菊の花が咲き始める頃(2)
瑛が眠りに落ちた頃、董蓉の元に陳姨娘が遊びに来ていた。陳姨娘はぶすくれている。董蓉は彼女が瑛の懐妊に焦燥感を抱いているのが手に取るように分かった。
「顔に出さない方がいいわよ」
董蓉が注意すると、陳姨娘は肩を落として彼女の言葉に答えた。
「奥様が懐妊するなんて思ってもみなかったので」
「奥様には天が味方なさっているのだわ。懐妊は天のご加護よ……そう思った方がすっきりする」
陳姨娘は董蓉の言葉に納得していないようだった。董蓉は落ち着いた表情をしているが、瞳の奥には憎悪が見え隠れしている。
(懐妊しても必ず産まれるわけじゃない)
彼女は董修儀に頼んだ婚礼の品を思い返す。瑛でも細工をした香袋には気づかないと姉が言っていたのも思い返した。薫衣草は香袋の中に詰めてあるが、それは見せかけの物で、本当は鴛鴦の置物に麝香が含まれているのは誰も気づかないだろう。香袋の薫衣草はあくまでも気を引くためのものだった。
「如真、雁門郡公は朝議で陛下から相手にされている?あなたの弟のことは?」
董蓉は陳姨娘に顔を向けずに尋ねた。
「はい。弟が北方の爾朱碩との戦いについて上奏されているようです」
一方の陳姨娘は董蓉を見つめていた。視線に気づいても董蓉は真っ直ぐ前を向いたままだった。
「爾朱碩?まだ、交戦していたの?」
爾朱碩とは北方の王族で北趙の血を引いていた。そして大衡国の最大の敵であった。爾朱碩は魏王を称して周辺の豪族を従えている。雁門郡公の孫で陳姨娘の弟である、陳浩然が前線で戦っていたのだ。浩然は武官であり、将来を嘱望されていた。
「中々、爾朱碩の根城が陥落できないようで……」
「早く落としてもらわなきゃね。浩然が武功を上げれば雁門郡公は鼻が高いし、従う貴族も増えるわ」
「つまり、修儀様に付き従う貴族も増えるということでしょうか?」
「そうよ。雁門郡公に付けば甘い汁が吸えると思わせるの。銀子は惜しまないわ」
董蓉は茶で唇を潤した。雁門郡公は人に取り入るのが巧みだった。銀子と名誉をちらつかせてじわりじわりと懐柔していく。その銀子は董蓉の父である董謙が融資したものである。つまり、雁門郡公に付き従うということは董謙、董修儀に付き従うことだ。
「董姐様、そんなに上手くいくとは思えません。そういえば兵糧が不足しているそうですよ。これでは陥落どころか、こちらが撤退することに」
「それを利用するのよ。兵糧くらい何とかしましょう」
「直ぐに連絡いたします」
弾んだ声で陳姨娘が言うと董蓉はまた茶を飲んだ。終始、董蓉は落ち着いている。方や陳姨娘は表情や口調が山の天気のようにころころと変わっていく。
愚鈍で浅はかで、それでも愛嬌があると潭国公は言っていたが董蓉はそう思っていなかった。良いように利用しようと考えていた。自分の手を汚さずとも陳姨娘や雁門郡公が全て手を下してくれる。それは董蓉にとっては都合がよかった。
「連絡するなら早い方がいいわ。雁門郡公にすぐ動いてもらわないとね。あなたに全てかかっているの。わかる?」
「わかりました。失礼します」
陳姨娘は丸椅子から立ち上がると礼をして臨香軒を後にした。陳姨娘と入れ違いに采玉と采容が部屋に入ってきた。董蓉は2人を見つめて首を傾げた。
「あら、2人そろってどうしたの?」
采玉が董蓉に耳打ちをする。その様子を采容を心配そうに見つめる。どうも2人は何かを掴んだようで、それを董蓉以外に漏らさないとしていた。
「なんですって」
采玉は人差し指を唇の前に立てて静かにするように促した。董蓉の心が乱れ始める。瑛が懐妊した時とはまた違う心の乱れ方だ。静かに采玉か董蓉に告げる。
「司薬様が奥様に?」
「采容が偶然、見ていたのです」
すると董蓉は采容を手招いた。采容は無言で頷く。
(まさか香袋が見つかった?!)
「采容、本当に司薬様だった?」
「はい……服装からして後宮に仕える女官です……」
3人は声をますます潜める。董蓉は考えをあらゆる方向に張り巡らせる。司薬は1人ではないし、それに司薬は尚食局の女官であるから、上司にあたる玉尚食を当たれば何か分かるかもしれない。
玉尚食は董蓉が提案した彼女を招く話の当事者であった。玉尚食を招く話はうやむやになっており、董蓉はこの話を蒸し返そうと思いついた。
しかし、この話を潭国公に直接してものらりくらりとかわされるはずだ。なぜなら瑛から釘を刺されていることは容易に想像できる。
「采玉、采容、すぐにお姉様に使いを出して」
「かしこまりました」
「信件を書くわ。お姉様に力を借りましょう。2人とも一旦、席を外して」
采玉と采容は横に並んで頭を下げると臨香軒から足音も立てずに出て行った。董蓉は董修儀に身内だけの宴を催してもらおうと思いついたのである。
ただ、宴を催すだけでなく何か趣向を凝らそうと父親の董謙にも信件を書いた。
「宴のあとにはお姉様もご寵愛を受けるはずだわ……きっと、元妃様も霞むほどよ」
董蓉は不気味な笑みを浮かべながら筆を走らせた。姉の修儀、父親の董謙、そして雁門郡公と蘭斉。
「蘭斉なら汚い手を考える。それがあの男の長所でもあるし、短所だわ。奥様は選侍が心配なはずだから、蘭斉まで考えが及んでない……ただ、宛国公の動きが分からない」
董蓉は筆を置くと頬杖をついて目をつぶった。
後宮では皇帝が皇太子と荷香亭でくつろいでいた。太監や宮女たちが少し遠くで2人の仲睦まじい姿に微笑ましい気持ちになっていた。
「太子、李選侍の調子はどうだ?」
「おかげさまで順調のようです。父上も同じことをおじい様に尋ねられたのでは?」
「そうだな。朕が皇太子の時も同じだったな。初めての皇孫だ。何かあったら朕や母上に言うが良い」
皇帝は日々たくましい顔つきになっていく皇太子に自ずと期待をかけてしまう。それが時折、感情を皇太子に押し付けていないかと考えていた。だが、皇太子には気骨がある。皇太子は皇帝が思っている以上に器量が大きいのかもしれない。
「太子妃はどうしている……金城伯が毎日のように尋ねてくるのだよ。何か変わったことはあったかい?」
「あの勝気な太子妃です。李選侍に対抗しようと女道士から子宝の丸薬を処方されたとか。やめさせようにも聞く耳をもたないので頭を抱えています」
皇太子は笑った。皇帝は太子妃の話を太監の房公公から聞いていたが、ここまで息子を煩わせているのだと思うと彼女の行動は看過できないと思った。しかし、太子妃の気持ちも分からなくはない。寵妃の董修儀も同じようなことをした事があったからだ。
董修儀は咲き誇る玫瑰のように美しいが、子どもがいないことに負い目を感じていたのである。そのことから太子妃を彼女に重ねてしまうのであった。
「後宮で子のいない妃嬪の末路は侘しいものだ。しかも、太子妃は正室であるから、何とかしても皇孫を産みたいのだろうね。だが、あまり女道士を皇宮に招くのは……」
皇帝は口を濁す。皇太子は何も言わなかった。和やかだった2人の空気が不穏なものに変化しいった。それを感じとった房公公が2人に声をかけた。それはどちらに対してというものではなかった。
「さあ、風が冷たくなってまいりました。お風邪を召しますよ」
それに反応したのは皇太子だった。房公公に笑みを含んだ眼差しを向けた。それに房公公も気づいた小さく会釈した。
「父上、太子宮でお話の続きをしませんか?」
「李選侍も見舞いたいから、太子宮に行こう」
2人は同時に立ち上がると、房公公が手にしていた拂塵を揺らした。拂塵とはハエ払いのことで、持ち手の先に房がついている。太監でも限られた太監しか持っていなかった。
「太子宮へ!」
よく通る声が荷香亭に響く。そして太監と宮女が2列になって彼らが歩き始めるのを恭しく待っていた。