紫の繍球花(9)
潭国公は頭を抱えるしかなかった。瑛の従姉妹である、しかも皇太子の側室になる静樂が今のお屋敷の状況を知ったらどうなるだろうと考えた。少星が急かすように潭国公に尋ねた。
「公爵様、どうなさいますか?」
「どうもこうも……何故、静樂小主がうちに来るのだ?確かに小主は再従姉妹になるが……」
精悍な顔が一気にこわばる。少星は内心で呆れつつ、彼の言葉を待った。潭国公は瑛を迎えてから奥向きで起きる様々なことが誰かに知られてはならないと考えていた。しかし、陳姨娘が奥向きのことを祖母の雁門郡公夫人に知らせてしまった。そこは別に良かった。雁門郡公とは長い付き合いだし、妾が正妻に対して不満を抱いて身内に愚痴を吐くのは当たり前だと思っていたからだ。
だが、今回は違う。正妻の実家である宛国公府に知られてしまった。これにはどう対応するべきだろうか。潭国公は思わず少星に強い口調で言いつけた。
「董蓉!董姨娘を呼べ!」
「公爵様?いきなり何を?!」
奥向きの全てを董蓉に任せていた潭国公が頼れるのは彼女しかいなかった。さすがに少星はため息をついた。
「董蓉なら知恵がある」
「ですが、夫人のことは董姨娘にお任せすべきではありません」
「仕方ないだろ!我が屋敷では董蓉が第一の妻妾だ。静樂小主と呼んでいるが、小主も側室だ」
「無茶苦茶ですよ……」
「いいから呼べ!」
「はい」
とぼとぼと少星は書斎を後にする。潭国公は董蓉に全てを任せて、全てから逃げようとしていた。
(奥向きのことに男が口だしをては……)
潭国公は一点を見つめながら董蓉を迎えた時のことを思い出した。鮮やかな朱色の婚礼衣装を身にまとい、白い肌がよく映えた。董蓉の額に描かれた花鈿までどうだったかも思い出して、彼女がいかに自分の人生に彩りをを与えてきたかと。
彼女を見染めたのは、董蓉の姉である董薇が入内する前に行われた宴のことだ。宴は董府では手狭なため雁門郡公府で行われており、そこ董蓉は参加していたのである。玫瑰のような華やかの美貌の彼女に潭国公は直ぐに心を奪われた。質素な身なりだったが、美しさは隠せなかった。それから潭国公は彼女に信件を送り、なんとか妻として迎えようとしたが、叔母の元妃が許さなかった。妾として彼女を迎えても彼女は第一の妻妾であった。彼女を迎える前に妾にした張姨娘はその時には情けをほんのわずか与えればよいだけと間になっていた。
少星が董蓉を連れてきた。潭国公は彼女を近くに呼ぶと懇願した。
「頼む、静樂小主の相手をしてくれ」
「それはできかねます」
「静樂小主は太子妃じゃない。側室だ。側室ならお前が饗応しても問題はないだろう?」
「公爵様、わたくしは外命婦の地位も何もない妾です。静樂小主は太子宮では第二位の「選侍」の地位をお持ちですわ。それなら再従姉妹の奥様の謹慎を解くしか方法はございません」
「雁門郡公夫人にはなんと釈明すれば良いか?」
「公爵様、雁門郡公夫人にはありのままお話くださいませ」
(如真が余計なことを……愚鈍な女ね)
董蓉は潭国公の冷たくなった手を取った。董蓉の手は温もりがあった。董蓉は優しい言葉をかける。
「公爵様、お辛かったでしょう。奥様のことで悩まれる姿を間近で見ていましたから……今から点心を運ばせますからね」
董蓉は潭国公から手を引っ込めると少し後ろに下がって深々と頭を下げて踵を返した。その間、彼女は潭国公がいかに情けない事をしているのかと苛立った。
潭国公を名門にしたのは元妃と修儀と呼ばれるくらい女性の力が大きかった。だが、実際に名門に押し上げたのは太祖に従った馮一族と元妃の力だった。
先程とは打って変わったような笑みを浮かべる潭国公は部屋の隅で控えていた少星に命じた。
「夫人の謹慎を解いて静樂小主に謁見するように、っと」
「お屋敷の鍵もお渡し……」
「差配は董蓉に任せる」
潭国公は被せるように言った。少星は肩を落とした。
宛国公の客間に潭国公府から侍女が帰ってきた。
侍女は平坦な口調で静樂に告げる。それを宛国公夫妻も側で聞いてた。
「お迎えできるとのことでした」
「そうですか。ご苦労さま。宛国公、わたくしは再従姉妹に会いに参ります」
静樂は椅子から立ち上がり、真っ直ぐ前を見つめて客間から出ていった。その後を侍女たちが列になってついて行った。宛国公夫人は力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「夫人、大丈夫かい?」
「ようございました……静樂小主をお迎えできるということは瑛の謹慎は解けるということですから」
「そうだな。あとは小主に任せよう」
それでも宛国公夫人は不安だった。潭国公を信じてない訳ではないが、彼がとても難解な心を持っていると感じていた。名門の貴公子として数多の付き合いを見てきたが、一介の郡公にここまで慮る必要はあったのか。潭国公は雁門郡公との仲をこじれさせたくなかったのには何らかの理由がある。それには後宮が関係しているのだろうか。宛国公は気がかりで仕方なかった。
ところ変わって潭国公府。
書斎から出てきた董蓉の元に陳姨娘が駆け寄ってきた。その様子は激しく動揺しているようだった。董蓉は彼女が瑛の謹慎を解く話を聞きつけたのだとすぐにわかった。その上で尋ねる。
「陳姨娘、どうしたの?顔色が優れないわ」
「奥様の謹慎が解かれるって本当ですか?」
「この話は少星とわたくししか知らないはずだけれど……もう噂になっているの?」
「申し訳ございません。少星が書斎に入った時に…盗み聞きを……それに春蘭が采容と話しているのも耳にして……」
「そう。春蘭は采容に何を話していたの?」
「奥様の代わりに董奥様が小主をもてなせ、っと。それではいけないのですか?」
「当たり前でしょ。皇族の側室は私たちとは違うのよ。それに如真、あなたが起因よ?あなたが雁門郡公夫人に信件を出さなかったらここまでの騒ぎにはならなかった」
陳姨娘は跪いて許しを乞う。董蓉は上から陳姨娘を睨みつけて威圧する。陳姨娘は完全に逃げ場を失ったねずみのようだった。しかし、窮鼠猫を噛むという言葉もあるくらいだから油断はならない。
「董奥様、わたくしは愚痴をこぼしただけです!祖母が、祖母が勝手にしたことです」
「他責的ね!」
董蓉はそう吐き捨てると陳姨娘をその場に残して広間に向かった。広間で静樂を迎える予定だから掃除をしなくてはならなかった。
それと同時に貞観軒に少星が訪ねてきた。そして瑛の謹慎を解くと告げた。瑛は恭しく少星の言葉を聞いた。少星はバツが悪そうに付け加える。
「奥様、謹慎は解きますが差配役は董姨娘に任せるとのことでした」
瑛はどっと笑い出した。それには少星も驚く。
「公爵様はどこまでも董蓉を大事になさるのね!謹慎が解けてもお飾りだわ!あーおかしい!ねぇ、私は何をすればいい?静樂をおもてなしすればいいのね。少星、公爵様に感謝を伝えて」
「はい……」
少星は申し訳なさそうに頭を下げると貞観軒から出ていった。瑛は笑ったまま鏡台の前に座った。歩揺を手に取ると、それを高髻に挿した。側に控えていた冬梅が手伝おうとすると瑛はそれを拒んだ。彼女は手持ち無沙汰にならないためか着物を運んできた。鮮やな紫の繍球花の刺繍が入った着物だったが、それも拒んだ。
瑛は手を借りず、全てを自分で完成させるつもりだった。そうすることで自分に喝を入れようとしたのである。董蓉のような美貌はないが、着飾ること、化粧をすることは平等だ。美貌だろうが、なんだろうが、瑛は自分自身をいかに綺麗に見せるかを考えたのである。