凌霄花の毒(6)
その日の夜。
潭国公は少星を伴って貞観軒に訪れた。潭国公をもてなすために侍女と使用人たちが部屋を行ったり来たりしている。彼のためだけに料理を用意するだけで瑛は贅沢に感じていた。
「夫人、この蒸し鶏は?」
「特別に仕入れさせた鶏肉で作りました。お口に合うと良いのですが……」
瑛は蒸し鶏を潭国公の皿に取り分けると、すぐに箸をつけた。少しの間、無言が続いたが、先に口を開いたのは潭国公だった。
「美味い。夫人が普段、食べるものはこのように美味い物が多いのか?」
「公爵様が来た時だけです。普段は張姨娘が仕入れた食材で湯を作ったり、粥を作ったりしています」
「そうか。瑛、実は相談がある」
夫人と呼ばず、潭国公は彼女を名前で呼んだ。すかさず瑛は身構える。
(何かあるわ……)
「董蓉が玉尚食を招きたいと願い出てきたのだ」
「尚食をなぜです?玉尚食はお忙しいのでは?」
尚食とは尚食局の女官、宮女たちを束ねる上級女官である。唐朝では尚食の定員が2名となっていた。みなみに尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功を合わせて「六尚」と呼んだ。尚食局に限らず「六尚」の下には四つの部署がある。尚食局なら司膳司、司醞司、司薬司、司饎司があり、それぞれの仕事に従事していた。
「なんでも修儀様が董蓉や私たちに宮廷の料理を味合わせたいとか……だが、食材をこちらで仕入れないといけないらしい」
「宮廷で使われている食材をたかが国公が用意するのは無茶です。お断りしましょう……公爵様からお話できませんか?」
潭国公は深いため息をついた。その様子から彼はこの話が断りずらいものだと分かった。しかし、容易く手を差し伸べるのは間尺に合わない。瑛は悩むふりをしながら潭国公が何を言い出すのかと待った。
宮廷の料理は実に凝ったものがある。燕の巣を例にあげると白燕より貴重な血燕と呼ばれるものを使う。そして珍味をふんだんに使って皇帝や妃嬪らの舌を楽しませ、舌を肥させた。その舌を唸らせる食材を手配する光禄寺が血眼になって仕入れてきた物が簡単に手に入るわけがないのだ。楊貴妃の茘枝が彼女の物だけのように、皇族のものは皇族のものなのだ。
「董蓉の手前、断るわけにもいかんのだよ」
「董姨娘の手前ではなく、修儀様の手前の間違いでは?」
「瑛から何か言ってくれないか?瑛には再従姉妹李選侍がついているだろ?」
潭国公の目は必死だった。主導権は全て瑛になっている。ここで助けようと思ったが、瑛は謹慎を言い渡した相手が今度は懇願してきたのが面白くなってしまった。
「困りましたわ。静樂は確かに再従姉妹ですが、既に雲の上の存在ですし……修儀様と不仲な元妃様にもお話できませんものね」
「あ、宛国公は?宛国公から何か!」
瑛は芝居ががったようにため息をついた。見え透いた芝居だったが、潭国公は気づかないくらい動転しているようだった。
「わかりましたわ。そこまで必死なら何とかしないといけませんね」
瑛は優しい声音で囁いた。すると潭国公は瑛を抱きしめて何度も何度もお礼を言った。彼女は不快だった。潭国公は実に情けない男だったからだ。潭国公の耳には入っていないが、陰で人々は彼を「叔母の七光り」と呼んでいた。「日和見公爵」や「董家の言いなり男」とも呼ばれているが、潭国公がいる前では平然を装って口には出さなかった。出せば、出せで元妃が黙っていないだろうし、元妃自身も彼をそう思っているに違いないからだ。仮に元妃がこの件で何か行動を起こさしたら、潭国公に向けられた言葉を肯定することになるだろう。肯定もなにも実際、潭国公はそういう男であった。
「公爵様、体を離してください。苦しいです」
「すまない!」
潭国公は瑛から体を離した。まだ、主導権は瑛にあった。
「明日、静樂に会いに行っても良いですか?」
「構わない。行ってくれ!」
「わかりましたわ。公爵様、約束してください。今度から董姨娘の話は聞かないでくださいますか?」
「それは可哀想だ」
「なら、静樂には会いに行きません」
瑛はそっぽを向いた。潭国公は渋々言った。
「分かった……約束する」
「それでようございます」
瑛は顔を潭国公に向けた。董蓉の話をした途端に表情や言動が変わる彼をどう愛せば良いのかと胸を過ぎる。初夜は邪魔され、謹慎にさせられ、尻拭いをたのまれ、瑛は前世で何か業があったのかと思うくらい、ここ最近は運が悪い。
(今度、祈祷してもらわなきゃ……日頃から徳を積まないとこうなるのね。私も公爵も)
「この埋め合わせは必ず……」
「そのお気持ちだけで満足です」
瑛は無欲な「良妻」を演じてみた。
「それでは瑛に悪い。今まで酷いことをして……自分でも分かっているんだ。今も酷いことをしていると」
「自覚がおありで?」
「はっ!」
「誰しも、そういう時はあります。お気にならさらないでください」
潭国公は口を滑らせてしまった。瑛は微笑み、彼の白い手に自分の手を重ねて言った。
このまま瑛は主導権を握ったまま、夜は深くなっていった。食事を終えると潭国公の使用人と瑛の使用人が慌ただしく行ったり来たりを繰り返していた。膳を下げる者、潭国公の口をゆすぐ道具を持ってくる者。瑛はこれから、この情けない男に身を委ねなければならなかった。瑛は高揚感を覚えたが、それは夕食の時に少しだけ口をつけた酒のせいだと思うことにした。
春蘭、冬梅、少星は嬉しいそうに同衾の準備をしている。瑛は潭国公とは別の部屋に呼ばれて、そこで身なりを整えた。使用人たちは紅粧、厚化粧をさせようとしたが、それを突っぱねて薄化粧に変えてもらった。ただ、眠るだけなのに紅粧にするのはなぜだが気が向かなかったからだ。絹の寝巻きを着せられて、結っていた髪を下ろされて丁寧に髪を梳かれた。
「もういいんじゃないの?」
瑛が髪を梳く使用人に聞いた。
「公爵様と夜に過ごされる姨娘たちも同じことをしています」
「そう……虢国夫人は眉を描いただけで皇帝に会うことができたわ」
虢国夫人は楊貴妃の姉であり、玄宗皇帝のお気に入りでもあった。彼女は白粉を嫌って眉を描いただけの薄化粧で御前に仕えた。虢国夫人が美貌であったかは知る由もないが、瑛が思うに虢国夫人は容姿に自信があったのだろうと。そうでもなければ、薄化粧で皇帝の前に出られないだろう。
(今のわたしの装いだと皇帝陛下の前には恥ずかしくて出れない……董蓉みたいな華やかさは私の顔にはないものね)
「用意ができました」
少星がそう言いながら別室に現れた。瑛から使用人たちが離れると少星は自分についてくるように告げた。瑛はそれに無言で従った。少星は瑛を先導するように前を歩いた。誰も住んでないような不気味な静けさが辺りに漂う。姨娘たちが潭国公のお召がかかった時も同じような静けさが漂うのかと瑛は疑問を抱いた。
「奥様、こちらです」
瑛が部屋に足を踏み入れると帳向こうにある寝台のへりに座る潭国公の姿が目に飛び込んできた。潭国公も同じように絹の寝巻きを身にまとっている。
「公爵様」
瑛が小さな声で彼を呼んだ。
「瑛、綺麗だ」
あの情けない男から放たれた言葉に一瞬、目眩がしそうだった。しかし、瑛は冷静になろうとつとめた。この言葉は誰にでも言っていると決めつけた。董蓉にも陳姨娘にも言っている。
「ありがとうございます」
潭国公は手を差し伸べた。瑛はしどろもどろ彼に歩み寄って、その手を握った。
「すまなかった」
潭国公が心底悲しそうに瑛に言った。それから瑛の記憶はなくなっていた灯りが消えた時、肌を重ねた時、全ての記憶が消えていた。覚えているとしたら、わずかに感じた体温だけだった。