表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/48

菊の花が咲き始める頃(1)

 それから2ヶ月。

 潭国公は皇帝からの宴に招かれることになった。

 それに瑛も参加しなくてはならなかったが、身体が思うようにはいかなくなった。懐妊したのである。

 それからというもの実家である宛国公府とは信件(てがみ)でやり取りして朝廷や後宮の内情には春蘭と冬梅が商人や宮女、太監から独自に仕入れた情報を精査した。たまに、宝海や伯父の石邑侯(せきゆうこう)らの息のかかった宮女が信件をくれた。信件のやり取りと引き換えに静樂へ差し入れをするのが暗黙の了解となっていた。

 瑛は懐妊して身体が弱ったのか、気分の優れない日が多くなっていった。信件に目を通すこともできずに瑛は臥せる日々を過ごしていた。そんな瑛を心配した秦姨娘は彼女の元に通って看病をしていた。今日も秦姨娘が看病に訪れていた。

「奥様、お加減いかがですか?」

「秦姨娘?来ていたの?」

 瑛が身体を起こそうとすると秦姨娘はそれを制した。

「横になってください。無理は禁物ですよ」

「ごめんなさいね……ここのところ目眩と頭痛がするの」

 そこに冬梅がやって来て秦姨娘に茶を出した。秦姨娘は冬梅が持ってきた茶に少し口をつけてから話し出した。

「目眩?今までそういうことはありましたか?月事の時には?」

「特には……産まれた時から大きな病気をしたことがないのよ。最後に診察したのは秦侍医よ。だから、この体調不良が不思議で仕方ないの。ねぇ、懐妊すると皆、こうなるの?」

 秦姨娘は少し考えてから、静かに答えた。

「人によりますわね……目眩を訴える方もいますし、気持ちに波が出る方もいます。悪阻も千差万別ですから。奥様、本当に思い当たりがないので?」

 瑛は考えるも思い当たる節は全くなかった。食べる物も夏荷(かか)が自分の目の前で毒味をするし、薬は全て秦姨娘が管理している。その状況で何かをするのは難しいし、何かあったら余計に目立つ。秦姨娘は深刻そうな口調で原因を突き止めると瑛に言い出した。すると瑛は動揺して間抜けな返事をした。

「姨娘、そんなに深刻なの?」

「嫡子が産まれるのですよ?何か仕組まれていたら?それを考えるだけでゾッとしますわ。それと、友好の証にわたくしめを玉儀(ぎょくぎ)とお呼びください」

「ありがとう、玉儀。そうよね、わたくしの身体には嫡子が宿っているのよね」

 瑛は横になりながら秦姨娘に不安を含んだ口調で言った。瑛の顔色は不安が強いのと体調不良で優れなかった。そこに秦姨娘の侍女である苓児が安胎薬(あんたいやく)を運んできた。安胎薬に使われる漢方は当帰芍薬散だ。婦人病によく効くとされていた。

「奥様、姨娘、こちらの安胎薬は後宮から下賜されたものです」

 苓児は手短に説明すると安胎薬を冬梅に手渡してから、急いで寝所から出ていった。この日は煎じる薬が多く、薬房は朝から忙しかった。

「玉儀……」

 秦姨娘は薬箱から銀の針を取り出だし、(さじ)ですくった安胎薬に浸した。変色はしていない。毒は銀に反応するため、この安胎薬には毒は入っていない。それでも念の為に秦姨娘が味を確かめた。

「特に変わった味はしませんね。しかし、この安胎薬は誰が……?」

「わたくしです。苓児の姉といえばわかりますか?」

 そう言って寝殿に颯爽と現れたのは苓児の姉である林司薬(りんしやく)であった。司薬は正六品を賜った女官の役職名である。

 彼女は官吏の着る缺袴袍(けっこほう)という袖が短くて動きやすい格好をしている。ゆったりとした袖は仕事に差し支えがあるのだろうと瑛は想像した。

「安胎薬は元妃様のご命令です」

 林司薬は明るい声で瑛に告げた。そしてもうひとつ告げる。

「実は太子宮の李選侍もご懐妊されました」

 それには思わず瑛は飛び起きた。しかし、目眩と頭痛がして直ぐに横たわった。ふと、林司薬は寝所を見渡した。それを訝しんで秦姨娘が彼女におもむろに尋ねた。

「司薬様、どうなさったのです?」

「いえ、なんでもございません。お気になさらずに」

「立たせたままで申し訳ございません。司薬様、お掛けになってください」

 瑛は寝台から半身を起して林司薬に弱々しい声で伝えた。林司薬は帳に目をやる。寝台の帳には目立つように銀糸で鴛鴦の刺繍が施されていた。

「潭国公夫人、帳の刺繍を見ても?」

「どうぞご覧になってください。」

 林司薬は帳を手に取ると刺繍に顔を近づけて目を凝らした。特に何も感じなかった。すると次に寝台に掛けてあった香袋に目をやった。そして手に取って香りを嗅いだ。どこか落ち着く香りがする。

(香袋……この独特の香り……気のせい?)

「奥様、眠れていないのですか?それより、この香袋はどこで?これは後宮にも同じようなものがあります。刺繍も妃嬪好みの華美なものです」

「さようです。眠れなくて香袋を掛けています。これは董修儀様から贈られて……まさか……気のせいよ……」

 瑛はそこで母親の宛国公夫人の言葉を思い出した。婚礼の品に細工がされているかもしれないと。しかし、香袋まで細工をするだろうか。瑛は林司薬の言葉を待った。瑛は気のせいだと願っていたが、林司薬の言葉はそうではなかった。

「潭国公夫人、この香袋から薫衣草(ラレベンダー)の香りがします。今すぐにやめてください」

 すると秦姨娘も香袋を嗅いだ。確かに薫衣草の香りがする。薫衣草は殺菌や精神安定の効果がある。薫衣草の効果を知っていた秦姨娘は林司薬の発言に疑問がわいた。

「司薬様、薫衣草はとても落ち着く香りです。心が休まるのでは?」

 すると林司薬は首を横に振ると冬梅に香袋を外すように言いつけた。冬梅は急いで香袋を外した。

「懐妊中には禁忌になることがあるのです。子宮が収縮することがあり……」

 林司薬は口ごもった。秦姨娘は彼女がその先の言葉を言えないのは、胎児に影響があるからだろう。

「董蓉と修儀様が仕組んだのね」

 瑛は静かに、しかし怒りを込めて呟いた。すると秦姨娘が落ち着いた口調で彼女に言った。

「司薬様、奥様、これは元妃様に堂々と告げるべきですわ」

 すると林司薬は不安そうな表情を浮かべた。

「董姨娘と修儀様の関与がはっきり分からないと不敬にされてしまいます」

「確かに不敬にされてしまうわ。玉儀は何か考えがあるのね?」

 瑛が尋ねると秦姨娘は答える。

「繍房にいた張姨娘なら刺繍の図案が後宮のものが分かるでしょう。それに後宮で使う刺繍糸の産地は限られています。それにこの刺繍は素人が見ても熟練の技ではないかと」

 瑛は動きの鈍い頭を働かせた。後宮の使う糸を献上しているのは祥州(しょうしゅう)翹州(ぎょうしゅう)だ。特別な蚕を使って繭から糸を紡ぐ。秦姨娘はこの香袋に使われている刺繍糸や図案を張姨娘に見せて判断を仰ごうと考えたのだ。繍房にいた張姨娘なら可能と考えた。そして刺繍には銀糸が使われている。いくら公爵家でも銀糸は滅多に使わない。多用するところと言えば「後宮」だろう。

(董蓉は懐妊することも考えて細工をしたの?)

「潭国公夫人、念のために脈を測りましょう」

「お願いいたします」

 瑛は白い手首を林司薬に差し出す。彼女の白い指が脈を探る。秦姨娘もその様子を真剣な眼差しで見つめる。しばらく脈を測っていた司薬の表情が険しいものから安堵したものに変わる。それを見た秦姨娘は胸を撫で下ろした。

「脈は安定しています。ご安心を」

 そう言われても瑛の心は落ち着かなかった。 また、同じようなことがあるのではないかと思ったからだ。しかし、董蓉を疑うことは董修儀も疑うことだ。

 この婚礼の品は董修儀が用意したものだが、董蓉の指示があったのは間違いない。だが、彼女が関与した証拠は後宮の闇に消えているだろう。

「司薬様、玉儀、香袋の件は誰にも話さないでください」

 瑛が2人に頼むと林司薬は頷いた。秦姨娘は何か言いたげだった。瑛は彼女が言いたいことが手を取るように分かったが、言わなかった。秦姨娘は香袋の件は董蓉の仕業だと言いたかったのである。瑛もそれを言いたかったが、董蓉を疑うことは董修儀も疑うことである。

 董蓉は後宮と繋がっているから、下手に動けば断罪される可能性もあった。そうなれば瑛は休妻(りこん)される。

「潭国公夫人がそう仰るなら他言はしません。長いしたら怪しまれますね。私はお(いとま)いたします」

「冬梅、司薬様をお見送りして」

「はい」

 林司薬と冬梅は寝所を後にした。瑛は再び目眩がして臥床した。

「補薬を煎じてまいります」

 秦姨娘が小さく言うと彼女も寝所を後にした。1人になった瑛はいかに子どもを守るか考えたが、疲労感が身体を支配し始めた。体調不良も相まって、いつの間にか瑛は眠りに落ちていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ