紫の繍球花(5)
「父上様
お元気ですか。わたくしは元気ですが、謹慎を言い渡されました。ですが、心配なさらないでください。
それと、後宮の食事に詳しい方がいましたら、春蘭を通じてお知らせください。
また、わたくしが公爵様に嫁いだのに深い事情でもあったのでしょうか?お返事お待ちしております 」
宛国公の手元に信件が届いた。彼は娘からの信件が楽しみで妻の宛国公夫人と目を通した。しかし、「謹慎」という文言を見た瞬間、2人は顔を見合わせて気落ちしてしまった。
「夫人……瑛は何をしたんだろうか……」
「潭国公様に問い合わせては?正妻を謹慎なんて何か理由がありますわ」
「正妻を謹慎なんて滅多に聞いたことないが……」
「わたくしめが潭国公府に伺いましょうか?」
「いや、事が大きくなるかもしれぬ」
「でしたら……」
宛国公夫人は宛国公に耳打ちをした。それを聞いた宛国公は苦い顔をする。それとは反対に宛国公夫人の表情は明るく、どこか自信のあるように見えた。
「早速、準備いたします」
宛国公夫人が控えていた侍従に宛国公の世話を任せるとすぐに使いを出した。宛国公夫人が使いを出したのは李家は吏部尚書のお屋敷だった。吏部は人事と主に文官の評価を司る部署である。尚書とは長官のことだ。
吏部尚書は宛国公夫人の従兄弟で、彼の娘である静樂は皇太子の側室に選ばれていた。その静樂を潭国公府に遣わすことを宛国公夫人は考えたのだ。彼女はまだ太子宮に入る前だったため、人々から「小主」と呼ばれていた。
将来の皇妃が潭国公府に赴けば、それは名誉である。しかし、その潭国公府にいるはずの正妻、しかも「再従姉妹」が謹慎中となれば静樂はどう捉えるだろうか。しかも、吏部尚書の娘で皇太子の側室ともなれば、そのは発言は無下にはできない。
それでも宛国公は不安だった。宛国公夫人の思惑通りにいくだろうかと頭を抱える。宛国公は侍従の宝海に瑛の謹慎の理由を探りにいくように命じた。
「公爵様、信件で十分ではありませんか?それに吏部尚書からのお返事を待ってからでも」
宛国公は不安が顔に張り付いているのか、ずっと暗い顔をしている。両手で頭を抱えてため息ばかりついていた。それに比べて宛国公夫人は肝が据わっている。
「あなた、大丈夫ですよ!これが功を奏しなくても瑛なら何とかなります」
「そう言われても……理由は知りたいのだよ」
「確かにわたくしめも理由は知りたいです。瑛は気が強いですし……潭国公府にはあの董修儀の妹もいますからね」
「それ以上、言わないでくれ……胃が痛い」
宛国公は頭を抱えていたと思ったら、今度は腹に手を当て苦しそうにし始めた。それを見た宛国公夫人は宛国公の気の弱さに呆れていた。これは毎度のことである。
しかし、朝議の場においては威風堂々としていた。
瑛の気の強さは宛国公夫人譲りだった。しかも、頑固で義理堅いところもだ。
忠臣と讃えらる宛国公府を支えているのは紛れもなく宛国公夫人だ。だが、宛国公夫人は長嫡子の珣、瑛、そして末子の珪以外の庶出の子ども達には厳しかった。宛国公夫人の実家は珍しく妾がいなかった。なぜなら、彼女の生母が皇族の女性だったからだ。
大衡国では公主や郡主らと婚姻を結んでも、妾を置くことを許されていたが、何故か皇族の女性を妻にすると妾は置かなかった。そして男子が産まれなかった場合は傍系の男子を養子にしていた。妾のいない生活を送ってきた宛国公夫人は妾という存在が不思議であり、未知なものであった。
だから、姑の太夫人が接するように厳しく接した。そして自分の「正妻」としての地位を確率していったのである。また、差配は細部まで行き渡らせて太夫人の信頼や信用を勝ちとっていた。それは彼女の中では達成感と喜びが満たされることであった。
しかし、妾の曹氏産んだ琇が嫡子の珣より聡明で勤勉だったのは誤算だった。宛国公は珣を可愛がった。詩経を一緒に諳んじることも文字を教えることもあった。
珣は指をくわえて羨ましそうにそれを見つめていた。宛国公は公平に接していると何回も言い争いの際に弁明したが、宛国公夫人は聞き入れなかった。
そして、宛国公夫人は曹氏と珣を別邸に追いやってしまう。この2人が自分の幸せを壊したように感じていた宛国公夫人は見送りもせず、泣きながら喜んでいた。
だが、今となってそれが愚かなことだと気づいていた。
本当にあれで良かったのかと、もっと優しく出来なかったのかと。2人を追い出したのは宛国公夫人の心の闇の部分だった。
「夫人、元妃様に言われる通りに瑛を潭国公に嫁がせたが、それで董修儀様が贔屓だと陛下に告げたそうだ。しかし、陛下に諭されて婚礼の品や酒を贈ったそうだ。ただ、元妃様と対立する董修儀様がそう簡単に絆されるだろうか?」
「瑛に婚礼の品を贈る理由が見つかりませんわ。ましてや後宮の酒など……皇族が口にするものを易々と下賜することは……」
「これは元妃様の耳に入れなくては……」
一方、宛国公の侍従である宝海は潭国公府の前に馬で乗りつけた。門番は突然の来訪に驚きの表情を浮かべる。宝海は馬から降りると、門番に銀子をちらつかせて尋ねた。
「奥様が謹慎中と聞いた。理由は知っているか?」
「あ、あ、あなた様は?」
「宛国公府の人間だ」
宝海は銀子をももう一つ、ちらつかせる。門番は銀子が喉から手が出るくらい欲しかった。初めに銀子をちらつかせられた時から、
「この銀子があれば、妓楼でいい酒が飲める」
と思ったからだ。
「奥様は雁門郡公夫人と揉め事を起こして……陳姨娘が原因らしいのですが。如何せん、わたくしめは内院のことは詳しくないので……ただ、奥様が正妻になってから何だか、内院は落ち着かない様子です」
「そうか……」
宝海は門番に銀子を手渡して、再び馬へと跨ると宛国公府へ走り出した。
(雁門郡公夫人と揉め事……お嬢様が直接、雁門郡公夫人と言い争いなどしない。雁門郡公……あの門番は確か、陳姨娘と言っていたが……まさか)
彼は馬上で行先を宛国公府から雁門郡公府に変えた。門番の言葉が引っかかっていたのだ。これは雁門郡公夫人が単独で行ったことではないとかんじたからだ。
雁門郡公府の前まで来ると、馬から降りて先程と同じように銀子をちらつかせて門番に詰め寄った。
「雁門郡公夫人はなぜ、潭国公府に行ったか分かるか?」
「下々の者は存じ上げません」
「潭国公府の正妻が謹慎になったことは?」
宝海は銀子を門番の手に無理やり握らせた。しかも、3つもだ。それには門番は驚いてしまう。しかし、銀子を受け取るにはそれなりの事を求めらていた。
「さあ……でも、お屋敷の中では噂になってますよ。郡公夫人はお嬢様から信件をもらって……」
「なるほど」
「旦那、また何かありましたら……」
「また、世話になるかもしれないな」
宝海は馬に跨ると宛国公府へと馬を走らせた。大通りを走っていると遠くから、大きな積荷を載せた馬車がやって来るのが分かった。彼は馬を止めて、それを見つめた。新しい官吏が着任でもしたのだろうと、さほど気には止めずに再び馬を走らせた。
宝海が帰ってきた。
宝海は馬丁に馬を預けると、真っ先に宛国公夫妻のいる書斎へと足を運んだ。書斎に入る前に額に滲んでいた汗を袖口で拭った。そして取次ぎをしてもらった。
すぐに案内されて宝海は2人の前に歩み寄って、深々と頭を下げた。宛国公は宝海の言葉を待っているのか、無言であった。