雨の花海棠(2)
瑛は自分の部屋の貞観軒に早歩きで向かった。
貞観軒は東の棟にあり、以前は潭国公の生母・薄氏が住んでいた場所である。潭国公の薄氏は3年前に亡くなっており、それから誰も住んでいない部屋であった。
薄夫人は故潭国公の正妻であった。故潭国公が亡くなると薄太夫人と呼ばれて丁重に扱われていた。あの威を借りて正妻ぶる董蓉を窘めることもあった。
そんな董蓉を抑え込むために太夫人は正妻候補として何人かの令嬢を目につけていた。しかし、後宮の董修儀は彼女に圧力をかけた。寵愛を得た董修儀が自分の一言で潭国公の爵位はなくなると言ってきたのである。家は潰せるとまで言ってきた。薄太夫人は董修儀からの圧力に負けて董蓉を正妻にしようとしたが、それに反対をしたのが義妹の馮元妃だったのだ。
馮元妃は寵愛を賜る董修儀が熱心に皇子出産を願っていると聞いて、自身と息子の舒王の脅威になると感じていた。それ故に馮元妃は董修儀をはじめとする董一族を警戒していたのである。薄太夫人は馮元妃から宛国公の令嬢を紹介された。それが瑛だったのだ。
宛国公は馮元妃の息子・舒王に貢献していた。それ以前に立后できなかった馮元妃に何かしてやりたい皇帝は舒王を皇太子にしようと考えていたのである。それに賛同したのが宛国公だった。彼らは大衡国建国時代から仕えており、朝廷内での発言力は強い。
「舒王殿下は品行方正であり、名君の器があります。また、殿下の訪れた先で白い雉が現れ、彩雲も空に広がっていたそうです。これは吉祥…立太子の儀式を行うべきです。天は慶事を望んでいるのです」
宛国公の発言は皇帝も無視できない。しかし、彼の発言で舒王の立太子は確実になったとも言える。皇子のいる妃嬪たちの願望に釘を刺すかたちになった。だが、それでも董修儀は諦めてはいなかった。以前にも増して神仏への祈りが激しくなったのだ。ここまできたら執着である。
そんなことがあり、馮元妃にとっては宛国公は恩人であり、強力な後ろ盾になっていた。馮元妃はその恩を返すために宛国公の娘を紹介した。そして薄太夫人は正妻として鄭瑛を迎えるようにと遺言を残して亡くなった。しかし、それが瑛の長い戦いの始まりだった。
瑛は偶然、目に入った庭に生えている花海棠に心惹かれた。花海棠は雨に濡れている。そして柔らかな桃色がほろ酔いの頬に見えた。冬梅が瑛に声をかける。
「奥様、花海棠はご実家にもありましたね」
「咲いていたわね…花海棠は楊貴妃の寝起きの顔なんですって。母が言っていたの。夜に飲んだお酒が残ったままの寝起きの顔って……梅妃に嫉妬して深酒をしたのかもね」
すると春蘭が小さく笑った。
楊貴妃と梅妃は唐朝の皇帝、玄宗の妃嬪たちである。楊貴妃と梅妃は敵対する仲だった。
「楊貴妃も嫉妬をして深酒をなさるのですね」
「春蘭、もしかしたら梅妃がしたたかなのかもよ?深酒するように仕向けたのよ」
「どっちも考えられるけど、こればかりは証人がいないから分からないわ。ただ、これから私もそうなるのかしら……まあ、負けないけど。2人とも行くわよ」
3人は再び歩き出した。貞観軒へ向かう最中、何人もの使用人たちと通り過ぎた。皆、瑛たちに頭を下げるも同情的な眼差しを向ける者が多いように感じた。
直線の廊下に差し掛かった時だ。正面から歩いてきた侍女がすっと、足をかけてきた。冬梅はその足に引っかかり、倒れてしまった。瑛は一瞬、何が起きたのか分からなかったが、春蘭の冬梅を呼ぶ声で状況を理解した。
冬梅は春蘭の手を借りて立ち上がると、足を出てきた侍女を平手打ちした。女中は打たれた頬に手を当てながら言い放った。
「痛いじゃない!何するのよ!私は董姨娘の侍女よ!董姨娘に言いつけてやる!」
すかさず冬梅が強い口調で言い返した。
「足をかけてきたのはあんたでしょ!私は奥様の侍女よ!董姨娘に言いつけても奥様には敵わないわ!」
2人は睨み合う。その応酬を聞いた瑛が怒鳴った。
「やめなさい!董姨娘の侍女と言ったわね?名前は?」
「采容でございます…」
「采容、冬梅が正しいなら彼女が転んだのはあなたの仕業よね?」
「私めはそんなこと…」
「自分の足元を見てご覧なさい」
采容が自分の足元を見ると泥で汚れている。
「次に冬梅の足元を見せてみて」
すると冬梅の足に泥がついていたのだ。これに采容は黙り込んでしまう。
そんな中、春蘭はあることに気づいてしまう。
「采容さん、着物が濡れているわ」
(なるほどね…わざわざ奥様に意地悪をするために庭を近道にして待ち伏せしていたのね)
「こ、こ、これは…」
「春蘭、冬梅、この棟の先にはどなかが住んでいたかしら?采容、あなたのよくご存知の董姨娘ね。采容、風邪をひくから特別に生姜湯を届けさせるわ。それを飲んだら頬を10回、貞観軒に向かってぶつように。忙しい董姨娘の手を煩わせることはしないわ」
「はい…失礼します!!」
采容は董蓉の部屋がある棟へと駆け足で去っていった。采容が去った後に花海棠の花びらが雫を帯びて数枚、落ちていた。
「花は咲いていれば愛でられるけれど、花びらだけになると見向きもされないのね」
その場から離れて貞観軒の前まで歩いていくと長身の男が立っているのが見えた。夫の潭国公だ。
瑛たちは慌てて潭国公の元に走り、早口で挨拶をした。
「公爵様…」
「いつまで待たせるのだ?」
潭国公は怒っているようには見えなかったが、彼を待たせたのは瑛の失態だが、来訪するなら一言伝えて欲しいものである。
「春蘭、冬梅、公爵様を案内して」
潭国公は2人に連れられて貞観軒へと入っていった。その場には彼の侍従である少星が笑顔を浮かべていた。瑛はなぜ笑顔なのか少星から事情を聞いた。
「公爵様は初夜を共に過ごせなかったことに後ろめたさを感じていたのですよ」
「え?」
少星が言うには婚礼の食事で出された酒、喜酒がやたら強くて潭国公は寝てしまったそうだ。今日、貞観軒を訪れたのは、初夜の穴埋めの為だった。
瑛が貞観軒に入るて潭国公は椅子に腰掛けて茶を飲んでいた。瑛は対向かいに腰を下ろした。すると潭国公は隣に座るように彼女にいった。
潭国公とようやく言葉を交わし、夫婦の会話ができると思った矢先だった。
貞観軒に董蓉が現れた。彼女は潭国公を見るなり、彼の足元で泣きじゃくった。
「どうした?何かあったのか?」
「私の侍女が奥様の侍女にぶたれたのです…長年、奥向きを仕切ってきた私めの女中が…」
「董姨娘、先にぶたれるような事をしたのは采容よ?冬梅に足をかけてきたの」
「それでもあんまりですわ!」
潭国公は瑛の方を向いて申し訳なさそうに言った。董蓉は手巾で目尻をおさえながら泣き真似をしている。瑛の目には見え透いた真似である。
「蓉をなだめてくる。夜は一緒に夕食をとろう」
そう言って潭国公が董蓉を立ち上がらせて肩を抱き、そのまま貞観軒を後にした。瑛は悔しくなった。夫を引き止めることができないことに無力さを感じて悔しくなったのだ。
一方で董蓉は自分をにとことん敵視していることがわかった。
「董蓉…負けない…あの女に絶対、負けない!」
瑛は董蓉の部屋である臨香軒へと向かおうと廊下に出た。春蘭は瑛を止めようとしたが、彼女は聞かなかった。2人は慌てて言った。
「奥様!いけません!嫉妬は厳禁ですよ!」
「春蘭の言う通りです!」
女人の嫉妬はご法度だった。婦徳に背くからである。しかも、嫉妬だけで離婚の原因にされることもあった。だが、潭国公府のお屋敷や皇宮の後宮には嫉妬で満ち溢れていた。
2人の言葉を聞いた瑛はぴたりと立ち止まった。彼女が振り向いた。目には涙を貯めている。そして嗚咽混じりに2人に向かって言った。
「悔しいじゃない!あんな見え透いた芝居に負けたのよ!」
そこによりによって厨房係の若い下女が鉢合わせてしまった。怒り心頭の瑛を見て恐る恐る声をかけるか迷っているようだった。春蘭が用件を尋ねるとどうやら下女は夕食の用意で確認したいことがあったらしい。
「奥様、厨房で主菜をどうするかと…」
「好きにすればいいわ!公爵様が戻るか分からないのに…」
冬梅が落ち着かせるように言い聞かせる。
「そのようなものの言い方は印象を悪くしますよ。使用人たちが悪い噂を流すのが目に見えています」
「分かったわ……失礼なものの言い方だった…ごめんなさい……」
瑛の言葉を聞いた下女がその場に崩れ落ちた。そして床に額をつけて堰を切ったように泣き出した。
「申し訳ございません!わたくしめは奥様に謝罪に伺ったのです…ただ機会がなく…献立を聞いてくるのは口実で…」
冬梅の言葉に瑛は平常心を取り戻しつつあったが、下女の言葉でまた心が乱れた。下女の言葉に訝しんだ春蘭がすかさず瑛を部屋の中に招き入れた。
「奥様、お座り下さい」
そして下女に目配せを彼女も部屋に入れた。
何かあると春蘭が気づいたのである。彼女は部屋の扉を閉めた。春蘭は冬梅と一緒に扉を塞ぐように移動する。
瑛は椅子に座り、女中は彼女の前に跪いた。
「名前は?」
「夏荷と申します。母親の代から厨房で働いております」
「夏荷、あなたがしたい謝罪ってなんの事かしら?わたくしに関係あること?」
瑛が尋ねると夏荷は息を一回吸ってから、自分を落ち着かせて話し出した。
旦那様?公爵様?潭国公?
どう書いたら分かりやすいのか模索しております。
変更もあるかもしれません。