菊の花が咲き始める頃(3)
皇帝と皇太子は2列になった太監と宮女、そして侍衛たちと太子宮に向かった。長い回廊に朱塗りの壁、頭を下げて皇帝たちが通り過ぎるのを待つ宮女たちに侍衛の足音。今日の皇宮はやたら静かであった。
それは穏やかさというより不気味さすらはらんでいた。しかし、権力者である皇帝はその不気味さが不吉な予兆とは感じなかった。
太子宮には南側に静樂の住む、綺羅殿、東側には太子妃の住む、承嘉殿がある。その他の、北と西には静樂と同日に入内した選侍たちが住んでいる。
承嘉殿の主である太子妃は姓を韓氏と言った。言わずと知れた金城伯の姪であり、韓家は高官を排出する名門であった。韓氏が太子妃になると、父親は武陽縣侯、母親は外命婦正三品の淑人位を賜った。
太子妃は皇帝からの恩恵を大いに享受していたが、義母に当たる元妃を軽視していた。なぜなら、義母は側室であり自分は正室だからだ。勝気で気ぐらいの高い彼女は側室の義母に頭を下げたくなかった。それでなくても金城伯一族は元妃や皇太子を毛嫌いしている。
そこで太子妃はいち早く皇太孫を産み、その子を皇帝にすることを願っていた。そうすれば北趙の血ではなく、微州の血統が皇帝に受け継がれる。
だから、静樂の懐妊で太子妃の計画は狂い始めていたのである。大いに荒れた心を慰めるべく太子妃の侍女である帰燕が付き合いのある女道士、莫云を承嘉殿に招き入れたのだった。
承嘉殿で肩を宮女に揉ませていた太子妃の元に帰燕が大きな瞳を輝かせながら現れた。
「太子妃様、陛下が太子宮に遊びにきているそうです。殿下もご一緒です」
「陛下が?急に何かしら?」
「殿下の元に向かわれてはいかがでしょうか。夫婦の仲睦まじい姿を陛下は見たいと願っているのでは?」
「よく言うわね!殿下はどちらかしら?」
太子妃は明るく機嫌の良い口ぶりで帰燕に言った。
「ちょうど、中庭に立ち寄られているそうです」
帰燕の声は終始、明るく弾んでいる。最近の皇太子は太子妃に冷たく、静樂ばかりを愛していた。皇帝が訪れたことで太子妃は皇太子との関係が修復できるのではないかと希望を抱いていた。太子妃は肩を揉んでいた宮女を下げると帰燕と共に中庭へと向かった。
義髻をふんだんに使った高髻に風になびく歩揺と螺鈿の簪は彼女の身分の高さを表すようだった。瑠璃色の着物に合わせた水色の領布は彼女の美意識を垣間見ることができる。着物の色の補色となる色の領布を纏っても良いが、あえて同系色でまとめるのが彼女の色彩感覚だったた。同じ青色でも無数の種類がある。それで遊んでみたいという気持ちも彼女にはあった。
中庭に足早に向かうとそこには皇帝と皇太子が談笑している姿があった。太子妃はそこに入るのを躊躇ったが、意を決して2人に挨拶をすることにした。
「陛下、殿下、ごきげんよう」
すると皇帝が穏やかに彼女へ声をかけた。
「太子妃、朕とそなたは家族だ。そうかしこまらなくてもいいんだぞ」
すかさず皇太子が冷たく言った。
「父上に気を遣わせるなと言っているだろう」
「殿下、申し訳ございません」
その様子に皇帝は2人がどのような関係かすぐに察した。皇帝は彼女が金城伯の姪ということで疎まれているというより、彼女の性格に問題があるのだと思った。それは皇太子にも同じことが言えるっと思った。
「太子よ、そう冷たいことを言うな。太子妃はお前の妻だろう?」
「そうですが……」
太子妃は必死に作り笑いをする。そして皇帝の言葉を皇太子が肯定することを願った。
「確かに太子妃は妻です……ですが、金城伯の姪でもあります」
彼女の願いは泡のように消えた。毛嫌いしている割には彼女は皇太子の愛情を求めていた。それが原因で静樂への嫉妬になってしまうことにも気づいていた。それは太子妃には手に負えない感情であった。
「殿下、叔父様のことは……わたくしはもう金城伯とは無縁の世界にいるのですよ?そのような身分になったのですよ?陛下が外戚を嫌うようにわたくしの、そう、韓家は政治とは無関係ですわ」
「どうだか」
皇帝は2人のやり取りにうんざりするしかなかった。2人の話を聞いて北趙と微州の争いは根深いのだと実感する。それだけ北趙出身の元妃やその血を引き継ぐ皇太子に向けられた負の感情は強いのだ。元妃を副后にした時の反発も強くて激しかった。皇太子を立太子しようとした時も皇弟の敦親王を担ぎ出すほど彼らは北趙に憎悪を持っている。そのような中で宛国公の一族は北趙には憎悪を持っていなかった。むしろ、調和するように北趙の臣下や貴族と接していた。
「太子、太子妃、夫婦喧嘩は犬も食わないというぞ
。見苦しい」
皇帝の一言で2人は口をつぐんだ。皇太子は冷淡な表情、太子妃は狼狽えた表情を浮かべている。それを見た皇帝はため息をついた。
「2人がそのような態度を見ているのは心が痛む。朕は出直すとしよう」
「父上、懐妊した李選侍を一緒に見舞うのでは?」
「わたくしもお供いたします」
2人は皇帝の期限を損ねたことに気づき、必死に彼を引き留めようとしてきた。
「分かった。綺羅殿に向かおう」
皇帝と皇太子、そして太子妃は南側の綺羅殿へと向かった。彼らの背後に控える太監、宮女、そして侍衛たちがぞろぞろと動き出した。太子妃は親子間で流れる独特な空気にどうして良いのか分からなかった。重く苦しい空気がのしかかる。
(来るんじゃなかったわ!)
そう内心で吐き捨てた。太子妃はこの場から早く立ち去りたい気持ちになっていた。それは皇太子も同じだった。結局、夫婦でも親子でも元をたどれば他人であるから分かり合えることなど少ない。長年の付き合いや信頼で関係は成り立っている。その皇帝と皇太子の君主と臣下、親と子、特異な関係の間に入ってくることは皇太子の機嫌を損ねることであった。
「父上、李選侍を心休まる場所で過ごさせたいと考えております」
「太子宮の殿閣は限られている。もしかして、どこかめぼしいところを見つけたな?」
ようやく皇太子が笑顔を浮かべた。
「上林苑か南苑にしようかと……」
「陛下、殿下、上林苑は何かと出入りがあるので南苑にしてみたらどうでしょう?そうでなければ……」
皇太子が太子妃を冷たい眼差しで見つめた。彼女はそれを跳ね除けるようにはきはきと言った。
「上林苑は妃嬪たちの往来が激しく、それに先帝の妃嬪たちが住んでいます。南苑はそのようなことがあまりないので静かさを求めるなら、そちらが良いでしょう。ただ、南苑は辺鄙な場所です。なら、使われていない瑤台宮はどうです?」
皇帝が小さく頷いた。だが、顔色が悪い。その瑤台宮は太子宮からも後宮からも近く、そして南苑より開けた場所にあった。南苑は静かだが、南側の最奥にあり宮女たちの往来も少なく、太子妃が言った通り辺鄙な場所だった。
瑤台宮には妃嬪も住んでいたこともあるが、今は使われていなかった。それには理由があった。その理由故にに異を唱えたのは紛れもなく皇太子だった。
「瑤台宮だと?太史監がいうには不吉な場所だろう?さそのような場所に李選侍は住まわせられない!」
「太子、いや、元熺、落ち着け。もう昔の話だろう」
皇帝は思わず皇太子の諱を口にした。
「宜明帝の妃嬪が幽閉されていた所です。落ち着けという方が難しいです」
宜明帝は二代皇帝である。彼には数多の妃嬪がいたが、特に寵愛を受けた妃嬪がいた。その妃嬪は子沢山であり、その中の皇子が飛び抜けて優秀だった。そのせいで皇太子や他の妃嬪から妬まれて、宜明帝が崩御した後に瑤台宮へと幽閉されたのである。
「申し訳ございません。まだ、入内して皇宮のことに疎く……」
太子妃はその場に跪いた。帰燕もそれに従うように跪いた。宮女や太監たちはひそひそと話し始めた。