謀りの百合の花(1)
瑛の浅葱色の裙が爽やかな風になびく。
双髻に結い上げた髪に流雲をかたどった簪を挿して、額には花子を描いた装いで彼女は皇宮の前に立っていた。
外命婦が参内するための門を案内されて、そこをくぐると朱色に塗られた殿閣が建ち並んでいた。これから向かうのは太子宮である。
瑛は皇太子の側室で再従姉妹である静樂に潭国公のしりぬぐいとして会いに来たのだ。太子宮は別名「東宮」、「春宮」と呼んだ。五行では、東は若さを表し、春を司る方角でもあった。
「青春」は春を示す色が青ということが由来と言われている。夏は「朱夏」、秋は「白秋」、冬は「玄冬」と言う。人生はこの4つの季節に分けられるとも言われていた。
瑛を案内する宮女は一言も彼女に言葉をかけなかった。別に話したい訳ではなかったから、それはそれで有難かった。お供として付いてきた春蘭はこの無言の時間に落ち着つかなかった。長い廻廊を歩いてるいると宮女の行列がすれ違って行った。宮女たちの表情はお面が張り付いたように変わらなかった。そして太監たち、侍衛とすれ違う。身なりが良い宮女は女官だろう。
「潭国公夫人、あちらが太子宮です」
太子宮が見えてきて、ようやく宮女が口を開いた。
「ありがとう。李選侍様はどちらに?」
「南側の綺羅殿でございます。わたくしめはここで失礼いたします。選侍様付きの宮女に交代いたします」
宮女は頭を下げると何事もなかったように、すたすたと歩いてきた廻廊に戻って行った。
「お待ちしておりました」
落ち着いた声音で彼女に声をかけてきた宮女は笑みを浮かべている。先程の行列の宮女たちより、瑛はこの宮女に人間味を感じた。
「潭国公夫人、春蘭姑娘、どうぞ」
宮女を先頭に太子宮の南側にある綺羅殿へと足を進める。
「選侍様は潭国公夫人が参内されると聞いて喜んでおりました」
先頭の宮女は瑛に少しだけ声をかけた。
「そうでしたか。選侍様にお変わりは?」
宮女が口ごもった。その時だ。正面から着飾った女人の姿が見えてきた。
「太子妃様です」
宮女は手短に言った。瑛は宮女が口ごもった訳が分かったような気がした。運良く太子妃たちは曲がって他の殿閣へと消えていった。
「静樂は美しい娘だから嫉妬はされるわ」
瑛はこっそりと春蘭の耳元で囁いた。
「潭国公夫人、参りましょう」
それから宮女は綺羅殿まで一言も話さなくなった。静樂の身に何か深刻なことが起きていると瑛は確信する。綺羅殿の門をくぐると名前のような華やかさはなく、どこか詫びしい。
正殿に案内されると、やつれた静樂が身動ぎもせず椅子に座っていた。やつれていても彼女は美しかった。だが、瞳は曇り、感情の機微が感じられなかった。
「選侍様、潭国公夫人でございます」
宮女が静樂に取り次ぐと、弱々しい声で目通りを許可された。
「静樂!」
瑛は彼女に駆け寄った。
「瑛お姐様……」
「こんなにやつれて……どうしたの?」
「……」
「何があったの?」
「……」
「静樂、答えてちょうだい」
すると静樂は目に涙をためながら、途切れ途切れに話し出した。何でも皇太子は理由をつけては綺羅殿を訪れていた。それが太子妃には面白くなく、激しい嫉妬を静樂に向けた。食事がかびていたり、季節の衣服も宮女の着るような物ばかりだったり、しまいには何もしていないのに罰を受けて跪かせたことが何度もあったそうだ。瑛はあまりの仕打ちに絶句する。
「元妃様や皇太子殿下には話したの?」
「お手を煩わせたくなくて。それに皇太子殿下がわたくしに関われば関わる程、わたくしが虐げられるのです。太子妃様は金城伯の姪ですから、自ずと対立する構図になります」
金城伯は尚書令、蘭斉、雁門郡公らと元妃の立后に反対している。金城伯は姪が太子妃に選ばれたのは予想外だった。あの北趙の血を引く元妃の婚族になるのが忌々しく感じていたからだ。金城伯はそもそも、大衡国の地盤となった微州の先住民族だった。大衡国の太祖も微州の先住民族で、金城伯の家系から枝分かれした一族だ。太祖は微州の血を守ったように、金城伯は微州の血を守りたかった。だが、今の皇帝が北趙出身の元妃を迎えた時の落胆ぶりは言うまでもない。
その元妃が皇子を産むと、その皇子をそそくさに王に冊封して元妃から引き離したのだ。
一度、皇宮から出た皇子が帰ってくることは立太子されなければ難しい。金城伯は皇帝の異母弟の敦親王を皇位を継ぐ弟として皇太弟にすることを望んだ。だが、敦親王は亡くなった。皇帝が先に手を回したのである。
こうして、舒王に冊封されていた元妃の皇子が立太子されることになり、再び皇宮に戻ってきたのだ。しかし、反対は激しかった。皇帝はそれを抑えるために金城伯の姪に目をつけて太子妃にしたのである。だが、それが余計な感情を生み出したのだ。
「金城伯は皇太子殿下の異母弟に近づいていると噂になっています」
静樂が手巾で涙をおさえながら言った。
「それは誰?」
「晋王殿下です」
晋王は故端妃の皇子で、尚書令の末娘を許嫁にしていた。尚書令と晋王を引き合わせたのは董修儀であった。そして晋王に目をつけたのは蘭斉だ。蘭斉は晋王を修儀の養子にしようと画策していた。だが、修儀は難色を示した。修儀にはまだ子どもはいないが、いつか産まれてくるであろう皇子を立太子させたいと強く望んでいたのだ。
修儀は晋王を養子にして彼が皇太子になり、そして皇帝に即位したら実母である故端妃を皇太后に追封して、養母の自分は皇太妃として国母として見なさないと考えていたのだ。ならば、国母として敬慕を集める皇太后となりたいとも考えていた。それでも蘭斉らは彼女から尚書令に晋王を引き合わせたのである。
「晋王殿下はいづれ皇太子殿下を陥れるでしょう……」
「皇太子殿下にはお父様がついてるわ。大丈夫よ。それよりも太子妃を何とかしなくては」
「瑛お姐様、わたくしは耐えられます」
「そう……?今のあなたにお願いごとをするのは心苦しいわ。また、出直すわ」
「お願いごと?」
「お屋敷のことよ。玉尚食を招きたいと董蓉が言っていたみたいで。あなたに力を借りようとしたのだけれたど、そのような状況ではないようだし。静樂には借りがあるわ。太子妃のことは何とかする」
「ですが……」
瑛は首を横に振った。
「悪いのは太子妃よ。お父様の人脈で何とかするわ」
瑛はそういうと頭を下げて綺羅殿の正殿を後にした。正殿の外には春蘭と案内役の宮女が控えていた。瑛は案内役の宮女に話しかける。
「選侍様の状況は分かりました。よろしければあなた様のお名前を教えていただけますか?」
宮女は驚いたのか目を丸くした。
「湘児と申します」
「湘児姑娘、何かあったらわたくしか宛国公を頼ってください」
「は、はい」
そこに別な宮女が現れた。今度はこの宮女が案内役らしい。瑛は宮女を先頭に綺羅殿を後にした。瑛と春蘭の姿が見えなくなると湘児は正殿にいる静樂のもとに駆け寄った。
「選侍様、お話になったのですか?!」
「ええ。瑛お姐様なら力を貸してくるわ」
「本当ですか?」
「お姐様に話したら、気持ちが明るくなったわ。でも、一番、お可哀想なのは皇太子殿下だわ」
「元妃様と太子妃様の板挟みですからね」
静樂はため息をついた。そして何かを思い出したかのように湘児に言った。
「湘児、そろそろ元妃様にご挨拶にいかないと」
「お供いたします」
「あなた以外、頼める宮女はいないわ」
静樂が椅子から立ち上がる。そしてゆっくりとした足取りで正殿を後にした。湘児は彼女に寄り添うように歩いた。
秀王から晋王に名前を変更しました。