謀りの百合の花(4)
後宮での舌戦を想像しながらも、瑛は帰りの馬車の中で静樂の待遇をいかに訴えるか思案し始めていた。
(吏部尚書は自分の娘が後宮にいることで下手に外戚と言われたくないはず。それに女の諍いには首を突っ込む人ではないわ。やはり、お父様かお母様ね)
瑛は助言をもらった方が良いと結論を出した。彼女は馬車を潭国公府ではなく実家の宛国公府に行き先を変更した。揺れる馬車の中で痩せた静樂の顔を思い出した。あまりにも惨めな姿だったと今更ながら思ってしまう。
「太子妃と対立することになったのは理解できるけど、太子妃が単独であのようなことするかしら……?」
瑛は小さく呟くと太子宮の側室たちの顔を思い出した。静樂と同日に太子宮には彼女以外に2人の側室が入内していた。その2人は元妃にも董修儀にも染まっていない。だが、いつか染まることがあるし、単に太子妃と結託して静樂を虐げているかもしれない。
馬車に同乗していた春蘭が考え込む瑛の顔を心配そうに覗き込んだ。春蘭は瑛が何を考えているのか予想は出来たが、口にすることは控えた。予想は必ずしも当たる訳ではない。余計なことを口にして瑛がますます考え込むのを春蘭は避けたかったのだ。
「春蘭」
「な、何でしょう?!」
急に名前を呼ばれた春蘭の声は裏返っていた。
「太子妃は金城伯の姪よね……?」
「そのようですね」
「金城伯は皇太子殿下を嫌っていると聞いていたけど……その理由が思い出せないわ」
「思い出さないでください。奥様、後宮のことに口を出すのは危険ですよ?選侍様のことは不憫ですけど」
「確かにそうだけれど。静樂は私を救ったように私も静樂に何か出来ないか考えたのよ。口を出さない方がいいのは分かってはいるけど、このままだったら静樂は心を病んでしまうわ」
瑛には深いため息をついた。その言葉を聞いても春蘭は納得していなかった。また、謹慎されるのではないかと思うと後宮のことに関わってもらいたくなかった。
「お気持ちは分かりましたが……」
「この件はお父様とお母様が出る幕だわ。特にお母様には吏部尚書への助言をいただかないとね」
吏部尚書は宛国公夫人の従兄弟だから助言をもらうのは的確な判断である。そして、この件には宛国公夫人が適任であるのは間違いないだろう。それに宛国公夫人は吏部尚書の性格も熟知していた。その吏部尚書は外戚になることを極度に怖がっていたし、臆病者であった。娘が後宮で罰を受けて一家が離散したり、逆に実家が罰を受けて命を奪われたり、命は助かっても暴室に入れられたりと、悩みや恐怖が彼の心を支配していた。暴室とは罰を受けた妃嬪たちが過ごす場所だ。一度、暴室に入ったら出れないと言われている。そのためが妃嬪たちは暴室を恐れていた。
確かに罰を受ける恐怖もあるが、皇帝や皇太子の妃嬪になることは一族の名誉である。しかし、その名誉の裏には政治が絡んでいることもあった。選妃された時点で娘たちは「政治」に使われる。無関係を装っていても無知であっても、誰かに使われたり、使ったりするのだ。ただ、無知な娘は使い勝手が良い。まっさらな紙に色を塗る事が容易いように、すぐに絆されて色を塗られてしまう。その塗られた色で人生や後宮での立場が決まることを彼女たちは後から知るのである。
「陛下や元妃様は静樂を見捨てることはしないはず。けれど最後に静樂のことを決めるのは皇太子殿下よ。吏部尚書には正直、皇太子殿下を動かす力はないわ。お母様には吏部尚書への対応を。それで皇太子殿下を動かすのはお父様の力が必要だわ」
「宛国公様が?」
「昔、お父様が皇太子殿下の立太子をいとも簡単に決めたことがあったらしいわ。それに反対したのが、微州出身の貴族たちよ」
春蘭は思い出したように呟いた。
「微州……確か金城伯は微州出身ですね」
「それだわ!」
春蘭は内心で余計なことを言ってしまったと後悔をした。
「春蘭、ありがとう」
「奥様、慎重になってください。それに選侍様のことを案じるように奥様もご自分のことを案じてください」
「わかったわ……」
そうこうしているうちに馬車が止まった。瑛は小窓から様子をうかがうと、ちょうど宛国公府の前であった。春蘭は瑛より先に降りて、次に降りる彼女に手を貸した。正門で門番をしていた使用人が彼女を見るなり、慌てて彼女に駆け寄ってきた。
「お嬢様、いや、潭国公夫人、どうなされましたか?まさか、休妻……」
瑛は軽く使用人の額を叩いた。
「遊びに来たのよ」
「びっくりさせないでくださいよ。心臓に悪いですよ」
「いいから、通してちょうだい」
瑛が言うと使用人は門を開けた。久しぶりの宛国公府のお屋敷は全く変わってなかった。瑛と春蘭のもとに宛国公夫人の胡ばあやがやって来た。
「お久しぶりでございます。何かご用でしょうか?」
「胡ばあや、久しぶりね。お父様とお母様に会いに来たの。2人とも書斎かしら?」
「はい。一緒に書斎で談笑しております」
(書斎、お互い何か相談事があるのね)
「取り次いで」
「かしこまりました」
胡ばあやは少し駆け足で書斎に向かった。宛国公と宛国公夫人が2人で書斎にいるときは何か相談事をしている時だ。その相談事には謀も含まれる。2人はお互いの知識や人脈を使って物事を解決してきたのだ。夫婦であり、戦友でもあり、策士同士でもある。この様子を幼い頃から間近で見てきた彼女には両親が理想の夫婦像であった。だが、潭国公とはそういう仲になるのは難しいと薄々と感じていた。
「春蘭、冬梅も連れてくれば良かったわ。あの子は胡ばあやが好きだから久しぶりに会わせたくなったわ」
「そうですね。代わりに冬梅が好きなお菓子でも買っていきませんか?」
「そうするわ」
2人が話していると胡ばあやが彼女たちのもとに戻ってきた。そして瑛を書斎に案内すると告げた。
「胡ばあや、春蘭はどうすれば?」
「春蘭は客間で休ませておくようにと言われました」
春蘭はちらりと瑛に視線を送った。瑛はそれに気づいて「従って」と唇を動かした。それを見て彼女は小さく頷いた。
「わかったわ。春蘭、私が戻るまでゆっくりしていてね」
「お気遣いに感謝します」
そこから瑛は胡ばあやに案内されて書斎に向かい、春蘭は客間に案内された。書斎はお屋敷の東側にある。周リには丁寧に手入れをされた松の盆栽が何個も置かれていた。昔は書斎に入ることは出来なかった。本が読みたければ、宛国公夫人が書斎から本を数冊持ってきてくれた。書斎に入れる年齢になっても瑛はそこに入るのを躊躇っていた。書斎が「聖域」のように感じらたからだ。この「聖域」には両親の秘密が隠れていそうで、それを見たり聞いたりするのが怖かったのだ。
「奥様、公爵様、潭国公夫人が参りました」
胡ばあや書斎の前で声をかけると、出てきたのは母親の宛国公夫人だった。そこで胡ばあやは役目を終えたのか、宛国公夫人に一礼すると元北道を引き返して行った。
「瑛、この前は大変だったわね。信件を読んで寿命が縮んだわ。さ、中に入って」
「はい」
瑛は生まれて初めて書斎に入った。机の上の文房具、大きな本棚、誰が書いたか分からない掛け軸……書斎の中はお屋敷の中でもっとも質素かもしれないと瑛は感じた。そして、書斎は豪勢な作りかと勝手に思っていたことに気づいた。
(お父様の趣向だわ。あの人、吝嗇家だし)
「お前が来るのは予想していたよ」
そう声をかけたのは娘の瑛に吝嗇家と呼ばれている父親の宛国公だった。宛国公は椅子に深々と腰を下ろしていた。瑛は宛国公の前に歩み寄ると彼に一礼をした。
「選侍様のことだろう?」
「お父様、どうして分かったのです?」
「直感だ。お前を書斎に招いたというけとはこれからは共犯者だ」
宛国公の言葉に瑛は目を丸くした。