子妃がいかなる背景をもって彼に入内しているのか問いたくなった。今の皇太子には静樂のことで頭がいっぱいのようだった。

 皇帝は彼が実に「愚か」だと思ってしまう。確かに、自分も元妃に惹かれていた時もあった。しかし、周りを宥めるために彼女を蔑ろ(ないがし)にして他の妃嬪の元に通ったり、入内させたりした。

 妃嬪を愛せど、女人として愛しているのか、そう問われたら、自分は明確に答えは出せないと皇帝は思うのだった。

「元熺、なぜ太子妃を責めたてる?」

「太子妃は金城伯の姪です。私は母上を疎む金城伯らが嫌いです。太子妃も今は大人しいだろうが、李選侍を虐げていたことがあります。虐げていた李選侍が懐妊したら何をするか……そればかりではなく、瑤台宮など」

 皇太子は太子妃をさらに強い目つきで睨んだ。いくら勝ち気の太子妃でも、その突き刺さるような目つきには怯んでしまう。そればかりか、目眩を覚えてしまう。

 太子妃は皇太子とは感情の見えない関係とは分かっていたし、早く皇孫を産むことだけを目的にしていた。冷たく、音のない夜を互いに過ごしていた。

 体には愛情など残らなかった。虚しい感情しか残らなかった。だが、わずかに太子妃は彼に愛されたいと願うようにもなっていた。しかし、皇太子にそれを望むのは千年経っても叶わないことだった。

「殿下、わたくしが無知でした。お許しください。李選侍のことは殿下にお任せします」

「最初からそう言えば良いものを……」

 皇帝はますます太子妃が不憫になった。このように冷遇されては太子妃が侮辱されているようにも感じた。それだけ、皇太子の微州出身の貴族たちへの反感が強いのだ。皇帝は自分や先代が撒いた種が今、芽吹いてしまったと内心で悔やむしかなかった。その犠牲が太子妃なのだと思うとやるせなかった、

 だが、北趙出身の元妃は太子妃をちっとも不憫には想っていないだろう。太子妃がこうなる前は元妃が犠牲者だったからだ。その代わり、元妃は静樂に施しや穏やかな眼差しを向けている。自分がされなかったことを彼女にはしていた。

「陛下、殿下、申し訳ございません。先程から気分が優れません。選侍の元にはおふたりで…」

 そこまで言うと太子妃の視界が真っ暗になった。彼女の記憶はそこで途切れてしまった。宮女の帰燕は慌てて太監を呼んで彼女を寝殿に運ばせた。皇太子は呆然と立ち尽くしていた。


「太子妃はどうだ?」

 皇帝の言葉に侍医が小さく答えた。

「血の巡りが悪いようです。いささか滑脈(かつみゃく)らしいものも感じますが……太子妃様はお体が冷たくなりやすく、恐らく……」

 滑脈とは妊娠したときに現れる脈のことである。皇帝は手を挙げて侍医の言葉を遮った。侍医が言おうとしたことが分かったからである。この言葉は太子妃にも皇孫にも関わることだろう。そこに林司薬が温経湯(おんけいとう)を運んできた。林司薬はそれを帰燕に渡すと侍医の後ろにさがり、目を覚まさない太子妃の顔色を眺めた。

(入内した時よりやつれていらっしゃるわ……他の選侍様たちがふくよかに見えるわ)

 傍に立っていた皇太子は目を伏せて彼女を見ようともしなかった。林司薬は太子妃が痩せた理由が何となくだが分かったような気がした。

「陛下!」

 慌てた様子で元妃と懐妊中の静樂が太子妃の見舞いに訪れた。皇太子は静樂に視線を送るも、静樂は気づかないふりをして皇帝の前に歩み寄った。

「太子妃様のお見舞いにあがりました」

「選侍、よく来てくれた。驚いただろう」

 皇帝の自分を労る言葉に静樂は首を横に振って答えた。

「太子妃様は正妻です。正妻の身を案じるのは妾として当然の務めです。特別なことではございません」

 静樂の言葉は皇太子に釘を刺すようなものだった。静樂は皇太子が自分を「特別」と賞賛するはずだと予想していたからだ。ここで「特別」と言われたら、太子妃がますます嫉妬をして、肩身の狭い思いをするのが分かったからである。

 静樂は太子妃が皇太子へ愛情を求めていることに薄々と気づいていた。静樂は虐げられた一件から皇太子に近づかないように気をつけていた。一歩引いたところから2人の関係を見つめると今まで気づかなかったことに目がいくようになっていた。それ故に静樂は渦中にいることに嫌悪感を抱いた。

「陛下、太子妃は大丈夫ですか?」

 次に元妃が皇帝に話しかけた。元妃は太子妃の顔を覗き込む。静樂も元妃と同じようにした。

「元妃、しばらく太子妃を静養させよう」

「太子宮から移すのですか?」

「大長公主…先帝の大主の使われていない屋敷がある。そこで休ませよう。きっと太子宮より、心穏やかに過ごせるだろう」

「わかりました……」

 元妃は何か言いたげだったが、何も言わずに手巾で口元をおさえた。静樂は何も言わずに元妃の傍で立っていた。どこか落ち着かなかった皇帝は立っていた皇太子、元妃、静樂の3人を座らせた。

 静樂はどこまでも影でいるために言葉を発せず、身動ぎもせず、視線を落としていた。

(太子妃様は本当に不憫な方……そうしたのは私のせい。殿下の気持ちは嬉しいけれど……そのお気持ちは太子妃様に与えなくてはならない。私は所詮、影なのよ)

「陛下、屋敷を整えるように命じます。それと帰燕の他に宮女と太監を仕えさせて……」

「治療には林司薬を当たらせる」

「父上!お待ちください!」

 皇太子が口を挟んできた。何故なら林司薬が静樂の世話をしていたからである。皇太子は林司薬は丁寧で人に寄り添うことができると太監らから聞いていたのだ。半信半疑だったが、林司薬は太監らが言った通りの女官だった。

「なんだ?司薬なら他にもいるだろう。林司薬は李選侍の専属ではない」

「ですが……」

「大局を見極めるんだ」

 すかさず静樂がか細い声で告げた。

「わたくしは誰でも構いません。優先されるのは太子妃様のお身体です」

「静樂……父上の言葉に従います」

「うむ。では、李選侍の世話は別な司薬に任せて林司薬が太子妃の世話にあたるように」

 侍医の後ろで控えていた林司薬が一歩前に出て返事をした。静樂は不安であったが、それは杞憂だろうと自分自身に言い聞かせた。

 こうして太子妃は先代の大長公主の屋敷に移されることになった。太子宮の家政は静樂以外の側室に任されることになった。静樂が懐妊中であったことと彼女自身が辞退したからだ。

 皇太子には静樂以外に2人の選侍がいた。2人とも名家の令嬢で慎み深く、物静かな性格だった。しかし、皇太子が2人のもとを訪れることはまれで静樂を敵視しているふしがあった。

 満月の夜。月の光が差し込む寝殿に皇太子は静樂を呼んで琴を弾かせていた。重く低い音が響いたと思えば、次に明るく軽い音が響く。音が重なり、共鳴し、そして沈黙が訪れる。静樂はゆっくりと間を取るように一つ一つの弦を弾いた。

「殿下、まるで李白(りはく)静夜思(せいやし)のようたですね」

「静夜思?」

「床をご覧下さい。月の光が霜のようですわ。牀前、月光を看る……」

「疑うらくば……地上の霜かと……」

 静樂はまた琴を弾き始めた。その姿に皇太子は愛しさが込み上げてきた。

「選侍…いや、静樂、私はそなたのそのような所が好きなのだ」

「そのお気持ちを他の方にもお与えください。静樂からのお願いです」

 静樂は琴を弾くのをやめて、真っ直ぐ皇太子を見つめて言った。

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