謀りの百合の花(6)
瑛は胡ばあやを安堵させるために「心配ないわ」っと小さく言うと再び前を向いて歩き出した。胡ばあやはそれでも不安なようだった。
それは瑛も同じだった。静樂のように穏やかで優しい性格の女人は後宮で生き残るのは難しい。闘争を知らない人形のような彼女を皇太子は愛している。愛せば愛すほど愛着がわいて人形と離れがたくなる。だが、太子妃は許さなかった。瑛は彼女に向けられた拒みようのない愛情をちっとも理解できなかった。夫である潭国公の愛情は常に董蓉に注がれている。瑛が愛情を求めても注がれるのは雀の涙のようなものだ。その涙のようなわずかな愛情を求めることが瑛には馬鹿らしがった。愛情を求めることは出来るが潭国公の「正妻」として生きるためには愛情を多くは求めず、必要ともしない。ただ、政略結婚で迎えられた「正妻」の人生を歩むだけだ。
瑛は今まで誰かに胸が高鳴ることも誰かと指を絡めて歩いたことも事ない。ただ、それに憧れながないわけではない。ちまたで歌われる恋のうたのように誰かを想っていれたら、っと思う時がある。心を温めて欲しい時もあった。だが、あの日、体に残った体温では心は温まらなかった。嫁いでからというもの常に心が冷えて、孤独が影を落としていた。そして瑛はそれに囚われていた。
胡ばあやを連れていく形で客間に向かうと春蘭がちょこんと椅子に座っていた。春蘭は彼女たちに気づくと急いで立ち上がり頭を垂れた。彼女は滅多に座らなかったから瑛には座っている彼女の姿が新鮮さを通り越しておかしく思えた。瑛は笑いを抑えながら言った。
「座ってる姿を久しぶりに見たわ。春蘭、帰るわよ」
「かしこまりました。奥様、笑わないでください」
瑛は次に胡ばあやに静かに、そして低い声で話しかけた。胡ばあやは真っ直ぐに瑛を見つめた。
「静樂のことで心を痛めているのは分かる。けれど、あなたが悲しんでも静樂の状況は変わらないわ」
「お嬢様、それはあまりにも冷たいお言葉です」
「いい?いつまでも静樂は幼いころの静樂とは違うわ。今は皇太子殿下の側室よ。確かに私の言葉は冷たく感じたと思うけれど、これが後宮なのよ」
「お嬢様、わたくしめには難しいことは分かりません。お嬢様は選侍様が今の状況を乗り越えられると思っているのでしょうか?」
瑛は微笑んだ。
「思っているわ。この際だから、金城伯とも太子妃を潰すわ」
瑛の言葉に胡ばあやは背筋に悪寒に似た何かを感じた。瑛は無邪気であり、朗らかであり、冷徹である。その複雑な心を抱くようになってしまった彼女に胡ばあやは何も言えなかった。
「見送りはここまでで。春蘭、行くわよ」
「はい。お気をつけて」
胡ばあやを残して瑛と春蘭は宛国公府を後にした。空はすっかり薄暮であり、少しだけ涼しい風が吹いていた。瑛は黙ったまま、春蘭と馬車に乗り込むと潭国公府へと向かった。春蘭は黙ったままの瑛に明るく話題を振るか、それとも話を尋ねるか迷った。微妙な空気が漂う。そんな時だ。瑛が口を開いた。
「春蘭、金城伯は元妃様の立后に反対している勢力だったわね」
「そのようです」
「なら、雁門郡公や蘭斉にも通じてるはず。金城伯が失脚しても大した傷は残らなそう」
「金城伯は陛下に反抗的だと聞きましたよ?それに元妃様の立后を一番、反対しているらしいですから目の上のコブでは?」
「詳しいのね」
「き、聞いた話です……!」
もともと春蘭と冬梅は西域出身の商人から引き取った娘たちであった。商人の耳にはあまたの情報が入ってくる。それが微州の話だったり、北趙の話だったり、そして貴族のあれこれだったりと話題は尽きない。
春蘭はその商人たちと特殊な情報網を持っていた。春蘭はその情報網を瑛には知られていないと思っていた。しかし、彼女はやたら情報を持っている春蘭に疑問を抱いていた。
「ねえ、春蘭。あなたと冬梅はやたら情報に詳しいけれど……どこから仕入れているの?」
「そ、そ、それは……」
春蘭の目が泳ぐ。瑛はそれを見逃していなかった。
(何かあるわね)
すかさず瑛は春蘭に銀子の入った小さな巾着を手渡した。春蘭はそれを慌てて断った。
「奥様、お給金は十分にいただいてますから!」
「情報を買いたいのよ。あなた、松州の紅が欲しいと言っていたでしょう?松州の紅は上級な物ですからね。それに冬梅にたくさん茶菓子でも買えるんじゃない?」
「はい……奥様は抜け目ないですね」
春蘭は渋々、それを受けとった。瑛は笑顔を見せると次に彼女は鋭い口調で春蘭に尋ねた。
「太子妃は修儀と絡んでる?」
「出入りをしている御用掛から宝石と反物を仕入れていますね。これらの品物を使って太子妃様は修儀様に色々と取り入っているみたいです」
「そうなのね。でも、修儀様は目もくれないわ」
瑛は太子妃を潰しても董修儀は痛くもないだろうと考えていた。董修儀を守ってる盾は何枚もある。もしくは盾ではなく、城塞なのかもしれない。その城塞を築いたのは董謙であり、雁門郡公であり、貴族たちである。ただ董修儀は貴族の娘ではなく商家出身だ。だから、立后するためには貴族たちの支持が必要であり、後宮での支持も必要だった。
「太子妃も血眼になっているのね。修儀にいくら銀子を使ってるのかしら。むしろ、修儀から銀子を貰えたらいいのにね」
「董一族は代々続く豪商ですもんね。銀子なら山のようにあるでしょうね」
「意外と貴族は貧乏だから……まあ、そこに目をつけた董謙は先見の明があったわね。毎日、贅沢している貴族は極わずかよ」
「あ、それで面白い噂が……」
春蘭は董修儀と董蓉の奶娘が雁門郡公の妹であると瑛に告げたのである。それで董謙が雁門郡公に多額の銀子が流れているとも春蘭は付け加えたが、それは瑛には初耳だった。だが、それで陳姨娘が董蓉についているのが分かった。彼女たちの繋がりは銀子であることも理解した。瑛は笑みを浮かべる。
「陳如真は董蓉に心から忠誠を誓っているわけではなさそうね。きっと銀子ね」
「銀子の繋がりなら簡単に離間できるのでは?」
「そうよ。如真の侍女は使える?」
「緑袖はいつも陳姨娘から叱責されることがあるそうです……甘い言葉をかけたら」
「そこは任せるわ」
「奥様、わたくしめは何でも屋ではないですよ?!」
「冬梅は慎重すぎるし、あなたにしか頼めないのよ」
「分かりました……」
春蘭は渋々と承諾した。それから2人は全く話さなくなった。瑛は馬車に揺られながら、どっと疲れを感じて壁に寄りかかって目をつぶった。いつの間にか馬車は揺りかごになっていた。瑛は微睡んでしまった。実家の宛国公府から潭国公府まで細々とした順路で帰るのである。
「奥様」
「もう着いたの?」
瑛は久しぶりに熟睡したように感じた。春蘭に声をかけなられば、ずっと寝ていたかもしれないと彼女は思った。思い返すと潭国公府で熟睡したのは何回あっただろう。眠れないことはないが、いつも明け方に荒唐無稽な夢を見た。誰かを殴ったり、誰かに殴られたり、楽器を吹いたり、見知らぬ人と話したり……
「夢なんて見たくないのに」
瑛は誰にも聞かれないように呟いた。
潭国公府の正門につくと使用人たちが一斉に頭を下げてきた。そして2人を出迎えるように冬梅が内院から出てきた。瑛は春蘭が手にしている巾着に視線を送った。春蘭は瑛が何を伝えているのか直ぐに分かった。
「行ってらっしゃい」
「ありがとうございます!」
春蘭は何も知らない冬梅の手を引いて出かけて行った。1人になった瑛は2人の背中をいつまでも懐かしい気持ちで見つめた。そしてこの懐かしさが心のどこに残っていたのか分からなかった。そして瑛は幼い頃に兄の背中を追いかけてどこまでも走った日々が脳裏で色づいていく。そして思ったのだ。董修儀と董蓉にもこのような日々があったのではないかと。しかし、闘争に染まった彼女たちがこの感情を心に残しているかは知る由もなかった。