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紫の繍球花(10)

 鏡越しに瑛が綺麗に仕上がっていく様子を冬梅は見ているしかなかった。女人としてではなく、「正妻」として装っているという気概すら感じる。そこに春蘭が戻ってきた。春蘭は瑛に声をかけようとしたが、冬梅が自分の口元に人差し指を立てて「静かに」っと言った。2人は「正妻」が出来上がる瞬間を見届けた。

「正妻」が出来上がる頃に静樂の侍女がやって来て、扉越しに取次を願い出た。瑛は2人に目配せをすると、春蘭と冬梅もお互いに目配せをする。気の強い春蘭でも太子宮の侍女には敵わないと思っていたのだ。しばらく、無言で用事を押し付けあっていたが、最終的に冬梅が侍女の取次を受けることになった。

姑娘(ぐーにゃん)、ごきげんよう」

 姑娘とは若い娘に使う言葉である。一方で後宮に仕える中堅の侍女たちは姑姑(ぐーぐー)と呼ぶ。また、乳母のことを嬤嬤(モモ)と呼ぶこともあった。嬤嬤は年配の女性の敬称でもある。

「小主が奥様に広間に来るように、っと仰せです」

「かしこまりました。申し伝えます」

 侍女は事務的で表情も変えず、鷹揚のない口調であった。冬梅の言葉を最後まで聞くと頭を小さく下げて広間へと戻って行った。冬梅は部屋に戻り、瑛に侍女の言葉をそのまま伝えた。すると瑛は黙って鏡台の椅子から立ち上がった。

「春蘭、冬梅、こちらも宣戦布告するわよ」

 瑛はそう言って卓上の手巾を手に取り、それを握ったまま貞観軒を後にする。瑛の後ろに春蘭と冬梅が従う。いつもはあっという間に通り過ぎてしまう廊下が長く感じた。

 ゆっくりと瑛は広間に足をすすめる。その様子は凛としていた。瑛の容姿は華やかさも慎ましやかさもなかった。ただ、清楚で瞳に光を宿していた。その光は時に暖かく、ときに冷たく光る。柔らかいと思えば、鋭くなることもあった。董蓉が牡丹なら瑛はそれを揺らす風だろう。

 広間の入口には侍女が控えており、少し見えた広間の中には静樂の姿が確認できた。瑛は息を吐いた。そして瑛は考えた董蓉にないもの、それは「正妻」のお屋敷での立場だと。いくら差配役であろうと董蓉は妾なのだ。

 嫡庶を厳密に分けることは序列を作る。その序列を守るために規則を作る。後宮でいう品階も序列を守るための規則だ。

 皇后を頂点に従四品の采女(さいじょ)までを皇帝の妻妾として扱う。彼女たちは御前に仕えるが、それ以外の女人は正五品の尚宮(しょうきゅう)尚儀(しょうぎ)尚服(しょうふく)尚食(しょうしょく)尚寝(しょうしん)尚功(しょうこう)という上級女官の宮官(きゅうかん)と総称されて後宮の仕事に従事した。侍女は後宮の仕事に従事するというよりかは、主人たちの生活全般に従事した。

 簡単に言えば宮官が公的な部分で侍女は私的な部分に従事していた。

 瑛に気づいた侍女が彼女に一礼をすると、さっきの侍女のように事務的に静樂へ取次をする。静樂の言葉は別な侍女を通じて瑛に伝えられた。

「小主がお目にかかりたいと仰せです。お入りください」

 侍女の言葉に瑛は内心で滑稽だと思った。潭国公は言わば自宅だ。自宅の広間に入るのに許可がいることが面白く、またおかしく感じたからである。

 瑛が広間に足を運ぶと目の前に静樂が座っていた。その脇には潭国公が気まずそうに座っている。広間は花が飾られており、芳香が漂っていた。その芳香が瑛にはきつく、嫌な匂いに感じた。この匂いと同じ董蓉を思い出したからである。

(嫌な匂い……この匂いに寄り付く蝶はいるのかしら)

 瑛の姿を見た静樂は口角を少し上げた。そして穏やかな声で彼女に告げた。

「お姐様、お久しぶりですね。お元気そうでよかった」

「小主こそお元気そうで……しばらく外に出られなくて」

 その一言を聞いた潭国公は二人の会話に入ってきた。

「夫人は病……えっと、風邪をひきまして……」

「公爵、わたくしはお姐様とお話したいの。邪魔は良してください」

「つい……」

 瑛は2人に見つからないように笑った。「正妻」を謹慎にしたと思われたくない潭国公の取り繕う姿を見て、この男は自分自身のことしか考えていないように瑛の目には映った。保身に走る夫は道化師のようだ。

「小主、良いのです。公爵様はわたくしを思って言ってくださったのです。まさか、正妻のわたくしを謹慎にしていただなんて、わたくしの面子がたちませんもの」

「夫人!何をでたらめを!」

「潭国公、どういうことでしょうか。詳しくお話を聞かせていただけるかしら?」

「私は関係ありません!如真、いや、陳姨娘だ!」

 潭国公は思い出したかのように陳姨娘の名前を叫んだ。

 静樂は侍女に「陳姨娘を連れてくるように」っと命じた。

「潭国公、見苦しいですよ。その陳姨娘も交えてお話しましょう」

 静樂は終始、柔らかな笑みを崩さなかった。口調も優しく穏やかだった。元妃のお気に召した理由がわかった。そしてこのように柔和では温厚な人間ほど堪忍袋の緒が切れたときに般若に変わるのだと瑛は知っていた。


 しばらくして、うなだれながら陳姨娘がやって来た。潭国公は彼女に全てを擦り付けるために言葉を選ぶことにした。静樂の前にやってきた陳姨娘は一礼をすると弱々しい口調で彼女に言い始めた。

「奥様へのご挨拶に茶を捧げたところ、受け取って下さいませんでした。そこで手が滑って蓋碗ごと床に……」

「陳姨娘、それは難儀でしたね。その後はどうなさったの?」

「……祖母に、雁門郡公夫人に信件(てがみ)を出しました。返信の内容を董奥様にもお話ししました」

 静樂は口元を袖で隠しながら静かに笑う。陳姨娘は動揺し始めた。

「面白い。雁門郡公夫人は大層、お怒りだったでしょう。雁門郡公夫人の噂を聞いたことがあるの。孫娘を溺愛していると。その感情がお姐様をこのような仕打ちになさったのね。それにしても潭国公府には奥様が2人もいるのですね」

 笑い出した静樂にすかさず瑛が答えた。

「董蓉という妾が差配役をしておりますの。正妻のわたくしがいながら差配を任されおります」

「お姐様、その方にもお会いしたいわ」

 静樂は侍女に董蓉を連れてくるように命じた。董蓉は広間の前で控えていたから、すぐに静樂の前に姿を現すことが出来た。鮮やかな梅花のような色の着物を纏って髪型は双髻にている簪は真珠を使った小ぶりのものを挿している。

「初めてお目にかかります。董蓉と申します」

「蓉……(こう)を渉り(わた)て芙蓉(ふよう)()る…っと、古詩にありますね。そこから名付けられたのですか?」

「さようです。古詩からつけられた名前にございます」

「芙蓉のような愛らしさというより、牡丹のような方ですね。ただ、自分を牡丹と思い込んだ芍薬かもしませんね」

 牡丹「花の女王」と呼ばれる。牡丹の花はは皇后を意味することもあった。つまり、「正妻」の花だ。芍薬は「花の宰相」と呼ばれており、牡丹とは対になっている。静樂は董蓉を「正妻」ではないっと回りくどく言ったのであった。もちろん、董蓉はそのことに気づいていた。

「芍薬も美しい花です。小主は牡丹と芍薬、どちらがお好きですか?」

「わたくしはどちらも好きではありません」

 静樂は柔和な笑みを浮かべた。董蓉は静樂の意図が、「正妻」より出しゃばるな、ということを伝えたいのだとわかった。静樂は次に潭国公を呼んだ。彼は冷や汗をかいている。

「小主、何でしょうか?」

 潭国公の声は震えている。

「潭国公のお屋敷の事情は実に複雑ですね。わたくしでは判断しかねます。ただ、誰が「正妻」で誰が主母であるかを考えてくださいね。潭国公、この話は元妃様にお話しても?」

「……はい」

 潭国公はうなだれながら力無く返事をした。それを横目に瑛は勝ち誇ったような気持ちになった。

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