凌霄花の毒(2)
あれから、楊充媛は色々なものに興味がなくなり争うこともしなくなった。色彩に満ちた世界から、彼女は自ら白黒の世界に閉じこもっていた。元妃は彼女を何とか元の世界に引き戻したがったが、それを拒んでいるように感じた。
「わたくしの願いは元妃様がすぐに立后されることです」
「すぐに立后されるのは難しいわね。尚書令が反対を続けているの」
「尚書令は何と?」
「先朝の血を引く皇后は大衡には不吉と喚いてる……尚書令より目障りなのは礼部侍郎の蘭斉だわ。あの男は水面下で何をしているのか」
元妃はため息をついた。蘭斉の家系は大衡国の建国から追従している「古株」の家系だった。何人もの女人たちが後宮に入内して妃嬪となり、男子は官職を得ていた。
そんな蘭斉は清廉潔白とは無縁の男で汚職の噂が絶えなかった。尚書令に付き従っているのは、北趙の血を引く元妃を立后させたいのではなく、蘭家から皇后を出したいからである。先程、述べた通り蘭家は妃嬪を出してはいるものの、「后」はいなかった。
尚書令は大衡国に北趙の血を入れたくなかった為か、蘭斉の思惑を知ったうえで彼と立后を反対している。尚書令の祖父の代に現れた北趙は彼らを迫害した。それもあり、尚書令は北趙の血を引く元妃を毛嫌いし、その息子である皇太子も嫌った。
「蘭斉は汚い男にございます。元妃様をいつか陥れるに違いありません」
「それが怖いのよ。皇太子を産んだ時、太史監が陛下を凌駕する星と告げさせたくらいの男よ」
太史監とは天文を司る官僚のことであり、彼らは星読むことで皇族に影響を与えていた。しかし、その読んだ星が皇帝を凌駕するという恐ろしい運命を宿しているのかというとそうではない。星は銀子で動くのだ。
「皇太子とこなたは離れて暮らしたわ。皇太子はまだ10歳にもなっていないのに舒王に冊封されて、皇宮を出た……こたは後宮の偏門を何度も何度も叩いて、外に出ようとしたわ」
「子を失った悲しみは深いものがあります……失意の底に落とされて……わたくしめは泣きながら自分を責めました。それから何度も腹をさすりました」
「充媛、あなたにこなたと同じ思いはさせたくなかった。目をかけていたからこそ、幸せになって欲しい」
その言葉を聞いて楊充媛は体を屈めて元妃を真っ直ぐに見つめた。
「元妃様、まずは立后を。皇后になれば、尚書令も蘭斉も修儀様も手出しはできません。天下の母なり母儀天下の模範となるのです」
「天下の母……」
「さようです。僭越ながら、元妃とはいえ側室です。同じ側室だからこそ、修儀様は元妃様を狙うのです。わたくしめには抗う力はありませんし、闘争などには向いておりません」
「わかっている。あなたは、子どもの仇は取りたくないの?」
楊充媛は俯いた。子どもの仇を取れないと決めつけていた彼女に元妃の言葉は胸に刺さった。しかし、争う気などさらさらない。その前に争うまでの力がなかった。
「わたくしめは……」
「こなたが仇を取るわ。天下の母になる前にあたなの無念を晴らしてみせる。誰か!」
部屋の外に控えてきた侍女が元妃の前に現れた。侍女は丁寧に頭を下げると黙って彼女の言葉を待った。
「宛国公を直ぐに参内させて」
「かしこまりました」
侍女は朱色の裙を翻して部屋を後にした。楊充媛は元妃にどう言葉をかけて良いのか検討がつかなかった。彼女がしたいことはぼんやりとなら分かるが、それを言葉にするまでの知恵が楊充媛にはなかった。
「宛国公なら、こなたたちの味方よ。甥より力になるわ」
「潭国公を見限られたので?」
「あの子の頭は董薇……修儀の妹のことでいっぱいよ。でも、宛国公の娘には目もくれない。当たり前よね、方や政略結婚で方や恋愛結婚だもの」
「潭国公夫人には酷な話ですわ。潭国公も元妃様を見限るかも……」
元妃はゆっくりと首を横に振った。
「あの子が今の地位にいるのは、こなたがあったからよ。日和見な性格だから、雁門郡公や修儀に肩入れし始めているはずよ。雁門郡公は早めに潰すべきね」
そう元妃は言い切った。雁門郡公は董修儀と深い関係にある。彼女を支持しているのは、雁門郡公の妹である陳氏が董修儀の奶娘だったからだ。その頃の雁門郡公府は見た目こそ豪勢だったが、中身は貧しく質素な生活を強いられていた。そこに豪商董家から奶娘を探していると人づてに聞いた陳氏が実際に董家に出向き、奶娘として働くことになったのだ。陳氏には娘がいたが、董蓉の奶娘として働くために親類に預けたのである。
董家の当主で董薇、董蓉の父は貴族出身の陳氏を重宝して、財産を与えた。陳氏に与えらた財産は一生分以上であり、彼女は斜陽の雁門郡公府に多額の仕送りをしていた。
陳氏に育てらた董薇と董蓉を父はいつか入内、叶わなければ貴族に嫁がせたいと望むようになった。そして、董薇が入内することになると彼は雁門郡公に金銭の援助を申し出て、その代わり後宮で娘を支持するように取引を持ちかけた。陳氏からの仕送りで貴族らしい生活を取り戻し、贅沢を知ってしまった雁門郡公はそれに応じた。なぜなら、陳氏がいつまで存命するか分からなかったからだ。一度、手に入れた贅沢を手放すことは彼らには難しかった。贅沢を手放して以前の生活を再びすることを極度に恐れていた。
元妃と楊充媛の元に掌事宮女の盈月が皇帝付きの太監である、房公公を伴ってやって来た。(掌事宮女とはその殿舎に仕える侍女長)楊充媛は立ち上がり、元妃の座る椅子の脇に立って盈月と房公公に視線を落とした。
「房公公、どうなさったのかしら?」
「楊殿の功績をいかにして評価すれば良いのかと助言をいただきたいとのことです」
元妃が尋ねると房公公は笑いながら皇帝の言葉をありのままに告げた。
「こなたには分かりかねるわ……娘の充媛は父親の昇任を断ったの」
「さようでございますか。ですが、功績を残した家臣を評価しないのはいかがなものでしょうか?」
「房公公の言う通りだわ。陛下に楊殿を工部侍郎に昇任させてみては、っとお話してください」
元妃の言葉で楊充媛の顔色が変わる。内心で父親の昇任を歓迎していなかったからだ。
「元妃様、わたくしめは……」
「言ったでしょう?あなたの子どもの仇を取ると」
「元妃様……」
「房公公、そういえば淳王は元気にしているかしら?」
「淳王殿下なら奶娘たちに大切にされております。ただ、時折、暗い表情を見せるそうです。母君が恋しいのでしょうね」
「王貴嬪が亡くなって3年も経ったていたわね。淳王は確か、12歳ね。彼には温かみのある性格の養母が必要だわ。養母がいれば淳王も拠り所ができるし、奶娘たちも安心するはずよ」
「ごもっともです。では、どのお方になさいますか?」
「色々と当たってみるわ」
「かしこまりました」
「盈月、房公公を宣室殿に送ってきて」
「かしこまりました」
房公公は盈月に先導されて皇帝の住居である宣室殿へ繋がる廊下に出て行った。
「充媛、あなたも休みなさい」
「……わかりました」
楊充媛は元妃の前に立つと深々と頭を下げた。頭を上げたときの表情は何か言いたげだったが、彼女はそれを抑えていたのか言葉を発しなかった。1人になった元妃は淳王の養母を決めるために侍女へ命じて尚宮局にある妃嬪の名簿を持ってこさせた。尚宮局は名簿や文書を管理し、総務の仕事をしている。名簿を眺めていたが馮元妃の中では淳王の養母候補は絞られていた。
「実母が貴嬪なら、同等の身分か…それ以上の身分が必要ね…」
「元妃様、宛国公がお目にかかりたいと。ちょうど、朝議に出ていたそうです」
そこに侍女が彼女に声を掛けた。