謀りの百合の花(2)
静樂と湘児が元妃が住む飛翔殿の前に差し掛かった時だ。漪蘭殿の方向から金の歩揺と目を引く赤い天竺牡丹の造花を高髻に挿した董修儀が歩いてきた。高髻とは高く結い上げた髪型のことである。修儀の高髻には義髻と呼ばれる入れ毛をしており、量感がある華やかな髪型に仕上がっていた。
「李選侍様、ご機嫌麗しゅうございます」
修儀付きの宮女が彼女を見つけてわざとらしく挨拶をした。静樂は引き返すこともできず、挨拶を返す。
「修儀様、ご機嫌いかがでしょうか?」
修儀が静樂をつま先から髷の先まで見回すと嫌味ったらしく言った。
「相変わらず貧相なことね。その着物は宮女が着るような物ね」
「申し訳ございません。賜った生地がこのような物ばかりで」
「選侍は皇太子殿下の寵妃と専ら噂よ?粗末な着物で皇太子殿下の気を引いたのかしら?」
修儀は鈴を転がしたような声で笑った。静樂は俯いて涙を必死に堪えた。静樂はくすんだ桃色の刺繍も少ない着物を身にまとっていた。方や修儀は絢爛な刺繍を施された鮮やかな赤紫の着物を身につけている。その差は歴然であった。
「太子妃様もお可哀想だわ。こんなみすぼらしい女狐に寵愛を奪われたなんて。いづれ、選侍が男子を産んだら立場は変わるだろうけど……」
そこに修儀の宮女が入ってきた。
「修儀様、元妃様への挨拶が遅れますよ」
宮女の言葉で修儀は静樂の前から去っていった。静樂は生きている心地がしなかった。それと同時にわずかに残っていた自尊心を踏みにじられたような感覚を覚えた。だが、修儀に復讐しようなど考えられなかった。彼女に手出できる者は皇帝くらいだろう。いくら、元妃でも彼女は皇后ではない。元妃は正一品の「妃」であり、修儀は正二品の「嬪」の側室である。品階の差はあるが、同じ側室という立場は変わらないのだ。
「選侍様、お加減が悪いようでしたら……」
湘児が心配そうに俯いた静樂に声をかけた。静樂は袖で涙をぬぐうと顔を上げた。薄くはたいた白粉が落ちかかっている。静樂はそれに気づいてますます惨めな気持ちに駆られた。
「元妃様へのご挨拶をかかしたら皇太子殿下が親不孝になるわ」
「ですが、せめてお化粧を直しませんと……また修儀様に何か言われます」
「綺羅殿に戻ったら挨拶が遅くなるわ」
2人は途方に暮れるしかなかった。みすぼらしい格好で化粧も落ちかかっている顔で元妃に挨拶をするか、挨拶に遅れて叱責されるか。静樂はどちらも出来ずにいた。
「どうなされたの?」
澄んだ声が背後からした。静樂が振り向くと怪訝そうな顔の楊充媛が立っていた。立ちすくむ彼女に楊充媛は尋ねる。
「あなたは李選侍ね。まあ、泣いていたの?」
「ご心配なく。わたくしに構えば何を言われるか分かりません」
「私は楊充媛よ?元妃様と親しくしているの。安心して」
楊充媛は静樂に柔和な笑みを見せて、手にしていた手巾で彼女の涙を吹いた。静樂は久しぶりに瑛以外の優しい感情に触れたような気がした。再び静樂は涙をこぼした。
「さっき、修儀様の笑い声が聞こえたけど、このことだったのね。わたくしの寝殿が近くにあるから、着替えましょう」
楊充媛は静樂の手を引いて自身の寝殿である蕙草殿へと案内した。湘児や充媛付きの宮女たちはその後を追った。
(随分と細い指……手の肉付きもないわ)
楊充媛は内心でそう呟くと、太子宮で流れる噂が本当だと実感した。その噂とは太子妃が静樂に嫉妬して虐げているというものだ。充媛は自分も虐げられているからこそ、静樂を守らなくてはいけないと思った。これは同情ではなかった。静樂を守ることは自分を守ることだと感じたからだ。そして、これは闘争ではない。
静樂は蕙草殿の化粧室へと招かれた。化粧室には衣装箪笥と鏡台があり、歩揺や花鈿が並べられている。充媛は彼女を鏡台の前に座らせると、宮女たちに整容を命じた。静樂は宮女たちの手により清楚で可憐な「李選侍」の姿に生まれかわっていく。双髻に結い上げた髪には花鈿を挿し、その花鈿の真ん中には真珠が埋め込まれている。衣装は銀糸の刺繍が入った淡青色の着物に着替えた。眉は細く遠山眉に仕上げ、額には花子を描いた。
仕上がっていく様子を楊充媛はどこか楽しげに見ていた。元々、清らかな美しさをもつ静樂が手を加えたら、どこまで美しくなるのか興味がわいたからだ。宮女が整容を終えたと述べた時、充媛は鏡に映る静樂の顔を見て思わず声が出た。
「選侍、美しいわ。この装いなら修儀様も文句は言わないわ」
「充媛様は修儀様が怖くないのですか?」
「怖いわ。同じ正二品だけれどわたくしは末端よ?元妃様に守られて今の地位が保ててるくらい知っているわ。だけれど、今度はわたくしが誰かを守る番だと思うの。選侍を守ることは元妃様と皇太子殿下を守ることだわ」
静樂は充媛の方に顔を向ける。
「選侍、一緒に挨拶しに行きましょう」
「はい」
静樂は椅子から立ち上がると楊充媛に向かって深々と頭を下げた。
「頭をあげて」
「充媛様、このご恩は忘れません」
「大したことはしていないわ。頭をあげて。さ、挨拶に行きましょう」
充媛は静樂に頭をあげさせると手を取って化粧室を出た。化粧室を出て、蕙草殿でを出ると着飾った妃嬪たちが飛翔殿の方に歩いて行くのが目に飛び込んできた。
「選侍、あの方は正四品の美人、あの方は正三品の婕妤、色々な品階の女人がみんな皇帝陛下の側室よ。不思議だと思わない?こんなに美しい妃嬪がいるのに修儀様だけが偉そうに着飾っているのが」
静樂は充媛の言わんとすることが分からなかった。その様子を見て充媛は静樂の顔を見つめて優しく、諭すように語った。
「品階に差はあるけれど、わたくしたちは同じ妃嬪という側室ということ。修儀様だけが特別な存在ではないのよ。なら、その特別な存在を奪えるなら?わたくしに力があったら元妃様のために奪うわ」
「正直、充媛様がお気持ちが強い方だと思ってはいませんでした。自分のためではないのですね……いつ、そのようにお気持ちが強くなられたのです?」
「元妃様がわたくしの子どもの無念を晴らしてくれると言った時かもしれないわ」
「充媛様も人を恨むことが?」
「あるわ。でも、それに目を向けないようにしていたの。まだ、わたくしの視界に映るものは色彩があってないようなものよ。わたくしの人生に彩りは二度と戻らないかもしれないけれど、選侍は美しい色に見えるわ」
そう充媛は言い切ると彼女を連れて飛翔殿へ向かう妃嬪たちの中に入っていった。白粉の香り、華やかな造花に歩揺の擦れる音、彩雲のように流れる領布に裙。静樂にはどれも眩しく、幻想の世界の全て揃えたものに見えた。そして、これほどまで人々は色彩を集めることが出来るのだと感心もした。
「あなたが一番、清らかね」
充媛は一言だけ呟くと真っ直ぐ前を向いて歩いて行く妃嬪たちの間を縫って歩いた。静樂は充媛の一言ではにかんだ。それを見た湘児は静樂が入内した当初の姿を思い出した。はにかんだ表情は皇太子にしか見せなかったし、皇太子は静樂その表情を自分だけに向けて欲しいと思っていた。
飛翔殿の前までやって来ると元妃の沁児が妃嬪たちを数名ずつ正殿に案内していた。妃嬪たちの中に楊充媛の姿を見つけると、彼女は充媛を優先的に案内した。妃嬪たちは先に入室していた董修儀と顔を合わせないようにしたかったためか充媛が優先的に案内されても不満は出なかった。
飛翔殿の正殿には上座に元妃が座り、その一段下に椅子が両方に並べられていた。その椅子には品階が高い順に座る決まりになっている。仮に正一品の「妃」が座っていたら、次に従一品、正二品、従二品……という感じだ。
正殿には賢妃と董修儀、そして顔を合わせることの少ない妃嬪たちが座っていた。その中で充媛に会釈をした妃嬪がいた。劉貴人である。劉貴人は皇帝が最近、寵愛し始めた妃嬪であった。